16. 私のグラブ
「殿下」
「来てくれたんだね、ありがとう」
言いながら、ウォルター殿下はこちらに歩み寄ってくる。
「い、いえ」
お声掛けしてくださった。なんて光栄なことだろう。
一瞬にして、顔が赤くなったのが自分でわかった。
「それは、自分のグラブ?」
私の目の前で立ち止まると、私が胸に抱いているグラブを指差して、殿下は問うた。
「は、はい」
「見せて」
殿下がこちらに大きな手を差し出してくる。
やっぱり綺麗な指先をしていて、気を抜くとぼうっと眺めてしまいそうだ。
「どうぞ」
声が裏返らないように気を付けながら、おずおずとグラブを差し出すと、殿下はそれを受け取って、確認するようにひっくり返して見たりしたあと。
すっと、ごく自然に自分の手にはめた。
そのことに少し驚いてしまって、呆然と彼の動きを見つめてしまう。どきどきと心臓が脈打つのを感じた。
「うん」
納得したようにうなずくと、パン、と一つ、右手の拳でグラブの中心を叩く。
「よく練習しているように思えるよ」
「……見て、わかるのですか」
「わかるよ。いい練習をしていると思う」
「あ、ありがとうございます」
私は慌てて、ぴょこんと頭を下げた。
「グラブを見ればわかる。どれだけがんばってくれたのか」
そうしてグラブの手のひらのほうを、じっと眺めている。
しばらく沈黙が続く。
どうしたのかしら、なにかおかしいのかしら、と不安になってきた頃、殿下は口を開いた。
「前にここで、野球普及のために女性たちを集めると話をしたときに」
「あ、はい」
「必ず来てね、と言ったよね」
そう口にしながらグラブから顔を上げると、私をじっと見つめてくる。
私はどぎまぎするばかりで、なにか返事をしなければと思うのに、なんの言葉も浮かばなかった。
どうしよう、どうしたら、と思っている間に、殿下はグラブを外して私のほうに差し出してくる。
「よかった、来てくれて」
微笑みとともにそう声を掛けられ、私の頬はますます熱くなる。
少し震える手でなんとかグラブを受け取った。
「あ、あの、わたくし……」
がんばります、と口にしようとしたところで。
「ウォルター殿下。ご無沙汰いたしております」
ふいに殿下の後ろから声が掛かった。
「ジュディ。久しいな」
振り返り、そして柔らかな声音で殿下は返す。
ジュディさまが、そこに背筋を伸ばして立っていた。
「僭越ながら、わたくしも参加させていただいております」
「歓迎するよ。よく来てくれた」
「ありがとうございます、殿下。そう仰っていただけると」
美しい笑みを浮かべると、ジュディさまはワンピースの裾を少し持ち上げて片足を後ろに引き、礼をする。
動きがいちいち洗練されていて、いと優雅だ。
ジュディさまは頬にたおやかな指先を当て、少し困ったように口を開く。
「けれど、殿下がこのような戯れを行うとは思ってもおりませんでしたわ」
「戯れなんて嫌だなあ。私は真剣なんだけれど」
殿下は少し肩をすくめて答えた。
「そうなんでしょうね。殿下は本当に野球がお好きですから」
ほほほ、ははは、と笑いながら、二人は会話を続ける。
ジュディさまは公爵令嬢だから、きっと王太子であるウォルター殿下とも接点があるのだろう。二人の様子から、慣れ親しんだ様子が窺い知れた。
私は二人を見ながら、ちょっと胸の奥が痛んだのを感じる。
歓迎するよ、と殿下はジュディさまに声を掛けた。
それを聞いて、私は少しがっかりしてしまったのだ。
私は思い上がっていたのかもしれない。
殿下が来てくれてよかったと言ってくれて、少し、ほんの少し期待してしまったのだ。
もしかしたら殿下の中で、私は妃候補として有力だったのではないの? と。だから、よかったと仰ってくださったのではないの? と。
馬鹿みたい。そんなはずはないのに。
だって殿下とジュディさまは、そこにそうして二人で並んでいるだけで、一枚の絵画のようにお美しくて、とてもお似合いなのに。
私なんてきっと、ラルフ兄さまの妹だから気に掛けてくださっているだけなのだわ。
野球普及のために、少しでも野球に興味を示した女性に優しくしてくださっているだけなのだわ。
私はそう、一生懸命、自分に言い聞かせた。
さきほど殿下がはめたグラブの中に、そっと自分の手を入れる。
まだそこに殿下の手の温もりがわずかに残っていて、なんだか少し泣きたくなった。