いつでも死んでもいいと思っていた僕は、その日――自分がなぜ生まれて来たかを知った。
お久しぶりです。
初めましての方は初めまして。
久しぶりに短編を投稿しようと思ったのでよろしくお願いします。
評価があれば続編とかを考えるかもしれません。
アイデンティティの喪失。今の俺には、その言葉がぴったりだった。自分に至らしめるものを失った。俺の部屋の片隅には陸上のスパイク。土とタータン用の二つが無様に転がったいる。
――なにかやりたいこととかないの。
さっき、主治医に聞かれた。俺は答えられなかった。やりたいことはあるさ。でも、それができることは一生ない。もう、一生ないんだ。その事実を毎日のように突きつけられる。
三か月前までは、あんなに自由に動き回っていた。何不自由なく、自分の思うままに動かしていた。でもいまは違う。足を動かそうとしても、それが足に伝わるのに一秒はかかる。何気ない段差で転ぶ。そんな状況だ。
このまま徐々に足が動かなくなっていくんだろうか。そんな思考が頭に浮かぶ。嫌になる。当たり前に会った事を失ったとき、人間の本質が見えるとなにかに書かれていたのを思い出す。
俺はどうだ。俺は――無気力だった。
生きているのかさえ怪しい。死んだような目をして息をしている。死にたい。自殺でもいいかもしれない。でも、なんか嫌だった。痛いのが嫌だった。自殺したら負け犬呼ばわりされそうで嫌だった。結局自分はそんな人間だった。なのに、
「だって、秘密の話し合いをするわけだし必要だよ。そもそも、あたしは先に帰っていいよって言ったのに、葵も陽菜も残っているからこんなに委縮している可能性もあるんじゃない」
圧倒的非日常。無気力で変わり映えのない人生を送っていくはずだったのに、目の前に広がるのは異世界。俺が知らない空間だった。
「いやだって、美咲に任せていたら」
「大変なことになりそうだわ」
「それはひどいよっ」
あるライブハウスの控室にいた。会場ではなく控室にだ。ちらっと周りを見てみると、女もののバッグや衣装が所狭しと転がっている。中には、男がほとんど見る機会ないものまである。どうしてこうなった。
気恥ずかしくなった俺は、それから目を逸らすように視線を正面に戻す。そこには、三つの人影があった。まるで突き刺し射抜くようにこちらを見てくる。ほんとに――。
どうしてこうなったんだ。
◇
病院に許可をもらい、無理をしないことを条件に俺は外出していた。向かうのは市街地――のはずれ。ちょっとした居酒屋や水商売の店が立ち並ぶポイントだった。どうしてそんなところに用があるのか。自分でもよくわからない。呼ばれたから行っているとしか言えない。原因はSNSに届いたとあるダイレクトメッセージにあった。
あの日、俺はいつものようにパソコンを開いていた。見ているのはある小説投稿サイト。ここに俺は自作の詩を投稿しているのだ。自分から進んでやっているわけではない。主治医に強制されている。でも、閲覧数が増えたりするのを見るのは少しだけ楽しかったりする。
「おお」
ちょっとした感嘆が漏れる。画面に表示されているのは、昨日アップロードした新作の詩。その下に表示される“感想が届きました”の文字。少しだけ心が躍る。
「うわぁ」
いつの間にか届いていた感想に目を通してみる。その瞬間にすごい声が漏れた。
クソ。
そう書いていたのだ。たしかに酷評があるのははじめから覚悟していたし、いままでも何度ももらったことがある。それでも慣れないものがあった。
そのほかにも『ただの私小説』や『自己満』とか『寒い』などとも書かれている。でも、それより多く『面白かった』などのコメントがあるのを見ると、少しだけ心が浄化されていく気になっていく。
結局最後まで眺めてしまった。まだ二ページ目にも届いてない感想欄。でも、酷評でも絶賛でも作品を読んでもらえたことには変わりない。自分の作品を読んでもらえるということを実感すると、少しだけ承認欲求が満たされた。
「ん?」
感想を二度見していると、ちょっとしたことが気になった。ユーザーネームだ。この感想欄は、サイトにログインしてないと書けないシステムになっている。匿名で誹謗中傷を言うのを避けるためだ。だから、感想欄にはその人のニックネームが表示される仕様になっていた。
「ヒビキタス」
感想欄の一番下でそれは揺れていた。何気なく呟いた名前。どっかで聞き覚えがあった。でも、こんなピタゴラスのような名前の知り合いなどいない。
「……ヒビキタス、ヒビキタス」
何度もつぶやいてみるが思い当たる節はない。もしかしたら、聞いたのではなく見たのかもしれない。思い返してみる。
「あっ」
少しだけ心当たりがあった。すぐにマウスカーソルを操作する。目的地は、過去の投稿作品一覧。その中から、初めてこのサイトに投稿した作品をクリックする。小説情報。感想一覧へ進んだ。
「あぁ」
ここで合点がいった。最初に投稿した自分の作品『若人のこだま』。それに一番初めに感想をくれた名前と一緒だったのだ。あのときは何とも言い難い気持ちになったのを覚えている。もちろん感想がもらえたことはうれしかった。でも、それが酷評だったためあまり喜べなかったのだ。もちろん今でも、そこにはあのときの感想が躍っていた。
“あんまし何が言いたいか分からなかった。テーマ性がないってことなんだと思う。もしくは一貫してない。正直言うと馬の骨並み。でも、言葉のチョイスは良いと思う”
最後はフォローのような言葉があるが、それでも酷評していることには変わりない。正直言って悔しかった。なあなあには作ったものだが、それでも自分の作品を貶されるってことが嫌だった。もしかしたら、この苦い経験があったからこそここまで続けてこれたのかもしれない。
そんな思考にふけっていると、いままで投稿した作品の感想欄も一通り目を通したくなる。カチカチ、とマウスをクリックしてリンクに飛ぶ。
「ぇ――――」
はじめは偶然だと思った。
「うわ」
二度あることは三度あるとも思った。
「これはちょっとやばいわ」
四度続くと、さすがにおかしいことに気付いてくる。その他のものも一応確認してみるが、結果は同じだった。
感想を一番初めにくれた人物の名前が、すべての作品で一緒だった。ヒビキタス。その文字が常に一番下で踊り続けている。これほどの恐怖を感じたことがあっただろうか。いやない。身の毛がよだつ出来事だった。
ブーブー。
「――ひっ」
急になったスマホのバイブレーション。それに対して素っ頓狂な声を上げてしまう。恥ずかしい。誰もいなくてよかった。
安堵の息を吐きながら画面に目を這わす。SNSの着信通知だった。それもダイレクトメッセージ。自分に送ってくる人物が思い当たらず、いぶかしみながらそのアプリを開く。
「はあっ」
送り主の名前を見た瞬間、スマホが手から滑り落ちた。驚きのあまり握力がなくなる。すぐに正気に戻って、もう一度画面を確認した。そこには、ある見慣れた文字が揺れていた。ヒビキタス。そう綴ってあったのだ。
恐怖以外の何物も感じない。未知に対する畏怖が全身を包み込んでいく。なぜ。どうして。よりによってこのタイミングで。いろいろな疑問が膨らんでいく。それらの感情を呑み込み、肝心のメッセージに目を通す。そこには、
“あなたの事が気になります。いてもたってもいられませんでした。もしよろしければ会えませんか”
衝撃を受けた。ここは創作の世界か。そんなことを思った。だって、こんなものが届くのは、小説や漫画だけだと思っていたからだ。
普通なら怖いから行かないだろう。だけど、俺はもう普通ではなかった。何かしらの楽しみを求めて、その誘いに乗ることにしたのだ。
ダイレクトメッセージには、ある場所への地図と変な文字列が添付されていた。おそらくここに来いってことなんだろう。
「だけどなあ」
地図と周りの風景を見比べながら、懐疑的な面持ちになる。警戒しないとダメなことだ。そもそも、こんなにホイホイと誘いに乗ってもだめだった。小学校の時に習ったことは何だったのか。そんなことを思いつつも、やっぱりホイホイついていってしまっている自分がいる。その姿はゴキブリのようだった。
「出会い系、美人局だったか?」
周りに立ち並ぶラブホテル。メイド喫茶。風俗店。周りの風景に思考が促される。あのメッセージはそういうことじゃないか、と。
明らかに異様。青少年である自分がいていい場所ではない。はやく立ち去りたいと思いつつも、地図が示している場所に向かう。
「おっ」
ラブホ街を抜けた。気持ち明るくなっていくように感じる。とりあえずは、犯罪臭のする場所から抜け出したことに安堵した。少し足取りが軽くなる。気持ちが少し楽になった。
ちょっとした雑踏。ヴィジュアル系みたいな人たちを多く見かける。もしかしなくても、ここはそういうお店が立ち並ぶところかもしれない。そんなことを思いながら、地図に示されている目的地に到着する。
――オルフェウス。
店頭にはそう書かれてあった。店名だろう。中に入っていく。暖色の光がエントランスを照らしていた。少し薄暗い。光量を絞っているのだろう。
「振り返っては駄目ですってか」
冗談交じりそうつぶやく。ちょっとした薄気味悪さに店を出たくなるが、それはそれでなんか負けた気がするのでやめた。そんな馬鹿なことを思いながら受付に行く。
「招待状はお持ちですか」
いきなりそんなことを訊かれた。ちょっとしたスーツを着ているお姉さんにだ。声の抑揚の無さもあいまって、冷たくミステリアスに見える。
「えっと、これの事ですかね」
俺は添付されていた何かしらの文字列が書かれた画像を見せる。
「……はい、大丈夫です。ゲストの方ですね。ライブは始まっていますので、雑音を立てずにお入りください」
ライブ? ゲスト? 身に覚えのない言葉に戸惑ってしまう。そんな状況もお構いなしに、受付のお姉さんは淡々と進めていく。俺もそれに流されるままに従うしかなかった。
「これを付けてください」
最後に光るブレスレットのようなものを付けられる。サイリウムのようなものだ。先ほどライブと言っていたし、やっぱり何かしらのショーでもやっているのだろうか。
「では、お楽しみくださいませ」
そんな言葉に見送られて、俺はある部屋の中に入った。扉は鈍重。開け閉めの動きが悪いわけではなかったが、何かしらの重みを感じた。風除室のような二重構造を抜ける。そこには、
『みんなー、ありがとー』
若い女性の声とそれにこたえるように吠える多数の叫びがあった。突如襲ってきたそれに、思わずに耳をふさいでしまう。少したって、徐々に耳から手を放していくと、ある楽器の奏でる音色が身体に響いてきた。突き刺すようにうるさい音。でも、不思議とそれは不快ではなく、むしろ心地よいものだった。
「よお、にいちゃん。どうした」
呆然とした姿が気になったのか、近くにいた男性が声をかけてくる。
「いや、えっと」
「もしかして、花火のライブは初めてか」
「ええと、そもそもこういうところに来るのが初めてで」
俺よりも身長が高く、俺よりもガタイが良く、頭は輝くばかりのスキンヘッド。目にはサングラスのようなもの。そんな恰好の人に話しかけられて委縮してしまう。服装もピンク色の法被だったため、その緊縮に拍車がかかった。
「そうかそうか。なら、兄ちゃんも今日から俺たちの新しい同志ってことだな」
「どうし?」
そんな緊張とは裏腹に男の口から出て来たのは、軽く親しみやすい声音だった。初心者がこんなところ来るんじゃねえ、とか言って絡まれるかもと思っていた俺は目を見開く。嬉しい誤算だった。
「そうだ。ただのテレビの中のアイドルじゃなくて、こういう駆け出しのバンドを追っかける人たちはみな同志だ」
追っかけるっていうよりは今日が初めてなんだけど。その男の中では、既に俺はこのバンドグループの追っかけメンバーになっていた。
「それよりもにいちゃん、どうしてここに来れたんだい。俺が言うのもなんだが、かなりマイナーなグループだぞ」
「……友人の勧めで」
「そうなのか。いい友達を持ったな」
SNS上でここに来いと言われた、とか正直に言うわけにはいかなかった。苦笑と一緒に誤魔化す。
『みんなー、ラストいくよー』
俺が変な葛藤を抱えている中で、ライブは最終局面に入ろうとしていた。会場全体のボルテージが上がってくる。
「おお、もう終わりか。じゃあにいちゃん、最後は盛り上がっていくぜ」
「は、はい」
先ほどの柔和なイメージとは打って変わって、激しくエキサイトする男の姿のギャップに少しだけすくんでしまう。ただ、外見とはマッチしていたため、自然と笑みがこぼれてくる。
「兄ちゃんも盛り上がってきたな。――オイッ、オイッ、オイッ、オイッ、オイッ!」
「……お、オイッ、オイッ、オイッ、オイッ、オイッ!」
羞恥と緊張で少しだけ遠慮してしまうが、それでも一度声を出せばそんなのはどこかへ吹き飛んでいった。ピンク法被の男に負けじと声を出す。
このとき、俺は初めてステージを直視した。ギターを持っている人が三人。ドラムが一人。ピアノみたいな鍵盤があるやつの前にいるのが一人。計五人のグループだった。皆がきらびやかな光を浴びている。流れてくる演奏や歌詞は、正直言って頭に入っては来ない。でも、なにかしらの力があるのか、不思議と心が躍り始めていた。
となりのピンク法被の真似をして腕を振る。掛け声に合わせて身体を動かす。複雑な動きはない。俺にでもできるものだった。
『若人の虹よ』
歌声には意思がこもっていた。こちらに響かせようとしてくる気持ちがあった。周りの煌びやかな光に負けるもんかと言わんばかりな漆黒の衣装を身に纏う五人が、なにかしらのものを飛ばしてくる。全てを照らすスポットライトの中で、私たちが主役だというようにパフォーマンスを披露していく。俺はその姿に目を奪われていた。
『今日は来てくれてありがと~』
心地よいほどの高揚感に身が奮い立つ。気づいたらライブは終わっていた。でも、時が止まったかのように、俺の心には謎の興奮が残り続けていた。
そして時は動き出す。あの高揚感に興奮冷めやらぬ状態だったにもかかわらず、いまの俺の頭は非情にクールだった。俺のほかに、見知らぬ少女が三人。こんな針のむしろのような状態にあれば当然なのかもしれない。
「こんにちは」
目の前には、先ほどまでステージで歌っていた少女がいる。さっきと変わらない漆黒のドレスを身に纏い、こちらに向かって話しかけてくる。その距離、実に五十センチ。会場で見ていた時の約二十分の一。
「こ、こんにちは」
しどろもどろになりながらも、どうにかして挨拶を返す。状況は完全にアウェー。先ほどのスキンヘッドに話しかけられていたとき以上の緊張が俺を包む。
「ほら美咲、急に連れてくるから緊張してるじゃない」
「そもそも、控え部屋まで連れてくる必要はあったのかしら」
こちらの状況を鑑みてくれたのか、目の前の少女に苦言を呈してくれる影が二つあった。ステージで鍵盤の前にいた子と、少し武骨なギターをもっていた子だ。
「だって、秘密の話し合いをするわけだし必要だよ。そもそも、あたしは先に帰っていいよって言ったのに、葵も陽菜も残っているからこんなに委縮している可能性もあるんじゃない」
「いやだって、美咲に任せていたら」
「大変なことになりそうだわ」
「それはひどいよっ」
だが、その助け舟も俺に威圧感も与えるだけだった。一人蚊帳の外に出される。そんな状況に目もくれず、目の前の三人は口論を続けていく。鍵盤担当だった子は陽菜、無骨なギターをもっていた子は葵というらしい。
「ちょっと待って。彼、置いていかれているわよ」
「うわわ、ごめん」
こちらの状況に気が付いてくれたのか、そんなことを伝えてくれる陽菜。それによって、俺がいたことを思い出した美咲は、こちらに向かって頭を下げてくる。
「いいですよ。それよりも、俺は何でここに通されたんですかね」
疑問だった。ライブが終わったあと、そこに来た目的も忘れ、俺はピンク法被とどこかに遊びに行く予定だった。だけど、ホールを出ようとしたときにエントランスのお姉さんに呼び止められたのだ。会いたい人がいる、と。
そしてなされるがままに連れてこられ、彼女たちの控室に通された。俺だって一高校生だ。変な期待やキモイ妄想をしてしまう。でも、それらがあっても、この空間の異質さを浴びたら正気が保てなくなっていた。
「え~、わかんないかな」
もったいぶった口調でそう問いかけてくる美咲。正直、蚊帳の外にされたりで、俺は少し機嫌が悪くなっていた。そんな彼女の態度に露骨に不満げな顔を浮かべる。
「……えっと、ごめん」
俺の機微を察してくれたのか、美咲はすぐにこちらに謝り通してくる。さっきから謝り通してばかりだな、この人は。彼女は押しに弱かった。
「ヒビキタス、って言えば分かるかな」
ガタン。その言葉を認知した瞬間、自分の身体が崩れ落ちていくのが分かった。反射的に後ろに下がろうとして、椅子から転がり落ちたのだ。
「だ、大丈夫」
美咲が心配そうに声をかけながら、こちらに近づいてくる。しかし、俺がのどから絞り出せたのは、感謝でも遠慮の言葉でもなく壮絶で失礼なものだった。
「す、ストーカー……」
時が止まる。先ほどまでの喧騒さが醸し出していた雰囲気は、なにも響かない世界に変わった。まるで真空。天使がそこを通った。
「す、す、す」
ようやく何かが聞こえたと思ったら、目の前でこちらに手を伸ばそうとする状態で固まった美咲の声だった。その瞳は、ぐるぐると回るように困惑の色が見え、顔は青ざめている。パクパクと動く口は、鯉のようであった。
「ストーカーじゃないもん!」
瞬間、怒髪天を貫くかというくらいの叫び声が響き渡る。プンスカ、と怒っているようだった。
「だったら、いつもいつも初めに感想送るなよっ」
売り言葉に買い言葉。つい反射的に言い返してしまう。さらに、火に油を注ぐように、一度決壊した口は止まらない。
「いままで投稿したやつの感想を見たら、一番初めに送られてくるのは全部“ヒビキタス”っていうやつだ。それもすべて一時間以内。こんなのストーカーと言わずになんていうんだよ」
「ただファンなだけだよ。一番初めに感想送りたいんだもん」
「不定期更新で、それも告知もしてないのになんで投稿されたってわかるんだよ。ファンってだけで分かったら余計怖いわ」
「ううっ」
美咲は、押しも弱ければ口げんかも弱かった。遂に押し黙ってしまう。
「はっ」
そして、俺もこのタイミングで正気に返ってしまった。売られたものとはいえ、女の子にひどいことをしてしまったのかもしれない。それにこの空間には、ほかに二人の女の子がいる。これは完全にやってしまったやつではないだろうか。
ちらっと見ると、まるでうじ虫を見るかのような瞳でこちらを見つめてくる少女が二人いた。どうやったらそんな表情出来るんだよ、と言いたくなるほどにブラックな顔だった。
「キモ。ないわー」
その矢が俺の心臓に突き刺さる。刃が俺のハートを切り裂く。たった一つの言葉で俺の精神は限界まで追い込まれていった。うん、死のう。
「ほんとよ、美咲。さすがにそれはストーカーと言われても仕方ないわ」
「それはひどいよ。陽菜ちゃん~」
と思っていたのだが、その目を向けられているのは自分ではなかった。逆に俺の肩を持ってくれる陽菜と葵。
「ごめんね、うちの美咲が」
「この子、たまにこういう変なとこあるから許してやってくれないかしら」
「へ、変態は言いすぎだよ~」
ぶんぶん、と手を振る感じで文句を言っている美咲。もしかしなくても、彼女はいじられキャラらしい。南無三。俺は心の中で手を合わせる。その間も、美咲はほかの二人にいじられていく。そのたびに何かしらの反応をするが、それがいじりを加速させているのに気づかないのだろうか。
「ごほん。とにかく、キミをここに呼んだのはお願いがあったからだよ」
あっ、無理やり話題変えた。もう無理と感じたのか、美咲は咳払いをしてこちらに向き直ってくる。その顔はりりしくしているつもりだろうが、身長が思っていたよりも小さいため、子供の背伸びに見えた。
「お願い?」
俺はその言葉を反芻する。お願いの内容も気になったが、そもそも何かしらの提案だったら、ここまで呼び出す必要はなかったはずだ。
「作詞を頼みたいのだよ」
「さくしぃ~⁉」
ちょっと素っ頓狂な声が出た。でも、仕方ないことだ。本当にここに呼び出した意義が見当たらない。それこそ、ダイレクトメッセージでいいじゃないかと思ってしまう。
「なんでそんなことで呼び出したんだ、って顔してるね」
「そりゃそうだ」
心を読まれたかとも思ったら、単純に顔に出ていただけだった。まあ、さっきみたいな声を上げれば当然か。
「さっきのライブ見てた?」
「えっ。まあ、途中からだけど」
「なら最後の曲は聞いてるね」
美咲がこちらに何かを伝えようとしてくるが、いったい全体なにが何だか分からない。要領が掴めなかった。
「あの曲聞き覚えがなかった」
「聞き覚え?」
なにか有名な曲だっただろうか。それとも、なにかしらのオマージュとか。でもそんな感じのは、世の中に溢れているだろう。今までの人間の歴史をもってすれば、何ものにも似ていない作品を作ることは不可能だ。そもそも、そんな作品は万人に受けはしない。
「わからない」
ギブアップだった。何度か聴けばわかったかもしれないが。今回はあれが初めてだ。無理もなかった。
「じゃあさ、〈若人の虹〉ってフレーズに心当たりはない」
難問でヒントを与えるかのように情報量を増やしてくれる。正直言うと、ちゃっちゃと答えを教えて欲しかったが、目の前の彼女は俺の口から何かを言わせたいみたいだった。でも、分からんものは分からん。
「どこかで聞いた気はするが、そんな言葉ありふれているんじゃないか?」
「それがそうでもないんだよ。〈若人の虹〉って検索かけても出てこないんだよ」
自信満々に彼女は言うが、天下の先生が分からんことが俺に分かるかよって気持ちになる。だが、何かあるらしいのは確かなのだ。脳裏に妙な引っ掛かりを覚える。高校野球の校歌の歌詞ででも流れたか。そんな憶測が飛び交う。
「むーん、できれば分かって欲しかったんだけどな」
見るからに落胆する美咲。だから何なんだ。
「これはね、キミの詩からの引用ですべてできているんだよ」
……はあ⁉
「えっ、いまなんていった?」
「おや、難聴かい・若いのに大変だね」
なんかうざい。彼女の顔を見たときに思った気持ちである。そもそも、しゃべり方がちょっとおかしいし、無駄に背伸びしている感じがしている。
「もう一度言うよ。これはキミの書いた詩でできているんだよ」
「だからなんでだよ!」
素直な気持ちが出た。こんなところに自分の詩が使われているとも思わないし、そもそもなんでそれをするのかも分からない。そして一番は、単純な気恥ずかしさからそんな言葉が出た。
「一目ぼれしたからだよ」
「っ⁉」
なににかはなかったが、女の子からそんな言葉が飛び出せば、関係になくてもドキリとしてしまう。特に今回は間接的に関係がありそうだったのが、それに拍車をかけた。
「きみの詩は面白いよ。特に言葉のチョイスが好き。だから真似したんだ」
堂々とした盗作宣言。だが、そんなことが気にならないくらいに彼女の話に惹き込まれていく。
「この気持ちをキミに伝えるために実行したわけ。これなら、こちらの本気度が分かるでしょ」
「いや……うん」
グイッ、と迫ってくる彼女の圧に負け、俺はいやおうなしに頷くしかできなかった。
「なら、作詞してくれるかな」
「えっと、花火で使う歌の歌詞を考えればいいのか」
「花火じゃないよ。Fireworksだよ」
俺が先ほど教えてもらったバンド名を口にすると、すぐさまに否定される。嘘教えやがって。違うじゃないか、あのハゲピンク法被。
「おねが――あっ」
俺の手を掴んで懇願しようとしてきた美咲の口が止まる。その視線を追うと、つけっぱなしになっていたブレスレットに向かっていた。
「これ、あたしの色」
「あたしのいろ?」
意味の分からないことを呟いてくる。そのブレスレットは、かすかに紅色の光を放っていた。タータンの色よりも鮮やかに輝くそれを愛おしく見つめている。
「これ、あたしのイメージカラーなんだよ。つけてくれたんだね」
「いや……」
受付の人に無理やりつけられたとは言えなかった。なんとなくだが、あの女性は分かっててこの色を付けたのかもしれない。
「ねえ、もうこんなのを付けてくれてるんだから、お願いきいてくれないから」
何か嫌な雰囲気になってきた。どう見ても劣勢だ。
「……」
「やってくれるよね」
彼女の顔が目と鼻の先に迫ってくる。さすがにこの行為には、ほかの二人も予想外だったのか、古い車のヘッドライトのように丸く見開いている。
「く・れ・る・よ・ね」
「…………」
「ヤ・リ・ナ・ヨ、ユ~」
「い、イイゼブラザー」
怖かった。とても怖かった。遠目から見たらあんなに可愛かったのに、ここまで近づいてきた彼女は、プレデターのような瞳でこちらを見てきた。生物的な恐怖。それに呑まれ、それから脱出するために、俺はただただイエスマンに成り下がった。
「ありがと~」
距離が近かったこともあり、美咲は抱きついてきた。ぎゅうっ、と身体全体が包まれる。この日、俺はないように見えても柔らかいことを知った。
いっときして、正気に戻った葵と陽菜が彼女を引っぺがす。物足りないような笑みを見せてきた。ああ、もうひとつ分かったわ。
「じゃあ、よろしくね」
押しに弱い女の子は、押しが強いのだ、と。彼女は圧倒的なまでの小悪魔だった。
その時からバンドメンバーに蠱惑される日々が始まった。やれ何なんだ、やれこうがいい、といったような注文ばかり受ける。あのお願いを放心した状態で承諾していたせいで起きなかったやる気が、これらの出来事でさらにそがれていく。なんてわがままだ。
こだわりが強いだけと少女達は言っていたが、それに付き合わされる身も考えて欲しい。そもそも、俺の詩のフレーズが好みなのであれば、適当にこっちから案を出してそっちで完成させればいいんではないか。そう伝えてみると、またこだわりという言葉でかたずけられる。
『君が完成させなければダメなんだよ。あたしたちの作詞ではなくて、キミの作詞でないとダメなんだよ』
美咲にそう言われた。別にメジャーデビューするわけでもないんだからそういうところはどうでもいいと言ったのだが、そういう事じゃないらしい。ぷくぅ、と頬を膨らませた美咲の瞳が雄弁にそれを語っていた。
そんなかんなで作業は難航。もともとやる気がなかったことも伴い、モチベーションは低い。彼女たちに原稿を上げては落とされ、ブラッシュアップさせられ、そしてボツにされる。なんだこれは? 俺は作家じゃないんだぞ。そんな心の叫びは稲妻のように空を走り、朝露のように大地に落ちていった。
そんなことをしていたら、すぐに時は流れていく。セミがうるさい季節に始まったこの企画は、丸く大きな満月をトナカイの引くそりで飛び越え、水面から浮かぶ太陽を背に鬼退治を敢行し終わったあとにも続いていた。あっという間だった。気付いたときには、朝には霞が、昼には陽炎が、夜には朧が感じ取れる季節に変わっていた。
「……ねえ、これ」
桜舞う空の下で一同集う。
「うん、いいと思うわ」
レジャーシートを木の下に敷く。
「さまになったね」
皆で作っていきたお弁当を広げる。
「いいじゃん、イケイケ」
バカなことを語らいつつ、それを突っつく。
「ふぁいふぉうふぁよ」
花より団子の化身現れる。
「ようやく終わった」
そして、俺は思いっきり背伸びをして、重力に体を預けるかのように寝そべった。自分のカバンを枕にする。ちょん、と何かが頬に触れる。手で触ってみると、紅色に光るブレスレットだった。
「ふぅ」
右腕をまぶたの上に置き一息つく。チラッと空を見ると、満開に咲き誇る桜の木とその花びらを飛ばす春風が見えた。
「……春」
この一年は早かった。いや、正確には夏から早かった。それだけ充実した日々だった。まるで、初めてスパイクを握りしめてグラウンドに飛び出した時見たいだった。どうして? そんなの決まっていた。
「ッ!」
「いひひ」
頬に冷たい感触が襲いかかってくる。ぞわっ、とした独特の反応をする。ジト目でその犯人を見つめた。
「ふぉら、ふぉひて。ごふぁんおいふぃいよ」
美咲だった。なんて言ってるか分からん。たぶん、花より団子的なことを言っているのだろう。その証拠に、右手には清涼飲料水の缶。左手には串団子が握られていた。それらをこちらに向かって差しだしてくる。
「ありがと」
俺は遠慮せずにそれを受け取った。うん、おいしい。
「さくらきれいだね」
「そうだな」
食べるのに飽きたのか、美咲が桜を見上げながらそんなことを口にする。
「あたしね、花ならヒマワリが好きなんだ。あの太陽のように大きく咲いている姿がもうたまらなくって。あっ、そうだ。近くにいっぱいのヒマワリが咲く場所があるんだよ。蓮くん、一緒に行こうね」
矢継ぎ早にそんなことを言ってくる。歌も早口だけど、しゃべるほうも相変わらず早口だ。
「いいよ。夏に行こうか」
俺もそのひまわりを美咲と見たくて約束を交わす。今から楽しみだ。
「よぉーし、まずは作曲してライブだね~」
美咲はそう宣言した。それにみんなもうなずいている。ライブ。もう、俺にできることはないだろう。応援するだけだ。あとは、それに行くことくらいかな。
「蓮くんも絶対来てね、ライブ」
俺はそのとき、ライブは絶体成功すると信じていた。
唐突に、夕立ちのごとくそれは来た。
「美咲が家で倒れたって、彼女のお母さんから」
「ぇ――――」
魅惑のゴールデンタイム。世間は長期の休暇に浮ついている。Fireworksのライブが五日後に迫り俺も浮かれていた。心を躍らせていたからか、その知らせを聞いたとき、俺の気持ちは深く沈んでいった。
「病院教えるから急いできなさい」
陽菜に病院を教えてもらい、そこに急行する。家を出て大通りにつく。タクシーを探した。
「くそ」
しかし、こういう時に限って一台も通らない。仕方なくバス停に向かう。だが、足取りは遅い。俺はこの日ほど、自分の足がうまく動かないことを呪った日はなかった。
どうにかしてバスに乗り込み病院に向かう。出来るだけ急いでエントランスに駆け込み、要件を受け付けの人に伝えた。少しして案内役の看護師が現れる。
その人に導かれるままに歩いた。しかし遅い。俺が故障しているということもあるが、病院は走ってはいけないということで看護師の歩みも遅かった。もどかしい。挙句の果てにエレベーターが込んでおり、少しだけ待たされる。早く行きたいのに、じわりじわりと時間を蝕んでいく。俺は苛立ちを募らせた。
ぽーん、という音とともにエレベーターのドアが開く。それに乗り込んで目的の階を目指す。
エレベーターが止まる。扉が開く。急かすように足を動かす。曲がり角を曲がる。その先に四つの人影がいた。バンドのみんなだ。陽菜がこちらに歩いてくる。
「み、美咲は――」
「あそこよ」
指を差す代わりというように、彼女はある一点を見つめる。俺もそれを追うように首を回す。一枚のガラスに仕切られた部屋。分厚いガラス。その中は異様な雰囲気だった。色で例えるなら山吹のような空間。そこには、人工呼吸器やらにつながれた一人の少女がいた。
「……なんで」
「不整脈、持病よ」
ぽつり、と何気なしにこぼれた俺の声を陽菜が拾ってくれる。不整脈。聞いたことがない病気だった。字面から判断する限り、脈が正しくないのだろう。たしか生物の授業かなにかでペースメーカーというものが心臓あると習った。それがおかしいというのなら、それは。
「心臓病」
「そういうことになるのかしらね」
淡々とその答えに応えてくれる。正しいと教えてくれる。正直、間違っていて欲しかった。
「みんなは知ってたのか」
前に向き直りそう尋ねる。不思議だった。もう少し慌てているかと思っていた。ここに到着したとき、みんなの顔は心配げではあった。だけど、緊急の事態に慌てふためいている人は誰もいなかったのだ。
「一応ね、みんな知っていたの」
「そう――なんだ」
「勘違いしないで。別にあなたをのけ者にしようとしたわけではないのよ。ただ、あの子が教えたくないって言うから」
陽菜は、悲哀のような瞳をして美咲のほうに顔を向けた。その目には、なにかしらの同情が感じ取れるように思える。
「あっ」
誰かがそう漏らした。その声につられるように、俺も美咲のほうを見る。そこには、こちらに手を振っている彼女の姿があった。どうやら無事意識を取り戻したようだ。そのまま、ガラス越しに見えていた部屋から出てきて、ストレッチャーで運ばれていく。俺たちもそれについていった。
「ごめんね、しんぱいをかけて」
「いいのよ」
たどり着いたのは、病院内にある一つの部屋だった。たぶん、美咲は入院するのだろう。その証拠に、腕には点滴が刺さっていた。
「ほんと、みんなそろって。れんくんもいるし」
美咲の口から漏れるのは、元気に満ち溢れた声だった。倒れたと聞いたときは焦燥に駆られる思いだったが、この声を聞いただけで一安心できる。
「体調はどうなんだ」
「……うん、だいじょうぶ。でも、ねんのためあしたけんさするんだって」
「そうなんだ。まあ、大事にしないとな」
受け答えも問題ない。我慢しているようにも見えない。とりあえずは大丈夫だろう。でも、あれはどうするのだろうか。
「ライブはどうなの?」
皆が気になっていたことを、葵が代表して聞いてくれる。
「うーん、五日後でしょ。たぶん退院は出来ると思うんだけど、激しくシャウトすることは出来ないかな。よくて一曲歌うくらい」
「それだけできれば十分だわ。ギターも弾けるんでしょ。他の曲は私たちの誰かが歌えるだろうし、軽く練習すれば大丈夫でしょ。さすがに新曲は無理だから、それに専念してね」
「たしかに、蓮さんに歌わせるわけにもいきませんものね」
当たり前だ。危なく俺はバンドデビューさせられそうになっていた。頼むから俺のために快調してくれ、美咲。
「あら、そうかしら。私はありだと思うけどね。美咲を抜いて蓮を入れた『新生! Fireworks』なんてどうかしら」
「ひ、ひどいよっ、ひなちゃ~ん」
「冗談よ」
皆で笑いあう。とても充実した忘れられない空間になっていた。
「さて、早いけどそろそろお暇しようかしら」
陽菜がそう切り出す。たしかに、美咲は元気そうだが病人なのだ。これ以上長居して体に触ってもあれだろう。ほかの人もそんな思いだったのか、各々に身支度をして立ち上がろうとする。しかし、
「まだ、もうちょっとだけ」
先ほどとは打って変わって、弱々しい表情の美咲に袖口を掴まれる。弱々しい力。振りほどこうと思えば簡単に出来るだろう。
「しょうがないな」
だけど、俺は手に持ったバックを床に置いた。その光景を見て、陽菜たちが目を見開いている。
「先に帰っててくれ。俺はもう少し残るわ」
「なら、わたしも残る」
俺がそう言うと、付き従うかのように葵が再度着席した。ほかのみんなも、まだまだ話したりないのかカバンを手から離していく。残るは陽菜だけだ。
「はぁ、まったく。すこしだけよ、みんな」
鋭いイメージがある陽菜も、このときばかりは俺たちの優柔不断ぶりを許してくれた。自らも残るのか、再度来客用のいすを広げる。
「みんな……」
そんな感じで、みんなでちょっとしたひと時を過ごす。まるで、先ほどの焦燥感でできた傷跡を埋めるように語り合った。クラスメイトの話から学校で何があったのか。あの先輩かっこいいなどの恋バナ。男一人なため、肩身は狭かったが楽しかった。こんなに同年代の女子と話したのは初めてかもしれない。普通に生きてたらこんなことないだろう。ちょっとだけ優越感に包まれていった。
「あら」
小一時間ほど話し込んでいたら、病室のドアが開いた。そこには二人の男女がいる。
「おかあさんっ。おとうさんっ」
どうやら、美咲の親らしい。すこし来るのが遅いんじゃないかと思いもしたが、いろいろ事情があるのだろう。
「そろそろ潮時ね」
陽菜がそうつぶやく。親が来たのだ。今日はもういれないだろう。積もる話もあるだろうし。俺たちは再び身支度を整え始めた。
その様子を見て、美咲は何かを訴える瞳で俺たちを見つめてくるが、袖口がその華奢な手でつかまれることはなかった。
「じゃあね、美咲。明日も来るわ」
みんなが思い思いに別れの言葉を口にする。まあ、時候のあいさつのような定型文だが。そして、俺もそれらにのっとり口を開く。
「明日も来るから元気にしてろよ。じゃあ、またな」
「――うん、ばいばい」
俺が手を振りながら歩いていくと、美咲も元気いっぱいに、ぶんぶんと手を振りながらそう言ってくれる。だけど、その明るい動きとは裏腹に彼女の頬は濡れていた。そして彼女から、またねとは返ってこなかった。
次の日の朝、春野美咲が亡くなったことを告げられた。
◇
薄紅色に光る空。黄昏時。トワイライト。制服にそれを浴びながら俺は歩く。目的なんてない。何かを失ったあの日と同じように、ただただ途方に暮れる。
真っ赤な夕焼けに照らされていた地表が、徐々に徐々に暗くなっていく。赤が抜け青色に染まる。それはまるで一つの物語の幕引きのように思えた。
少しだけ顔を上げる。向こう側に輝く一番星が見えた。地球からどれだけ離れたところにあるのだろうか。光の速さでも十年かかるほどの距離かもしれない。でも、何年かかろうともその星にはたどり着ける。見つけることができるはずなのだ。
「なわけ、ないだろ」
そんな妄想を自分で打ち消す。人が死ねば空のお星さまになるんだよ。ばあちゃんがそう言っていた。じいちゃんは夜空に昇っていったんだって。子供に言い聞かせるための有名な口上だ。幼いころはそれを信じていた。それがもし真実なら――。
「なんで会えないんだよ」
どうしようもない想いが漏れていく。どれだけ時間がかかってもたどり着けるなら、なぜ二度とと会えないんだ。そんな感情が世の中の理不尽にぶつかっていく。
「どうせ死ぬなら――」
慌てて口をつぐんだ。周りに誰かいるわけではない。でも、これは言ってはいけないことだと、俺の心が察した。誰しもが思っているその言葉を口にできる道理はないんだ、と。
夜の帳が下りてくる。太陽の光が消え、打って変わるのように大地を月が照らし出す。その周りには無数の星空。目で見えないものを含めると、人の数よりも多い。それだけの命が漆黒の世界で輝いていた。
大通り沿いにある公園に入る。大きな広場に森と見間違えるほどの木々、子供たちのために設置されている数々の遊具。それがすべてが、この闇の中では様相を変える。
絞首台のブランコ。ギロチン台のシーソー。滑り台は電気椅子だろうか。森林は、一度はいると二度と抜け出せない白骨だらけの樹海。広場には何もない。
俺はブランコに腰を掛けた。ギギィ、という音が一層雰囲気引き立てる。
「いなくなったな」
何がとは言わない。だが、どれがなくなってかは分からない。
「消えたんだな」
足を地面から離す。しかし、それだけじゃブランコは動かない。仕方なしにその足で地面を蹴る。ギコォ、と弱々しい音とともにブランコは振り子運動を始めた。前に行って戻って後ろに行って戻る。それの繰り返し。
少しづつそのふり幅は小さくなり、動き出す前と同じ場所でゆっくりと停止する。もう一度地面を蹴って勢いをつけた。だけど、今回は振り子運動にあわせて反動をつける。徐々にふり幅が大きくなっていくブランコ。このまま飛んでいけば星に届きそうなくらいに、勢い良く揺れる。
「……」
どれくらいの時間ブランコに揺られていただろうか。太陽が沈むと同時に現れた月は、既に山の向こうに沈んでいた。俺はブランコから降りる。自らの足で近くにあるベンチに向かう。不格好な歩き方。もうまともに歩くことじゃできない。
ゆっくりとベンチに腰を下ろした。近くにある外灯が虚しく俺の身体を照らす。自然と同化していく感覚。それが感じられた。
右ポケットに手を突っ込んだ。そこに入れられているあるものを掴む。紅色のブレスレット。ずっとバックに着けていたせいか薄汚れている。あのとき放っていた光はもうない。これを付けて、ピンク法被を着て、あのスキンヘッドと一緒に腕を振ることもない。
「どうしたら」
本心が漏れる。この喪失感を埋める方法を俺は知らない。あのとき、走れなくなった時に訪れたそれは、いつの間にか埋まっていた。美咲たちが埋めてくれた。でも、今回はどうか。都合よくあんなことがまた訪れるとは限らない。それに、美咲を別の何かで埋めたくはなかった。
つつぅ、と頬に雫がたれていく。一粒のそれは二つ三つと増えていく。やがて、その一滴が小さな川を頬に作った。ぽたぽた、とあごから垂れていく。泣き止もうとしても止めることなく流れ出す。ひどくなっていく。
「なんでぇ」
ぼたぼたという音が聞こえてきそうなほどに、俺の瞳から涙がこぼれていく。何かを洗い流すように出ては消えていく。
「くそぉ」
俺は、途中から泣くのを止めようとすることをやめた。ただ感情の震えるままに涙を流し嗚咽を漏らす。
心がすっきりしていく。今までため込んだものを吐き出した結果だ。いままでしていた我慢をやめた。理性の崩壊。根源への回帰。ただただ思うがままに感情を吐露する。
「ああ、そうか」
空虚な想いが埋まっていっているのを感じる。俺は理解した。それを消すためにはどうすればいいかを。
「泣けばよかったんだ……」
いまだに枯れない涙を、俺は流し続ける。
どれだけの時間泣いていただろうか。空が白んできた。夜明け前だ。もう涙は枯れた。傷跡を埋めるようにそこに流れていった。
「……ぉし」
俺は覚悟した。手紙を見る決心をした。昨日、美咲の両親に渡された便せん。いつ書かれたものなのか。考えれば簡単だった。あの日の、四日前の夜、俺たちと別れた後だろう。
俺はこれを見たくはなかった。何が書いてあるのか分からなかった。これを見てしまえば、美咲が死んだことを認めてしまうようで怖かった。でも、見ないといけない。ここには美咲の思いが詰まっている。それを見る覚悟を決めた。
『拝啓 響谷蓮様
あなたがこれを読んでいるということは、あたしはもうこの世界にはいないのでしょう。これを書いているのは五月二日、みんなと別れた後です。
さっき病院の先生に教えてもらいました。あたしの命は長くないそうです。いまから心臓の手術をします。長い大手術です。これからも生きていくためにします。でも、成功する確率は……低いです。失敗したら、もう目覚めないと言われました。
あたしはこの事を知っていました。幼い時からいっぱい病院に連れていかされました。病気だとは思ってなかったです。だって、その時はなにも自覚症状はありませんでした。いまもあまりありませんけど。
小さい頃、父と母が病院の先生の前で泣いてました。そのとき、あたしは悟りました。自分の命が守りにも脆いことを。
それからあたしは、できるだけ一生懸命に生きようと決めました。憧れのバンドをするためにメンバー集めに奔走にしました。美少女になるために美容に力を入れました。男子に好かれる演技を身に着けました。そして、最高の歌を歌うために作詞家を探しました。
ひとつ、あなたを仲間にするために嘘をつきました。一目惚れしたと言いましたが、全くもってしていません。あたしはそんなにチョロくないのです。でも、参考にしたのは真実です。そこだけは信じてください。
あなたをバンドに誘った理由もちょっとした嘘になります。偶然ではありました。あなたの詩を読んでいるとき、たまたま作者ページを見る機会があって、そのときに間違えてSNSのリンクを押してしまいました。そして、そこに呟かれているあなたの近況を見ました。
陸上で活躍している事。タイムが縮まったこと。友達にハードル走で負けたこと。新しいスパイクを買った事。そして、すべてを失った事。実はあのときから、あたしはあなたがどれだけ傷心していたか知ってました。知っているうえで事を起こしました。あなたなら重みのある言葉を紡げると思って近づきました。
あたしは汚い女です。人が傷ついているところに漬け込み、自分のために利用しました。何も知らない無垢な少女を演じ切りました。ずるい女です
そんな嘘に騙されて、あなたは仲間になってくれました。でも、そんな嘘のおかげであなたに会えました。そしてあなたは、幾度とないエラーにもめげずにトライしてくれました。最高の作品を作り上げてくれました。やはり、あたしの目に狂いはありませんでした。
初めてあなたと会ったとき、想像していた印象と違いすぎて驚きが隠せませんでした。思ったよりも声が低くて、そして口が汚い。身体は思ったよりも大きくて男らしい、思っていた通りにぶすくれた顔をしてました。
でも、時がたつにつれて、あなたの顔は優しくなっていってくれました。
みんなで見た満月はきれいだったよね。クリスマスライブの後のクリパはとても楽しかったし、充実感がすごかった。初詣でおみくじの運勢で勝負したっけ。豆まきでも、陽菜が本当の鬼に見間違得られるくらいに怒ったりもしたね。歌詞が完成して行った花見は最高だった。あたしは食べてばかりだったけど。こんなちょっとした青春が、あたしにとってはかけがえのない宝物になったよ。
蓮くんはどうかな。この一年楽しかった? それともつまらなかった? 面白く思っていたら嬉しいな。ねえ、もう自殺したいなんて言わないでね。蓮くんはまだ生きれるんだから、ちゃんと生きて、彼女作って、結婚して、子供を育てて、幸せになっていくんだよ。もしそのときに、あたしの事をちょっとだけでも思い出してくれたらうれしいな。
さすがにわがままだったかな。でも、いいよね。だってあたしは、汚くてずるい女なんだから。このくらいのわがままは許してね。じゃあね、きっといつか。
あたしに会いに来てくれてありがとう 春野美咲』
「こっちこそ会ったくれてありがとう……ッ」
陽が昇ってくる。夜が明け、また新しい一日が始まる。生命の息吹が浸透していく。俺のその声も、枯れたと思っていた涙も、世界にやさしく溶けていく。
「やっと見つけた」
唐突に、朝焼けの光が陰る。顔を上げると、制服姿の陽菜がいた。
「親御さんが心配してたわよ。私のところにまで連絡が来たんだから」
予想だにしない人物が目の前に現れた事に困惑する。どうしてもぶっきらぼうな返事になってしまった。
「明日、Fireworksのライブがあるわ」
「そうだな」
二度と全員がそろわないグループのライブだ。どうしても美咲の死が思い返されて、悲痛な面持ちになってしまう。
「蓮も来なさい。そしてステージに上がりなさい」
「……本気で行っているのか」
衝撃の提案に思考が停止してしまう。ライブに行く気力すら怪しいのに、挙句の果てに登壇しろなんてどんな拷問だ。
「病院でも言ったけど、新曲だけはまだ満足に誰も歌えないのよ」
たしかにそんなことを言っていた気がする。だが、それがステージに上げられることとどんな関連性があるのだろうか。
「だから、蓮にはそれを歌ってもらいたいわけ」
「なんでそうなった」
当然の疑問だった。どういう考え方をすればそうなるのか。
「歌詞は覚えているでしょ。なんせ作成者なんだし」
「それは、まあ」
「だからよ。逆に言うと、ほかのみんなは、私含めて完璧に覚えているわけじゃないの。だから、美咲の代わりにステージに上がりなさい」
嫌だった。まだ受け入れられない。納得できていない。そんな状況で、美咲のいないFireworksを見るのはつらかった。
「いやだ」
「えっ」
「美咲のいないFireworksは見たくない」
正直に言った。拒絶した。そんな顔をしているだろう。そんなことは考えられるが、相手の事は思いやれなかった。それほどに嫌だったのだ。
もう帰ろう。嫌気がさし、親も心配しているだろうから帰路に就こうと考えた瞬間――。
「あなた、まだそんなこと言っているの!」
ぐわん、と身体が上に引っ張られる。胸倉を陽菜につかまれ持ち上げられていた。
「もう美咲はいないのよっ」
「それでも俺は見たくない!」
激しく心の底から叫ぶ。それに反応するように陽菜の口からも罵声が飛ぶ。そんなことをしている最中だった。陽菜がスマホの画面を見せてきたのは。
「これ、あなたのSNSのつぶやきね。ここまで、蓮が追い詰められているなんて思わなかったわ。今のあなたは、このときと一緒。何も変わっていない」
そんな言葉が飛んで来る。まるで、美咲との出会いそのものを否定されたかのようなものに、思いっきり癇癪を起してしまう。
「違う」
「違くないわ。あなたは何も変わっていない。今も昔も困難から顔を背けて殻に閉じこもろうとしているだけよ」
しかし、さらに強い言葉で上書きされてしまう。
「でも」
「でも、じゃない」
パン、という音が響き渡る。左頬が熱い。改めて何があったかを認識しようと頭を動かす。振りぬかれた陽菜の右手。血が集まるように熱い頬。何が起こったのか理解する。陽菜からビンタされていた。
「生きたいと渇望する人間から早く死んでいって、死にたいなんて思うクズがのうのうと生きていく世界なんて絶対認めないわ。あなたは、いま生きているのよ。美咲が生きれなかった未来を歩んでるの。その足がどれだけ悪くても、蓮は息をしてるの。なら、美咲に向かって胸を張れる生き方をしなさいっ!」
「っ!」
ああ、そういうことか。気づいた。ようやく分かった。
「陽菜……」
「分かった、蓮」
涙ことは別に悪いことではない。むしろ泣きたければ泣いてもいい。
「なんでお前が泣いてんだよ」
「し、しらないわ。汗よ、あ・せ」
あのとき、涙で傷跡が埋まったと思っていた。でも、真実はそうではない。
「で、どうなのよ。一緒に歌ってくれるの?」
ただ洗い流しただけ、浄化しただけだ。これからも、その傷跡は残り続けていく。ずっと背負い続けていく。でも、それでいいんだ。
「ああ」
美咲が教えてくれた。転んでもへこんでも立ち上がるということを。倒れるなら前のめりに倒れろってことを。立ち上がればいい事があるということを。なら――。
「任せとけ」
その教え通り、何度でも立ち上がってやろうじゃないか。今度は俺の足で立ち上がって前に進んでやる。だから見ててくれ、美咲。俺の生きざまを。
「行こう」
さんさんと輝く太陽に、そう誓った。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
皆さんの期待道理の作品になっていれば幸いです。
最後に『面白い』や『楽しかった』『頑張って』と思っていただけましたら、下の広告の向こうにある評価をしていただけると幸いです。特に【☆☆☆☆☆】→【★★★★★】にしていただけると途轍もなくやる気が出ます。
続編を描くやる気やほかの作品を描くモチベーションになりますのでぜひよろしくお願いします。