56. ジュディ・アッシュバーン
「では、一番の人から……」
とウォルター殿下が切り上げようとしたところで、令嬢たちの中から細くたおやかな手が上がった。
ジュディさまだった。
「殿下、大事なことを言っておられないような気がしておりますが」
「なんだろう?」
首を傾げる殿下を見て、ジュディさまは「まあ」と微笑んだ。
「野球のルール以前に、この王太子妃選考についての説明が足りておりませんわ」
「あれ、足りてない?」
本当になにも思いつかない、というような表情をして殿下が問い返す。
「殿下は本当に野球のことしか考えておられないから」
ほほ、と優雅に口元に手をやって小さく笑う。
どうやら返す言葉はないようで、殿下は肩を落として首の後ろに手をやって撫でている。
「ごめんね、そうかもしれない。なんだろう? 指摘していただけるだろうか」
苦笑しながら殿下がそう応えると、ジュディさまはゆっくりと立ち上がり、背筋を伸ばして声を張った。
「もし誰一人、三球を捕球できなかった場合、どうなるのです?」
ああ、と令嬢たちの中から声が漏れる。
確かに。その場合はどうなるのだろう。
ジュディさまは更に続けた。
「また逆に、三球とも捕球できた者が複数いた場合は?」
殿下の球を捕るのが困難である、ということがわかっていただけに、そこまで考えが及ばなかった。
私は、自分が捕れるか捕れないか、ということばかり考えていた。
きっと視野が狭いのだわ、と心の中で反省する。
こんなことで王太子妃になりたいだなんて、おこがましい。もっとしっかり広い目で見て考えなくちゃ、と思う。
ジュディさまには、もう見えているのに。
「もし誰も三球目を捕れなかったとしたら」
殿下は考える素振りを見せることなく口を開く。
彼とジュディさまのやり取りを、皆、固唾を飲んで見守っていた。
「二球目まで捕れた方たちで、再戦だね。どなたかが三球目を捕れるまで投げ続けるよ」
それで終わるかと思いきや、ジュディさまは続けた。
「誰も二球目まで捕れなければ」
「そんなことはないと思うけれど……二球目も誰もいなければ、一球目まで捕れた方たちで再戦」
では、という言葉は言わせず、殿下は重ねる。
「もし一球目も誰も捕れなければ……そこまで低水準とは思わないけれど、そうなったらまた後日、選考会の方式も含めて考え直そう」
殿下の返答に、ジュディさまは満足げにうなずいた。
「それでは、複数いた場合について」
「それも捕れた方々で再戦。私は今のところ、側室を必要としていない」
殿下がそう言い切ったのを聞いて、ジュディさまは重ねて確認した。
「つまり、どうあろうとも、王太子妃はただ一人。そして全員が一球も捕れなかった場合を除けば、今日、王太子妃は選ばれる」
「そういうことだね」
こんなにたくさんの人がいるのに、穏やかな風の音が聞こえるほどに、その場は静まり返っていた。
それを打ち破ったのは、ジュディさまの小さな笑い声だった。
「それを聞いて安心いたしました。どうなるのかと疑問に思っておりましたから」
「指摘していただいて助かったよ。確かに、それは言っておかなければならなかったね」
殿下は苦笑してそう答えた。
「わたくしからは、これだけですわ」
「もう大丈夫かな?」
「ええ」
そしてジュディさまは優雅に腰掛ける。
殿下は令嬢たちを見渡して声を掛けた。
「他に質問や疑問がある方はいるかな?」
令嬢たちは顔を見合わせてはいるが、特にはないようで、それからは手は上がらなかった。
それを見て、殿下はひとつうなずいて、宣言する。
「では、始めよう」
◇
1番のくじを引いた令嬢が、メイドに手伝ってもらいながら、防具を装着している。
令嬢たちは皆、緊張した面持ちでそれを見つめていた。
私もそちらに視線を向けていたけれど、ふと、ジュディさまが膝の上に置いたグラブが目に入った。
見覚えがある。あれは確か、キャッチボールをしたときに持っていらしたものと同じグラブだ。
そういえば、あのとき思った。少し使い込んでいる感じがする、と。
ジュディさまはあのときにはすでに練習を開始していたのだ、と今ならわかる。
そして彼女の戦いは、捕球することだけではなく、他にも行われていた。
他の令嬢たちに対する情報戦。
あの予選会のときの言動はすべて、この日のためにあったのだ。
彼女は本気なのだ、とひしひしと伝わってきた。
私も危うく乗ってしまうところだったのを思い出す。
ジュディさまの話に落ち込んで、もう内々には決まってしまっているのかもしれない、と考えた。諦めてしまったほうがいいのではないかとも考えた。
踏みとどまったのは、本当に崖の端の端だった。すんでのところで命拾いしただけだ。たまたまだった、と言ってもいい。
私は私の左の二の腕を、右手で擦った。
こんな強敵が潜んでいたという事実に、足元から冷えていくような、そんな感覚がした。




