その六
(六)
もういいよ……。僕は独りでも平気なんだから。
誰も信じられない。
雄? 雌? ――同種の鳥でなきゃいけないの?
何でもいいじゃないか。仲良くしてくれたら、それでいいんだから。
ましてや、本能が何だ! 決められたことだけやってればいいのか? ちょっと間違っていたからって、ごちゃごちゃうるさくて仕方ないよ。
生きて行くのは僕なんだ。楽しむのも苦しむのも、すべて僕なんだから、好きなようにさせてくれたっていいじゃないか!「――いい加減にしろ! それくらいのことで開き直るんじゃないよ」
飛鳥の身体を震わせるような、本能の激しい叱責だ。
「開き直ってなんかないよ。ただこれからは、僕の好きなようにやる、ってことさ」
「そうか、分かった。だったら、もう何も言わなくていいんだな」
「ああ、結構だよ。僕は独りだって生きて行ける」
「この先、何があるか分からないんだぞ」
「だから――だから面白いんじゃないか。つらいかもしれない、寂しいかもしれない」
飛鳥は遠くを見つめながら、「でも、もういいんだ……」
と、呟いていたのだった。
――太陽が傾いている。地平線まであと少しだ。
今日は遠くまで来てしまった。帰り道に迷うことはないが、飛鳥はまだ帰りたくなかった。待っている連れ合いがいるわけでもないし、どうせ独りぼっちなんだから。
どこかに寄り道でも……。と思っても、行く当てはない。友達のところにでも行ってみようかな。
友達? そんなのいたっけ。
いるわけないよ。みんな自分が生きていくのに精一杯なんだから。
ちょっと回り道をして、飛鳥は山の中腹に寄って行こうと飛び立った。
ここは、久しぶりに来る場所でもあった。森林の中とは違って、麓のなだらかな大地と、雑木林が曲がりくねった川を支える岩石が転がっているという、自然の割れ目のような場所であった。
だから、山の中では遭遇することがない、いろんな動物を見ることができた。
夕日を浴びて、飛鳥の視界はオレンジ色に染まっている。帰巣している最中なのか、食料の調達に行っているのか、さまざまな動物が移動している。
――クッ、クッと動いていた飛鳥の首が止まった。
「もしかしたら、あれは……」
黒い棒をもった動物が、帰ろうとしているのか、麓へと進んでいた。
飛鳥が気になったのは、棒を背にした動物に、優しく抱きかかえられたウサギの姿だった。
「いいなあ……。僕もあんな風に遊んで欲しいな……」
追いかけようと、飛び立とうとした。
「待て! 行ったらダメだ!」
本能が叫んだ。
「うるさいなあ。邪魔するなって言っただろう」
「見たか、あのウサギ。殺されていたんだぞ」
「違うよ。気持ちよさそうに眠っているだけじゃないか」
「そうじゃない。あの黒い棒で殺されたんだ」
本能はそう断言した。
「どうしてそんなことが分かるんだ。見た事も会った事もないだろ」
「俺は本能なんだぞ。危険なことがあったり危ない動物がいたら、あらかじめ教えるのが俺の役目なんだ。空気で、臭いで、感覚で判断しなければいけない。たとえそれが間違いであったとしても、それは――」
「うるさい! いいかげんにしてくれ!」
飛鳥は飛び立った。
危険なもんか。危ないことなんかないよ。
あの動物だったら、きっと仲良くなれる。
飛鳥は、そう思っていた。
しかし、本能と喧嘩しているうちに、その姿をいつの間にか見失っていたのだった……。
面白くなかった。何もかもが不愉快でたまらない。
巣を飛び出してみると、目に見える動物たちは、すべて幸せそうに見える。
仲間がいたり、連れ合いがいたり……。
単独だとしても、帰巣する楽しみがあるから――としか思えない。
友達――だったあの鳥が、飛鳥から横取りした雌鳥を連れて、目の前の枝でいちゃついていた。
「ふん、勝手にしろ……」
わざわざ見せ付けなくてもいいじゃないか! くそっ!
「やけになるな。真実が見えなくなる」
繰り返し、本能は言っていた。
しかし今となっては、何も聞く耳など持てない。
――飛鳥は力強く飛び立った。そう、あの動物に会うためだ。
山の中腹では、いつもと変わらない時間が流れている。
「会えるかなあ……」
昨日会ったばかりだ。そううまくはいかない。
と、分かってはいても……。
藪の中から突き出ているのは、見覚えのある、あの黒い棒だ。
いたいた! この辺に住んでいるのかなあ。
近くまで飛んで行った飛鳥は、手頃な枝に羽を休めた。
黒い棒が動いた。藪の中から出てくるようだ。
と同時に、周辺にいた鳥たちが一斉に飛び上がった。地上を走り回る動物も、驚いたように駆けて行く。
「みんな、どうしたんだろう……」
猛獣でもいるのか? と思ったが、そんな気配は全く感じない。
そして、呆然としている飛鳥の前に、その動物が姿を現した。
動物と、飛鳥の視線が重なって……。
「やめろ! 俺の言うことを聞いてくれ!」
本能が叫んだ。「危ない、殺される。あれは、猛獣よりも恐ろしい動物なんだ。――逃げろ。お願いだから逃げてくれ!」
聞こえているはずなのに、飛鳥は反応を示さない。
それどころか、逃げ去る動物たちとは逆に、黒い棒をもったその動物の方へと飛び立ったのである。
飛鳥が舞い降りたところは、森と川の中ほどの、原っぱになっている平坦な場所だった。動物が出て来た藪と森との間に、背の低い木がポツンと立っている。その長く伸びた一本の枝に、飛鳥はふわりと翼をたたんだのだった。
まっすぐに見つめる飛鳥。驚いたのか、その動物は立ちすくんでいる。
「やめろ! 早く逃げろ――」
「うるさい! いいかげんにしてくれ!」
本能の言葉を、飛鳥は遮った。「やっと会えたんだ。僕、友達になってもらう」
「友達なんかなれるもんか! お前を殺そうとしているんだぞ」
「そんなことないよ。ほら、あの黒い棒にとまれって言ってるだろ。一緒に遊んでくれるんだ」
「その黒い棒で殺されるんだぞ」
「どうやって?」
「大きな音がして、そして……」
本能は言いよどんだ。
「ほらみろ。何も知らないくせに」
「でも、逃げなきゃいけない。早く、早く!」
本能として、判断したことは自信がある。しかし、説明のしようがない。
その動物が人間であること、そして黒い棒が鉄砲だということを、本能は教えたかったのだ。
しかし、経験がないことを、うまく伝えることができない。
――飛鳥は、ゆっくりと翼を広げた。
胸の薄紫が、一段と美しく輝いていた。そして、少しずつ喉が膨らんでくる。
本気になれば、こんなに大きくなるんだ……。
オレンジ色の輝きは、今までにない、飛鳥の情熱を表しているように……。
その動物はためらっていた。自ら目前に舞い降りてくる野鳥など、この大自然の中に存在するとは思っていなかったのである。
ゆっくりと進み出る動物。小さな木の枝に止まっている野鳥を脅かさないように、足音を忍ばせて近づいて来る。
「それでいいのか? 殺されてもいいのか?」
本能の声は、小さく震えているようでもある。
何も答えず、飛鳥は広げた翼に力を込めた。
そして……。
「早く――早く来てください」
――祈っていたのだ。
目の前の、飛鳥が憧れていた動物。
友達になってください。仲良くしてください。そして、僕をずっと抱いててください……。
動物が立ち止まった。
「逃げろ! 逃げてくれ!」
本能の声も、飛鳥にはもう聞こえていない。
今やることは、これまで何度も繰り返してきた求愛行動。失敗しながら、失恋しながら憶えてきた動作。喉の膨らみも、羽毛の輝きも、飛鳥にとっては最高のものにしなければならない。お嫁さんじゃなくたっていい。その動物に、僕のことを知ってもらうんだ。
それから首の振り方だって、こんなにうまくなったんだぞ。
飛鳥は大きく首を振った。
黒い棒が、ゆっくりと動いた。そしてその先が、飛鳥の身体に照準を合わせる。
――飛鳥は幸せだった。だって、やっと会えたんだもん。
後は、抱いてもらうだけだ。
本能の声が響く中で、飛鳥の動きは大きくなった。
翼を広げ、喉を大きく膨らませ――。
動物の肩に力が入る。そして、黒い棒が、ピタリと止まった。
――飛鳥は首を、クッ、クッと振り続けていたのだった。
深い緑色の森が、山肌を覆い尽くすようにどこまでも広がっている。
かすかな風が枝葉を震わせ、森全体が静かに動いているようでもあった。
静寂の中に、突然、大きな音が鳴り響いた。
と同時に、鳥の力強い羽ばたくような音が聞こえた。その音は方々の山にぶつかり、こだまとなって小さくなっていく。
人間が放った一発の鉄の固まりも、大自然の中では一瞬の出来事であったのだろうか。
野鳥として生まれた飛鳥の運命は、飛鳥自身にしか分からないのかもしれない……。




