84. 皆で野球観戦を
あれから時間が経ったとはいえ、まだジュディさまに対するわだかまりが令嬢たちの間には残っているようだ。
「ようこそお越しくださいました、ジュディさま」
私は彼女に駆け寄る。
ジュディさまは落ち着いた様子で、にっこりと美しい笑みを見せた。
「ご招待いただきありがとうございます、コニーさま」
「どうぞ入っていらして。もう試合が始まりますわ。一緒に観戦しましょう」
「ええ」
なんとも言えない空気ではあったが、けれど表立ってなにか文句を口にする人は誰もいない。
昼食会会場の観戦席の最前列にジュディさまを座らせ、私もその横に座る。
「今日は、試験的にキャンディさまも出る予定なのですわ」
私がそう教えると、ジュディさまは、まあ、と驚いたように口元に手を当てた。
「もう試合に出れる状態になったんですの?」
「いえ、まだまだと殿下は仰っているのですけれど、試合に慣れさせておきたいからと」
「ああ、なるほど」
ジュディさまがうなずく。
選手たちがグラウンドに出てきて、守備位置に付き始めた。
それを見て、歓談していた令嬢たちも、ぞろぞろと観戦席に座り始める。
「わたくし、まだまだ知らないことがたくさんありますから、ジュディさま、教えてくださいませ」
私がそう請うと、ジュディさまは小さく笑った。
「わたくしに教えられることがあるかしら?」
「ありますわ、もちろん」
一生懸命勉強はしているけれど、やっぱりなかなか野球は難しい。
「プレイ!」
ホワイトさんの声が響き渡って、私たちは雑談を止め、グラウンドに視線を向けた。
最初のバッターはラルフ兄さまだった。
「お兄さま……」
私は胸の前で手を組み、打席を見守る。この試合の内容は、来季のレギュラー争いに関わっている。
すると、兄は三球目をセンター前に弾き返した。
「抜けましたー!」
私は思わず立ち上がる。兄は一塁で止まっていた。
はっとして気付くと、皆が私を驚いたような目で見つめている。
「も、申し訳ありません」
つい熱くなってしまった。頬に手を当て、すとんと椅子に腰掛ける。
「よかったですわね、コニーさま」
「コニーさまのお兄さまだったのですね、おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
そんな風に温かく祝辞を述べられ、私はぺこりと頭を下げる。
「ラルフさまは来季のリードオフマンとしてご活躍なさるかもしれませんわね」
隣にいるジュディさまがそう声を掛けてくる。
「ええ、そうであって欲しいんですけれど」
「リード……なんですの?」
興味を引かれたのか、そう問い掛けてくる令嬢がいる。
「リードオフマン、一番バッターのことですわ」
ジュディさまが答えるまでに少し間ができてしまったので、仕方なく私がそう答える。
たぶん、自分が答えるべきではない、と考えたのではないだろうか。
「あれは、なんですの? 変な構え……」
一人の令嬢が、バッターボックスを指差している。
バントの構えだ。
私は答える。
「あれは、バントするつもりですわ」
「バント?」
「はい。確実に一塁ランナーを二塁に送るために、ボールを前に転がすのです。ひとつアウトは与えてしまいますけれど、二塁に送ることを優先するのですわ」
「へえ……」
わかったのかわかっていないのかはわからないけれど、その令嬢はじっとバッターボックスを見つめている。
少しずつ、野球に興味を持ち始めているのだ。
難しいルールだってある。私だってわからないことがたくさんある。
殿下ですら、すべてを覚えているわけではない、と仰っていた。
けれど、試合を観ていくうちに覚えていくものだろう。
そうして女性たちの間にも野球が広まっていけばいいな、と思う。そして私はわずかながらでも、そのお手伝いができれば。
二番バッターは構えの通り、バントを試みる。けれどピッチャーがバントをさせまいと責めすぎてしまったのか四球になってしまい、さらにランナーを出してしまった。
ノーアウト、一塁、二塁。絶好のチャンスだ。
兄がホームベースに帰れますように、と私は心の中で祈る。
三番バッターはどうするのかと思ったら、彼もまた、バントの構えを見せた。
「まあ、三番にも送らせるつもりですの?」
ぼそっと隣のジュディさまがつぶやく。
けれど三番バッターのバットに当たったボールは、高く上がってしまった。
「あっ」
俯きがちに仕方なく、バッターは一塁に走り出す。送りバント失敗。
捕手が、内野フライとなってしまったボールを立ち上がって捕りに出る。
しかし彼はそのフライを捕らずに地面に落とした。
「えっ、どうして?」
近くにいた令嬢が、驚いたように声を上げる。
落ちたボールを素早く捕手が捌き、二塁に入っていた遊撃手へ送球。さらにそのボールを遊撃手が一塁に送り、ゲッツー完成。
「ああ、びっくりした。ミスなさったのかと思いましたわ」
令嬢は、ほっと胸を撫で下ろしていた。
フライを捕ればアウトはひとつしか取れないが、わざと落としてアウトをふたつ取ったのだ。
「あの捕手の方はどなた?」
誰かがそう訊いたので、私は胸を張って答える。
「ジミーですわ」
「ああ、あの、コニーさまに教えていらした」
「ええ、そうです」
ジミーが素晴らしいプレーを見せてくれたので、私も嬉しくなってしまう。
しかし。
観客席から男性たちの声が上がる。
「なんだよ、今のはインフィールドフライじゃねえのかよ!」
「審判ー! おかしいぞー!」
令嬢たちは顔を見合わせている。
「インフィ……なんですの?」
「さあ……?」
男性たちの声は止まらない。
けれど試合は、ツーアウトのまま進もうとしている。
なにやら試合が荒れそうな雰囲気だ。令嬢たちも不安そうな顔をしている。
「あのう、インなんとかって、なんでしょう?」
令嬢の一人が、私に問い掛けてきた。
けれど私は小さく首を傾げ、そのまま隣に顔を向ける。
「ジュディさま、ご存知?」
私がそう尋ねると、ジュディさまは少し眉根を寄せた。
「……コニーさま、ご存知でしょう?」
「いいえ、わたくしは不勉強なもので」
私はつんとしてそう答える。
本当は、ついこの前、覚えた。けれどここは、ジュディさまに言わせてみせたい。
ジュディさまは小さくため息をついたあと、声を張った。
この昼食会の会場中、そして観客席にいる男性たちにまで聞こえる声だった。
「インフィールドフライというのは、塁が詰まっているときに、内野にフライが飛んだ場合に宣告されるものですわ。審判に宣告されたら、ボールを捕られようが捕られまいが、バッターは自動的にアウトとなります」
「え……では、今の場合は」
「けれど、バントの場合は、インフィールドフライとはなりません」
「まあ、そうなんですの!」
観客席にいた男性たちも聞き耳を立てていたようで、ジュディさまの解説にしん、となってしまった。
「じゃあ、インなんとかって騒がれていたのは勘違い?」
「まあ、よくご存知ないのかしら?」
「お酒に酔っておられるのではないかしら」
女性たちの話が聞こえたのだろう。騒いでいた男性たちも静かになってしまった。
「ジュディさまのおかげですわね。さすがですわ」
私がにっこりと微笑んでそう称えると、ジュディさまは少し拗ねたように唇を尖らせる。
やっぱり、ちょっと可愛い。
近くにいた令嬢が一人、こちらに歩み寄って来て訊いた。
「ジュディさま、今のはジミーさまの頭脳プレーということでいいのでしょうか?」
「ええ、そうですわ」
「へえ……。ねえ、ジュディさま? わたくしにもいろいろ教えてくださいます?」
「よろしくてよ。どうぞ」
ジュディさまがそう答えると、何人かの令嬢が傍にやってきた。
まだ遠巻きに眺めている令嬢も多々いたけれど、選考会の結果は出てしまっているのだし、怒りという感情は長続きするものでもない。
きっと私がなにもしなくたって、ジュディさまは自分でなんとかしてしまうのではないかな、という気がする。
私だって、ジュディさまとお話するのは楽しいもの。
また機会があったらこうした観戦会を催そう。そうして皆で野球を楽しめればいいな、と思った。
いくらか試合が進んだ頃、選手交代が告げられた。
「あっ、キャンディさまですわよ、皆さま!」
マウンドに歩いていくキャンディを見つけ、私はグラウンドを指す。
ギクシャクとした足取りで、なんだか心配になるけれど、初めてなのだから仕方ない。
いつかはきっと、彼女らしい堂々とした投球を見せてくれるようになるだろう。
「まあ、本当だわ!」
「楽しみですわね」
そうして、きゃっきゃっ、と華やかな声が湧いてくる。
野球は、とても楽しい。
私は改めて、そう思ったのだった。
抜けました・・・守備の間を抜けました、の意。この場合センター前なので、二遊間を抜けました。やったね!
リードオフマン・・・先頭打者。一番バッター。トップバッター。切り込み隊長。どれでも好きなのどうぞ。
一番なだけに一番打順が回ってくる可能性が高い。
一番バッターには高い出塁率が求められ、出塁して投手を揺さぶるのもお仕事。次の塁に行けるなら行ってもいいよ。
なのでバッティングはもちろん、足の速さも必要。選球眼(ストライクとボールを見分ける力)もあるともっといい。ラルフがんばれ。
バント・・・打者がバットを振らずにボールを当てて内野に転がす打法。確実に二塁にランナーを送るため、とはいいつつ失敗することもある。そりゃあるさ。
作中の場合は一つアウトを与える、と言っていますが、セーフティバントといって打者もセーフになるバントもあります。
インフィールドフライ・・・「無死または一死」で、「走者一・二塁または満塁」の場面で内野にフライが上がった場合に審判が宣告するもの。宣告されたら打者は容赦なくアウト。その代わりゲッツーもない。
審判さんが上空を指差すのがインフィールドフライ宣告のジェスチャーで、これを見るとなんかテンション上がる。
作中のこのゲッツーについて説明すると、バントの構えだったので、一塁手は投球と同時にバント処理のため前に出ました。すると一塁を守る人がいなくなるため、二塁手がカバー。そのため二塁を守るのが遊撃手となりました。なので、二塁への送球を受けたのが遊撃手になったのです。
ちなみにこのときの打者は、送りバントを失敗したため諦め気味に一塁に向かって走ったので、アウトになりました。一生懸命走れば間に合ったかもしれないのにー。
なので、あとでウォルターにしこたま怒られました。




