その一
(一)
ここにあるのは、無数に自生している森林と、自然が織り成す風土の変貌。そして、過酷な野生生活を余儀なくされている動物たちの息づかいだけであろう。
深い山奥に残っている自然のままの森林地帯。この地形が変わるとしたら、それは天変地異といった神様にしか分からない自然現象であり、この森を生涯の生活空間としている動物たちの営みの余燼ぐらいのものだ。
このところ風の向きが変わって来た。北からの風が、この森に直撃するようになっている。もうすぐ冬だ……。
動物たちが走り回っている。暖かい土地に移り住む渡り鳥の姿はもう見えない。残っているのは、越冬のため食料を集める冬眠部隊だけだ。みんなそれぞれに、春までの快眠を確保するべく安眠ベッドを造成している。怠ったら次の春がやってくることはない。
もちろん動物だけではない。昆虫や植物だって、生あるものすべてがそうであるように。
樹の枝にとまっている一羽の野鳥。そもそも野生の鳥に名前などないのだが、ここでは「飛鳥」と名付けておくことにしよう。飛鳥は森の中に視線を廻らし、雲の流れを一瞥し、季節の往来を身体で感じていた。
冷たい一陣の風が、羽を逆なでするように吹き抜けて行く。
早く巣を作らなくては……。
そんなことを考えながらも、ただひたすらに毛づくろいをしている飛鳥。
「大丈夫なのか? そんなことをしている場合じゃないだろう」
どこからともなく、声が聞こえた。飛鳥はクッ、クッっと首を動かしてみる。
しかし、何の姿も見えない。時折、枯れ枝をかき分けながら走り抜ける小動物や、虫を口にくわえた鳥たちが飛び交うだけだ。
それに、野鳥に言葉なんかあるはずないのに……。
「早く巣を作れ。死んでもいいのか!」
また聞こえた。確かに自分に呼びかける声だ。
飛鳥は、再びクッ、クッと辺りを見回す。
気のせいだろう、と思っていると、
「お前は野生の鳥なんだぞ。生きる術は、誰も教えてくれないんだぞ!」
この森に棲む動物の声ではない。
怖くなった飛鳥は、
「誰だ! どこにいるんだ!」
と、翼を広げて、威嚇するように羽ばたかせた。
「やめろ! まだ成長したばかりの羽なんだぞ。傷ついたらどうするんだ」
その声が言った。
「お前、僕のこと知ってるのか?」
「ああ、もちろん知っているとも。お前はこの夏生まれて、やっと飛ぶことを憶えたばかりだ。自由に飛べるようになったお前は、調子に乗って遠くまで行ってしまった。ところが帰ってみると、そこには親がいない。そう、独りぼっちになってしまったんだよ」
その声は、飛鳥が飛び立とうとするのを阻止するかのように言った。
「寂しいんだろう。泣きたいんだろう。しかしお前は、孤独に耐えなければいけないんだ。分かってるのか」
と、一気にまくし立てたのだった。
「どうして独りでいなければいけないの? お母さんに会いたいよ。お父さんに会いたいよ。それに、友達だっていたっていいじゃないか」
梢から見た自然の中にいる動物たちは、家族連れだったり、仲間たちと群れを成していたり、夫婦で仲良くじゃれあったりしている光景ばかりだった。
突然、母鳥がいなくなったとき、飛鳥は気が狂ったように森の中を飛び回っていた。友達もいなければ、兄弟だっていないのだ。
「どうして――どうして僕は一人なの?」
飛鳥は、姿の見えない相手に訊いた。
「お前はどこにでもいる鳥とは違う。この世の中に数十羽といない、貴重な鳥なんだ。だから仲間なんて少ないんだよ」
「それじゃ、ずっと僕は独りなの? それに、このままだと僕の仲間は絶滅してしまうじゃないか」
「だから、お前が子孫を作らなきゃいけない。それがこの世に生まれたお前の使命なんだから」
「どうやって作るの? 僕の子孫、って……」
飛鳥には何も分からない。やっと自由に飛べるようになったばかりで、まだ巣の作り方だって知らないのだ。
「それは、あとで教えてやるよ。もっと修行を積んで、大人になってからだ」
優しい口調でその声は言った。「お前がどうしても困ったとき、どうしようもなく辛いときは、また声を聞かせてやる。負けずに生きていくんだぞ」
そして、別れの言葉を告げようとしたが、
「待って! だんだん寒くなってきたし、寝るところもないんだ。巣の作り方を教えてくれないか」
飛鳥は懇願した。
今までやってみようと思っても、知らないことはどうすることもできない。というより、何とかなるさ、といった甘えしかなかった。
「まずは自分でやってみろ。ダメだったら教えてやる」
「でも……」
でも、いつ教えてくれるの? 早くしないと冬になってしまう。
「君は、一体誰なの?」
声だけの相手に、飛鳥は訊いた。
「――俺はお前だ。お前の動物としての本能。だから、生きる術は俺が教える」
「本能?」
「しかしこれだけは言っておく。本能といっても、すべてを知っているわけじゃない。分からないことだってあるだろう。そのときは、お前の理性に委ねることになる。油断するな。甘く見るな。生きて行くのはお前なんだから……」
樹の枝がかすかに揺れている。夕暮れ迫った森の中に吹く風のせいか、飛鳥の重みを受けて震えているようでもあった。
眠っていたのだろうか。我に返った飛鳥は、いつの間にか言葉を交わしていたことさえ忘れていたのだった……。




