(5)姫君は竜と見舞う
見舞いという名目で弟のもとを訪れ、竜競べに出るための竜の相棒ができたことを報告すれば、弟はステファニーが慌ててしまうくらい喜んでくれた。
彼は、ステファニーが伯父との対決を決めたこと、しかもまさかの竜競べな上に、騎乗するために竜が見つかっていないことにとても心を痛めていたのだった。
「本当は、僕が姉上を守らなければならないのに。いつまでも、守ってもらってばかりで本当に申し訳ありません」
「何を言っているの。家族のために頑張ることは、当たり前のことでしょう。謝る必要なんてないわ」
優しく頭を撫でてやれば、安心したように年齢の割に小柄な王子は微笑んだ。
「言葉を話す竜を見つけるなんて、姉上はやっぱりすごいですね」
「笑ってないで、早く汗を拭きなさい。そんな風に身体に負担をかけて。また風邪を引くわよ」
「こんな格好なのは、姉上が突然来られたからでしょう。それに僕は棺桶王子ですよ。風邪なんて、何を今さら」
タオルを差し出しながら、ステフォニーは軽口を叩く弟を叱った。遠い昔生死をさ迷った幼い弟の真っ青な顔が忘れられなくて、すっかり過保護になってしまった自覚はある。
それでもステファニーにとって弟は、何をおいても一番守るべき家族だった。世が世なら王子さまとして華やかに暮らしていただろうに、自身と同じく王宮の片隅に追いやられた哀れな弟。
「それで姉上は、竜競べまでの間、竜に乗る練習ではなくて、刺繍をすることになったと」
「ええ、そうなの。かなり複雑な模様だから、刺繍には文字通り私の血と汗が染み込んでいるのよ」
「なるほど。鉄を嫌う竜が血染めの刺繍を求めるなんて面白いですね」
「刺繍に使うのは、銀の針だから鉄ではないのよ。血が染みてしまったのは、もう仕方がないから諦めてもらうしかないわね」
自分で言いながら肩を落とすステファニーを見て、弟はおかしそうに笑っている。
「それにしても、エルヴィス殿はどうして姉上に刺繍をするように言ったのでしょうか」
「理由はわからないけれど、大事なことみたい。文様に間違いがないか、毎晩きっちり確認しているし。でもまあ、竜競べに協力してくれるんだもの。私にできることなら、どんなことであれ頑張るつもりよ」
そこでステファニーは動きを止めた。廊下から、足音が聞こえてくる。どうやら珍しくこの時間に侍女がこちらに来るらしい。竜競べが決まってからのイレギュラーな動き。きっとろくなものではないだろう。ステファニーは弟を追い立てた。
「早くベッドに入りなさい。元気そうだと思われたら、何をされるかわかったもんじゃないわ」
「まったくおっかない場所ですよ、王宮というのは」
ほの暗い笑みを浮かべながら、弟が布団の中に潜り込む。全身に汗をかいていたので気持ちが悪いのだろう。顔を赤くして、何とも寝苦しそうだ。
「お薬をお持ちしました」
しずしずと侍女が薬湯を差し出してきた。見慣れない侍女であるはずなのに、その横顔に見覚えがあって王女はひとり記憶を手繰る。
(思い出したわ、竜競べで乗る竜を選ぼうと厩舎に向かう時に、髪を結ってくれたのは彼女だわ)
詳細が一切語られない薬に、ステファニーは顔がひきつりそうになる。本当に薬が必要だった時には何も持ってこないで、自分達に都合が悪くなると当たり前のように薬を持ってくるなんて、伯父たちはなんとも自分勝手なものだ。
「私が飲ませるわ。あなたは下がりなさい」
「見届けるようにご指示をいただいておりますので」
薬湯を受けとったものの、侍女は部屋から下がらない。その必死な様子を見るに、おおかた伯父から必ず飲ませるように厳命されているのだろう。下手をすると人質をとられている可能性だってある。柔らかな笑顔で、それくらい伯父は平然とやってのけてみせる。
(面倒なことね)
仕方なくステファニーは、懐に忍ばせていた宝石のように輝く鱗を、器の中に入れてみた。てのひらで器を覆い、侍女から見えないようにしておくことも忘れない。
弟のお見舞い行くと告げた際に、竜から預かってきたものだ。毒を無効化するだけではなく、何かあった際にはエルヴィスにもわかるようになっているらしい。
(万能過ぎるんだけれど。これ、ただの鱗よね?)
ふつふつと泡立つと同時に、薬湯が一瞬真珠色に変わり、また元の色に変化する。顔に出さないままその様子を見つめていたステファニーは、毒味として薬湯を口に含んだ。
とろりと甘い不思議な味。毒が入っていなくても、薬湯というのは不味いのが普通なのに、それすら感じられない。甘露のような飲み物。ゆっくりと飲み込むと、弟に器を差し出した。
「問題ないわ。お飲みなさい」
青い顔をしていた侍女は、頭を下げて慌てて外へ出ていく。伯父のところへ報告に行くのだろう。伯父は従兄弟の嫁としての役割をステファニーに求めているから、ステファニーが死ぬのは好ましくないに違いない。毒消しと称して、また変な薬湯を持ってこなければいいのだが。
「やっぱり毒入りだったようね」
「姉上、身体を張らないでください!」
「器を回収しないでいくなんて、大丈夫かしら」
「何を呑気なことを。早く、吐き出さなくては!」
「本当に大丈夫だから。あなたも飲んでみる?」
不思議そうな顔で恐る恐る口をつけた弟は、首を傾げた後、すぐに目を見開く。そして一気に最後まで薬湯を飲み干し、ステファニーの手を握りしめた。
「姉上、どういうことですか? なんだかぽかぽかしてきました。身体の痛みもなくなりましたし、これはまるで……」
「エルヴィスから、解毒用として鱗をもらっていたの。毒を無効化できるという話だったけれど、無効化するどころか何だか栄養剤みたいな効果まで出ちゃったみたいね」
「竜の鱗は万病に効くと言われています。竜は滅多に鱗を人間に渡さないので、一般には出回らないらしいのですが」
竜の鱗は、自然と生え変わるものではないらしい。しかもむりやりに剥がしとったり、他人に与えられたものを奪ったりすると、万病に効くどころか猛毒に変化するという。
「奇跡というか、なんだか呪いの品のようだわ。伯父さまは、こんなものをたくさん抱え込んでいるということなの……?」
病に苦しんでいる弟を助ける術を持ちながら、伯父は竜の鱗について自分達に話すことはなかった。そのことに胸が痛くなる。もうこれ以上伯父について幻滅することはないと思うのに、新たな事実が明らかになるたびに息がつまりそうになってしまう。
「いやそれでも僕の身体がこんな風になるなんて……まさか、それ竜の逆鱗……」
「え、なあに?」
いいえ、なんでもありませんと彼は、小さく頭を振った。身体を自由に動かせない分、勉学に励みとても博識だったおかげで、鱗の正体に思い当たったらしい。軽く息を吐き、ステファニーの手を握る。
「伯父上が抱え込んでいる可能性は否定しませんが、姉上に渡された鱗はたぶん特別なものだと思いますよ」
「特別なもの?」
「ええ、僕の予想が当たっていればの話ですけれど」
予想を聞いてみたかったが、弟は今のところステファニーに話すつもりはなさそうだった。
「僕が飲んでしまって、本当に良かったのでしょうか」
「貴重なものだったのなら、余計にあなたに使ってもらえて嬉しいわ」
「でも……」
「大丈夫よ。竜競べが開催され、それに参加できる。私はそれだけで十分なの。あなたが心配することは何もないわ。それにそんなに心配なら、もう1枚もらえないかエルヴィスに聞いてみるから」
「……可哀想なので、やめてあげてください」
「やっぱりそうよね。そうそう生え変わるものではないもの。言われてもエルヴィスも困るわね」
「いえ、そうじゃないんです……」
納得した王女のことを、少年は心配そうに見つめる。
「姉上、絶対に無理はしないでください。約束してくれますか?」
「ええ、私は無理をするつもりはないから」
「そう言って、いつも姉上はひとりで背負いこんでしまうでしょう。勝手にいなくなったりしないでください。絶対ですよ?」
「ええ、もちろんよ」
ステファニーは指切りをすると、そっと弟を抱きしめた。