青空
その声は朝一番の外気のように澄んではいたが、微かにふるえていた。
触れれば体温で溶けてしまいそうな、繊細で儚げな顔に浮かんだ表情もどこか固い。緊張していることが一目でわかった。
ソラと名乗ったその少女が自己紹介を終えたとき、クラス中は鳥の巣をつついたようにやかましくなる。
「え、めっちゃかわいい子じゃんテンション上がる!」
「あの長くてさらさらな黒髪、いいなぁ」
「目が青いしハーフなのかな?」
あーうるさい。エサを求めるひな鳥の集団のようだ。
ほら、あの子もクラスのやつらのあまりの勢いに戸惑ってる。
「みなさん、静かにしましょう。では、葵さん、一番後ろの窓際から二番目の席に着席してください。HRをはじめます」
うわ、やっぱりぼくの隣か。
以前は廊下側の一番前の席があいていたのだが、右隣に人がいないのを嫌がった子が先生に頼み込んで友達を一人引っ張ってきたのだ。その友達というのがぼくの右隣の子。だから空席は本来の場所からぼくのとなりへ移動してきた。
「おいマジか、ずるいぞ暁也!」
「くっそう、俺と席交換してくれアキ!」
こうなることは予想できてた。案の定めんどいったらありゃしない。それにこの席は一番後ろの窓際っていう最高の場所だから絶対に交換してやらないぞ智樹。
再び喧噪に包まれる教室の中、彼女は律儀にも右、前の席の人に挨拶をしていた。最後は左隣のぼく。
「あの、わたし、葵ソラといいます。気軽にソラと呼んでください。よろしくお願いします」
礼儀正しいが、どこか壁を感じさせる声音。言っている内容は親しげなはずなのに。
そのことに違和感を感じるが、初対面ならそんなものか。
「ぼくの名前は香流暁也。よろしく」
それだけ言って数学の宿題に戻る。ごめんね葵さん、もっとちゃんとした挨拶をするべきなんだろうけど、今は余裕がないんだ。
ぼくの簡素な挨拶にぺこりと礼を返すと、ちょこんとイスに座る。よかった、そんなに気にしてないみたい。
次の休み時間はわらわらと人が集まってきてやかましくなるだろうなぁ。そのときはお気に入りの非常階段にでも退散しよう。
担任が連絡事項を伝え終わり、数学の授業がはじまる。
でも、今日葵さんが転校してきてくれて助かった。こういう場合は真っ先に転校生が当てられるだろうから、自分が当てられる確率が下がる。
「はい、では授業をはじめます。みなさん、宿題はちゃんとやってきましたね? 早速解いていきましょう。では1問目、葵さんお願いします」
担任は黒板に問題を書きながら指名した。ほら、やっぱり。
さて、その間に他の問題をやっておこう。いつもみんな解答するのにある程度時間かかるし……。
「できました」
って早いよ。クラス1の秀才の速川さんでもこんなに早く解いたことなかったのに。
「わあ葵さんすごーい!」
「はやいわぁ。途中の計算式も丁寧だしわかりやすい!」
ふむ。どうやら葵さんは数学が得意らしい。でもぼくの悪あがきの時間が減ってしまった。
「葵さんよくできました。修正するところもありませんね。みなさんしっかりとノートに写すように。さて次は……香流くん、お願いします」
はい、死亡。
その後の授業も、体育を除いて葵さんは大活躍だった。速川さんも嫉妬でハンカチを噛みしめている。いつの時代だよ。
休み時間も雨あられと降り注ぐ質問の1つ1つに漏れなく答え、クラスメイトのハートをがっちりつかんだようだ。
転校1日目にしては順調な滑り出し。よかったね葵さん。でも席が隣だからぼくは大変なのですよ男子の目線とかなんやら。
まあいいか。1週間もすれば落ち着くだろう。
そんな風に思っていた矢先、葵さんが転校してきて3日目、とつぜん木、金曜日が休校になった。
「みなさんおはようございます。連絡事項を伝えます。え~校舎の工事のため明日、明後日と休校になります。工事は今日のお昼前からはじまるので、授業は2時間目までです」
勘弁してほしいよおじいちゃん先生。連絡が急すぎるよ。
一瞬ラッキーと思ったが、冷静に考えると夏休みが減るだけなので喜びづらい。
1時間目は得意な現代文、2時間目はそこそこ得意な生物Ⅱでストレスなく消化し、当番の仕事をして下校。こんな時間に帰るなんて滅多になくてちょっと新鮮だ。
当番があるからと幼なじみの智樹には先に帰ってもらったため、1人で自転車をこぐ。
暖かいから暑いに移りつつある気温の中、家路を急ぎながら、午後の予定を考える。
受験勉強かな。でもまだ行きたい大学とか決まってないし、とりあえず宿題を片づけちゃおう。
でも現代文の過去問はやっておこうかな。楽しいし。
予定が決まったため特に何も考えずぼーっとペダルを動かしていると、不意に小道から黒猫が現れた。
しっぽをゆっくりとうねらせながら、青い目でこちらをじっと見つめてくる。
思えば、このときだったのかもしれない。まだ引き返せたのは。
ぼくはなぜか、その黒猫にひきつけられた。理由はよくわからない。いつもと違った下校時間に浮き足立ち、ちょっと冒険してみようと思ったのか、それとも本当にただの気まぐれからか。たぶん後者。
自転車から降り、林の中へと消えていった黒猫を追いかける。驚かせないよう、慎重に。
ちょっとぐらいいいよね。散歩みたいなものだし。
急に自転車をとめて歩いたせいで身体の内から熱が吹き出し、真っ白なシャツをじわじわと湿らせていく。
見失わないギリギリの距離を保ちながら、青々とした葉を身にまとった木々たちの間をぬけると、開けた場所にでた。
瞬間、風が吹き抜けて、シャツをぱたぱたと揺らす。
細めた目を開ける。
そこで、ぼくは、彼女に出会った。
出会った、という表現は主にはじめてその人に会ったときに使うもので、面識がある彼女に使うのは不適切かもしれないが、この場合は限りなく、出会った、という表現が正しい。
だって、教室にいるときの彼女とは、まるで別人だったからだ。
外面的な違いじゃない。雰囲気でもない。
目だ。
空を見上げる、蒼い碧い瞳。
何かに似ている。海、じゃなくて、そう、空だ。青空に似ている。
真っ直ぐに空を見上げる彼女の瞳に、どうしようもなく惹かれた。例えるなら、世界的に有名な絵画を前にしたときのような感覚。
日本人ではありえない色に加え、瞳に浮かんでいる感情に強く強く揺さぶられたのだ。
人間、目を見ればある程度の感情は読みとれる。怒り、焦り、喜び、悲しみ。
でも、あの瞳にぽっかりと浮かんでいる感情は何だ。
わからない。感じ取れない。一欠片も。
なのに、なんでこんなにも釘付けにされるのか。感動に似たものを与えるのか。
まるで石になってしまったかのように固まるぼくをよそに、彼女は視線をかたわらの黒猫に移し、頭をなでる。
そこでぼくの存在に気づいたのか、フッと、こちらを向く。
ああ、ぼくは今、青空に見つめられている。