第105話 VSドレッド・ハラスメント 前編
「私はもともと、ジャーナリスト志望だったの」
焦る俺とは裏腹に、昔を懐かしむような穏やかな声音でドレッドさんは話を続ける。
彼女の手元にあるアルバムに写っているのは……連城村の景色……?
「別に高尚な主義主張があったわけではないわ。ちょうど父や兄がハラスメント絡みで問題を立て続けに起こした頃で、本国には居たたまれなくて。なにもしていない私まで異常者という扱いだもの、さすがに腹が立つじゃない? だから世界には父や兄よりも、もっと異常で悪い連中がいるって証明したかったの。この世の闇を引っ張り出して、平和に生きる人たちの頬に叩きつけてやりたかった。彼らの明るい気持ちに少しでも泥を塗ってやりたかったってわけ」
そう言ってから、彼女は恥ずかしそうに笑う。
「子供だったのよね、結局。要は八つ当たりよ。日本という異国を選んだのだって、縁も所縁も無かったから。虐げられた人々を見ても心が痛まないだろうってね。我ながら大した報道精神だわ」
クスクスと笑い続ける彼女は無邪気そのもので……。
そんな彼女は微笑んだまま、再び写真に視線を落とす。
「連城村。その場所を選んだのも深い理由はない。たまたま全裸村の存在を知って、それで行こうと思っただけ。ただそうね、確信はあったわ。深い闇に触れることになるだろうという確信が。人身売買に性的虐待……薬物あたりも考えたかしら。この手の村の背後には、大きな犯罪組織が関わっていると思っていて……今にしてみれば笑っちゃうけど、当時の私は死すら覚悟していたの」
ドレッドさんの指が、ゆっくりとアルバムをめくる。
「でも実際に連城村に足を踏み入れて、すぐに分かった。私が期待するものは、ここにないと。代わりにあったのは……変態と呼ばれる人々が、平和に暮らす穏やかな光景だけ」
彼女がパラパラとページをめくるたび、四季折々の連城村の風景が目に入った。
それらはすべてドレッドさんの作品集で見た記憶がある。
村の光景に感銘を受け、丸一年をかけ撮影を行ったのだと本人が語っていた。
そして実際、写真に収められた連城村の景色はとても美しかった。
かつての村人というひいき目を抜きにしても、日本が世界に誇れるような……そんな自然豊かで心洗われる場所だったのだ。
「――春は桜が舞い散る中で、みんな陽気に全裸で踊り。夏は蛍のまあるい明かりが、男女の裸体を闇夜に浮かべ。秋は色づく紅葉の落ち葉が、寝転ぶ裸体に彩り添えて。冬は雪が降り積もるなか、みんな輪になり肩寄せあって全裸」
自身の詩をうっとりと呟いてから、ドレッドさんは写真を愛おしそうに撫でている。
「……そこには、ただ人々の生活があった。私はカメラのファインダー越しにそんな連城村の光景を眺めるうちに……知らず知らず、涙を流していることに気付いたわ。この村が、私の目的地でないことは明らかだった。でも『次の場所』に行く気になんてなれなかったの。だって私は、理想の世界を見つけてしまった。人々のたゆまぬ努力によって、この争いに満ちた世界にも理想郷を作ることが出来ると知ってしまったのだから。人の世の闇を暴く? そんなことどうでもいい。私が本当に欲しかったのは、富でも名声でもない。こんな私を、ありのままに受け入れてくれる場所。家名なんて全く気にせず、みんなと笑顔で楽しく暮らせる……そんな場所。私は連城村に来て初めて、自分なりの幸福を見つけることができたの」
そして彼女はバタンとアルバムを閉じる。
彼女は顔を伏せていた。
その仕草は……なにかの始まりを予感させる。
「私には志す革命なんてものはないけれど、あの村にも双龍たちにも恩義がある。だからごめんなさい。あなたのことは足止めさせてもらうわ。この場所に――永遠にね」
そんな不吉な言葉を残し。彼女の姿がすっとかき消えた。
あんなに色づいていたキッチンも今は消え失せ、周囲には暗闇だけが満ちている。
と。
背後に気配。
……嫌な予感は消せないが、かといって無視するわけにもいかない。
俺はゆっくりと振り向いた。
暗闇のその先に一か所だけ不自然なほどに明るい場所があり。
……そこに、ラビュがいた。
美しい金髪。穏やかに閉じられた目はまるで眠っているかのよう。
見つけた瞬間は、彼女が地面に埋まってうたた寝でもしているのかと思った。
けれどすぐに違うことに気付く。
その場に、首だけが残されていたのだ。
そこにいたのは、生首だけのラビュだった。
その姿を見た俺は――。
「ラアアアアアアアアアビュ!」
大声で叫んだ。
そして猛ダッシュしてラビュの生首を慎重に拾い上げ、思いっきり胸元に抱きしめる。
「どおおおおおしてこんなことにぃ! なぜ! なぜなんだ! ラビュがいったい! なにをしたって言うんだああああああ!」
もちろん俺だって分かっている。
ここは催眠世界。この生首も間違いなく偽物だ。
きっと本物のラビュは、今も俺のマンションでのんびりお菓子でも食べていることだろう。
それを指摘することは容易い。
非常に容易い。
だがそれは結局のところ無意味なのだ。
いや、無意味どころか逆効果ですらある。
そもそも催眠は、かけた側が圧倒的に有利な代物。
だからこそ、『これは催眠だ』と単純に喝破しただけでは、普通にねじ伏せられて、催眠が継続してしまう可能性が極めて高い。
俺が恐れたのは、なによりもその展開。
初めは自信があっても、何度も否定されれば『まさかこれは現実なのでは……?』と、疑念の芽が生まれるというもの。
そしてそうなったらもうおしまいだ。
疑念の芽は俺の不安を糧にすくすくと成長を続け、やがてツタのように俺の精神に巻き付き、この場に絡め取ることだろう。
もしかしたらこれは現実かもしれないという疑念を楔として、この催眠は永続しかねないわけだ。
だからこその狂気じみた大騒ぎ。
「ラァァァァビュ! カムバァァァック! ラァァァビュ!」
全てを受け入れた俺は、髪を振り乱しながら大声で叫び、ラビュの首を抱えたまま暗闇の中を猛ダッシュ。
「ラァァァァビュ! おおおおおおおお! どおぉして死んだんだァ、ラァァァビュ!」
そして、暗い床の上をゴロゴロ転がり悲嘆を全身で表現しながら――心はあくまで冷静に判断を続ける。
催眠はただ指摘するだけではダメなのだ。
疑念を完全に消した上で、これは現実ではないと猛烈に主張しなければ。
必要なのは、一点の曇りもない100%の確信。
『この世界は催眠で作られた偽物だ!』と全身全霊のフルパワーで主張することができれば、さすがの催眠世界だってすぐに音を上げて、俺を解放してくれることだろう。
そのことは、ヒャプルさんとの特訓で証明済みだ。
――チャンスは一瞬。
その一瞬をものにするため、準備を万全に整えなければ……!




