17. しまっていこう
令嬢たちのグラブ選択は、思いの外、時間がかかってしまっているようだった。
どれにしようかしら、と木箱の前で悩む令嬢が一人いれば、後がつかえる。グラブの入った木箱の周りには人だかりができてしまっていて、選択する段階にもいけない令嬢がたくさんいるようだった。
「殿下、いかがなさいますか」
エディさまが立ち話をしている殿下とジュディさまのほうにやってきて、そんなことを訊いている。
殿下は木箱の周りの様子を眺めたあと、うーん、とひとつ唸ってから、口を開いた。
「じゃあグラブを選んだ方から順番に二人で組んで、始めてもらおうか。どうせ一度に見ることはできないし」
「かしこまりました」
エディさまがそう了承して頭を下げ、令嬢たちに殿下の指示を伝えるために立ち去った。
「ではわたくしはこれで失礼いたしますわ」
ジュディさまもひとつ礼をして、立ち去って行く。
私はジュディさまが手に持っていたグラブを見て、おや、と思った。
木箱の中から選んだグラブにしては、少し使い込んでいる感じがしたのだ。
けれどジュディさまはこの選考会を殿下の戯れだと仰っていたのに。
なのに練習してきた?
それとも野球経験者の誰かから借りたグラブなのだろうか。
「コニー嬢」
そんなことを考えていたけれど、ふいにまた話し掛けられて思考を中断させられる。
はっとして顔を上げると殿下がこちらを見ていて、そして頬を緩めた。
「がんばってほしいな」
それだけ口にすると、軽く手を上げて立ち去って行く。私は慌ててその背中に頭を下げた。
私にお声掛けしてくださった。それだけで充分。がんばってほしいと仰ってくださったのだから、私はがんばるだけだわ。
そう自分に言い聞かせ、私は顔を上げる。
殿下はベンチ前で、エディさまと何ごとかを話し合っているようだった。
パン、とひとつ、自分の右手で自分の頬を叩く。
今は、よけいなことは考えない。
私は何度も何度もそう心の中で唱える。
とにかく目の前のことをこなしていこう。
集中!
木箱のほうに視線を向けると、グラブを選択し終えた令嬢たちから順番に、エディさまの指示に従って二人で組み、キャッチボールをする場所まで歩き出していた。
私も誰かと組まないと。
どうしよう。
キャッチボールをする様子を見るとなれば、それなりに上手な人と組んだほうがいいのではないだろうか。
けれど経験者など、一人もいないと思っていいだろう。
野球は男性がするもので、女性がするものではない。
ジュディさまはもしかしたら練習をしてきているのかもしれない、思い切ってお声掛けを、と思って姿を探すと、すでにお相手はいるようだった。
そんな風にきょろきょろと辺りを見回していると、ふいに呼び掛けられた。
「失礼」
そちらに顔を向けると、情熱的な赤毛を後ろでひとつに結んで、桃花色のワンピースを着たすらりと背の高い女性が、にこやかな笑みを浮かべて私を見ていた。
「よかったら、キャッチボールの相手をしてくださらない?」
「えっ、ええ、はい」
はずみでそううなずくと、彼女はほっと息を吐いた。
「よかった。あなた、上手そうだから」
「いえそんな」
「わたくし、野球なんてしたことがないの。観たことすらないわ。だから上手な人が相手だと安心だわ」
そうなのか。
私は心の中で、こっそりと落胆のため息をつく。
「わたくしは、シスラー子爵家のキャンディと申します。あなたは?」
「わたくしはユーイング男爵家のコニーと申します」
「そう、よろしくね」
「よろしくお願いいたします」
そうお互いに自己紹介を済ませると、キャンディさまはちら、と木箱のほうに視線を向ける。
「申し訳ないけれど、少しお待ちいただける? わたくし、まだグラブを選んでいないの。木箱に近づくこともできなくて」
「は、はい」
「ごめんなさいね」
そう謝って、キャンディさまは木箱のほうに駆けて行った。
私は、ふう、とひとつため息をつく。
相手が誰であっても私の実力は変わらない。考えたって仕方ない。そうだ、ぼうっとしている場合でもない。少し身体をほぐしておかなくちゃ。
そうして私はストレッチを始める。
どうせダメでも、ベストは尽くさなくちゃ。
私はまた、自分で自分を叱咤する。
よけいなことは、今は考えない。ダメで元々、だったんだから。そもそも私は、「王太子妃なんて普通なら考えられないお家柄」の娘なんだから。
王太子殿下に名前を呼んでいただけるほどにお近づきになれただけで、奇跡のようなものなんだから。
とにかく、がんばろう。がんばってほしいな、と仰ってくださった殿下のためにも。
しまっていこう!