71. 私の捕球 その3
辺りは静かだった。そのせいか、令嬢たちの密やかな声までが耳に入ってくる。
「二球目も捕りましたわ」
「となると、最低でもジュディさまとキャンディさまとの三人での戦いになりますわね」
「けれどその前に三球目を捕ったら……」
ごくり、と彼女たちが喉を鳴らす。
ここまで誰も三球目を捕っていない。
三球目を捕ったら王太子妃となる。
けれど今、そのことは漠然とした目標でしかなかった。
ただ、殿下の球を捕りたい、その願いだけが私の胸の中を占めている。
マウンドに目を向けると、殿下が小さく首を傾げた。
「ゾーンに入っているのかな?」
そう、ぽつりとつぶやいた。
ゾーン? と一瞬だけ思ったけれど、そんなことは些細なことで、どうでもよかった。
私はボールを手に取ると、立ち上がって殿下に向かって投げる。
「ナイスボール!」
私が投げた球を受け取ると、殿下は口の端を上げた。
「じゃ、三球目ね」
「はい」
私は再びキャッチャーズボックスで構える。
なんとなく、わかる。私の集中力は、今、最大限に高まっている。
これで捕れなければ、たとえ再戦となっても、捕れるかはわからない。
だからきっと、これが最後のチャンスだ。
ああ、これが最後だなんて、もったいない。もっと受けていたいのに。何球だって捕りたいのに。
ふう、とひとつ、息を吐く。
ウォルター殿下を見つめる。こんなに近くにいられるのは、もう最後かもしれない。
この幸せな時間が永遠に続けばいいと思うけれど、捕れなければ私はまた観客席に逆戻り。
だから、最後の一球、後悔のないように、全力で。
最後だからこそ、心を込めて受け止めなくては。
殿下がピッチャーズプレートに足を乗せる。
いよいよだ、三球目。
なのに。
殿下はそこで、プレートから足を降ろしてしまったのだ。
「え?」
いったいなにが起こったのだろう。
殿下はマウンド上に立って、辺りを見渡している。
「なに?」
バッター役の選手も戸惑ったような声を出している。
「早く投げてください」
ホワイトさんが私の後ろでそう大声を出した。
「ごめん、わかってはいるんだけれど……これは」
手を上げて、殿下は戸惑うように返してきた。
その場にいる人たちは、皆、首を傾げている。
どうしたんだろう。なにが起こったんだろう。
風が、殿下の金の髪とユニフォームを揺らしている。その中で彼は空を見ながら眉根を寄せて思案しているようだった。
「ちょっと待って」
「タイム!」
ホワイトさんが両腕を上げて大きくひとつ振る。
軽く駆け寄りながら、ホワイトさんが殿下に話し掛けている。
「いかがなさいました」
「いやこれ、たぶん変化しないから」
ぼそぼそと話し合っている。
何ごとが起きたのかわからなくて、私はバッター役の人と顔を見合わせてしまう。彼にもわからないようで、軽く肩をすくめていた。
「ずるいぞー!」
ふいに兄の声がして、そちらに振り返る。
「間を取り過ぎだ! 集中を切らせるつもりか!」
立ち上がって腕を振って、大声で抗議している。
その声に、辺りもざわざわとざわめき出す。
集中を切る? ではこれは作戦なんだろうか。けれどそんな風には見えない。
「やっぱり試合では使えないかなあ」
ため息とともに殿下がそんなことを零している。
「いやそれはいいんですが、どうするつもりです?」
「投げるよ、もちろん。もう大丈夫そうだし。ごめんね」
話はついたらしく、ホワイトさんがまた戻ってくる。
兄が心配したように、集中は切れているかしら、と自分の胸に手を当てて、息を吐く。
よく、わからない。切れているような、切れていないような。
けれど舞い上がったりはしていない。落ち着けているように思う。
「ごめんね、お待たせして」
殿下にそう声を掛けられ、私はふるふると首を横に振る。
「プレイ!」
背後でホワイトさんの声がする。
私は構え直す。
殿下が足を上げ、今度こそ、腕を振った。
白球が、こちらにやってくる。
「あー……」
けれど殿下は口の中で小さくそう零す。それは、失望したような響きを持っていた。
外野方向から吹く風とともにやってきたその球は、あのブルペンで見たような、ゆったりとした球だった。
私はそのボールにグラブを差し出す。
そして何の苦もなく、ボールは私のグラブの中に、ぽすんと収まった。
「え?」
これが、魔球? 単なる棒球でしかなかった。
これがジュディさまもキャンディも捕れなかった球? いや、そんなはずはない。
ホワイトさんのコールが掛からない。バッター役の人が戸惑うように殿下を見つめている。
しばらくしてホワイトさんは、「ストライク」とキレのない声でコールした。
マウンド上の殿下は、困ったようにこちらを見て口の端を上げている。
「やったー!」
けれど椅子が並べてあるあたりから、そう声が上がる。
振り向くと、兄が両手を上げていた。
「捕れた!」
「おめでとう!」
キャンディとジミーが笑顔で手を叩いている。
令嬢たちはなにも口にすることなくこちらを見ていて、ジュディさまはただ静かに座って、小さくため息をついた。
私はそれらをぼうっとして眺めていた。
違う。
これは、私が受けるべき賛辞ではない。
変化しなかったのだ。あの雨の日、変化しなかったのと同じように。
失投だ。
私はグラブの中にある白球を手に取って見つめる。
殿下はきっと、失投は失投として、それを捕られてしまったのだから合格にはしてくださるつもりではないだろうか。
こちらを見ていた令嬢たちには、これが失投だったのかどうかはわからないだろう。
キャンディもジミーも兄も、祝福してくれている。
このまま黙っていれば、私に王太子妃の座が転がり込んでくる。
けれど、本当に、それでいいの?
私はそう自分に問いかける。
それで満足? 本当に?
私は顔を上げ、マウンドのほうに視線を移す。
殿下は諦めたような表情をして、マウンドを降りて、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
私は握っていたボールをぐっと握り直すと、殿下に向かって投げた。
急にやってきたボールに驚きながらも、殿下はそれをグラブで受け止める。
私は深呼吸をひとつすると、口を開いた。
「殿下、よろしいでしょうか」
「なに?」
私は覚悟を決めると、こう言った。
「投げ直しをしてくださいませんか」
ゾーンに入る・・・極限の集中状態。
バッターボックスに立っているとレールに乗ってボールがやってくるようだったとか、ボールが止まって見えただとか、そんな状態になるらしい。
ピッチャーズプレート・・・マウンドに埋め込まれている白い板。
この板に触れるとピッチャーとなる。離れると野手扱い。なので牽制をするときはこの板から離れないといけないとか触ってたらボークだとかなんかもう難しい。
早く投げてください・・・15秒以内に投げないと、ボールカウントひとつ献上。
そんなん無理だよ、短いよ。
失投・・・魔球は雨と風が天敵。
雨の日とはいえブルペンなら大丈夫らしいけれど、湿度も関係するらしいので、それで失投した、ということでお願いします。