奪われた朝
朝の光は、ゆっくりと差し込んでくる。岩肌をくり抜いた家の隙間から、淡い光が床に伸びていた。
「……朝か」
ノクスは小さく息を吐いて、体を起こす。外から聞こえてくるのは、いつもの音。鍛冶場で鉄を打つ音、水を汲む音、誰かの笑い声。それが、この村の朝だった。
「ノクス、起きてる?」
扉の向こうから声がする。
「起きてる」
返事をすると、すぐに扉が開いた。
「やっぱり。絶対まだ寝てると思った」
リラが入ってくる。手には皿。簡単な朝食だ。
「ほら、食べなよ。今日はちゃんと作ったから」
「昨日も言ってたな、それ」
「昨日はちょっと焦げただけ!」
リラは頬を膨らませる。ノクスは小さく笑って、パンを一口かじった。
「……今日はうまい」
「でしょ?」
一瞬で機嫌が直る。単純だな、とノクスは思う。でも、その単純さが心地よかった。
朝食を食べ終えると、二人で外に出る。空は赤みがかっていて、この土地特有の色をしていた。
「今日も見回り?」
「ああ」
「ほんと真面目だよね、ノクス」
「お前が適当すぎるだけだ」
「ひどくない?」
笑いながら、リラはノクスの少し前を歩く。その距離感は、昔から変わらない。
村の中央では、すでに人が動き始めていた。
「おーい、ノクス!」
鍛冶場から声が飛ぶ。大柄な魔族の男が、手を振っていた。
「また見回りか。ご苦労だな」
「何もなければそれでいい」
「違いねえ!」
男は豪快に笑う。その横で、小さな子どもが鉄くずを拾って遊んでいる。
「ねえ、見て」
リラが袖を引っ張る。視線の先には、子どもたちがいた。角の小さい子、羽の生えかけの子。みんなで走り回っている。
「また競争してる」
「いつもやってるな」
「ね、ノクスもやれば?」
「やるわけないだろ」
「えー、絶対負けないのに」
「……どういう意味だ」
「運動神経なさそう」
「ある」
即答だった。リラが吹き出す。
しばらく歩いていると、小さな畑に出る。村の食料の一部を育てている場所だ。
「手伝っていく?」
リラがしゃがみ込みながら言う。
「時間がない」
「ちょっとくらい大丈夫だって」
結局、少しだけ手伝うことになる。土を触る感触、風の音、指の間に入り込む湿った土。戦いとは無縁の時間。
「ねえ、ノクス」
作業しながら、リラがぽつりと呟く。
「なんだ」
「このままずっと、こんな感じでいられたらいいね」
手を止めずに言う。何気ない一言みたいに。
だが、
「……難しいだろうな」
ノクスは正直に答える。
「そっか」
リラは少しだけ笑った。
「でもさ、ちょっとくらい夢見てもいいじゃん」
昼になると、二人は丘の上に座っていた。村が見渡せる場所。
「ここ好きなんだよね」
リラが寝転がる。
「静かだし」
「ここも、そのうち見回りに使われるかもな」
「やめてよ、そういうこと言うの」
少しだけ不満そうに言う。
「ねえ、ノクス」
空を見上げたまま、リラが言う。
「人間ってさ、本当にそんなに怖いのかな」
「見たこともないのに、ずっと敵って決めつけてるの、変じゃない?」
ノクスは少し考える。そして、ゆっくり答えた。
「……変かもしれないな」
リラが少し驚いた顔をする。
「でも、それでも争いはなくならない」
「なんで?」
「分からない。でも――終わらないものもある」
沈黙が流れる。風だけが、静かに吹いていた。
その時だった。遠くで、低い音が響いた。ドン、と地面に伝わるような音。
「……今の、何?」
リラが起き上がる。ノクスは立ち上がる。嫌な予感が、胸の奥を冷たく撫でる。
もう一度、音が鳴る。今度は、はっきりと。規則的な、重い音。地面が、わずかに震えている。
「……戻るぞ」
短く言う。さっきまでの穏やかな空気は、もうどこにもなかった。
村に近づくにつれて、音ははっきりしていった。足音。それも、一人や二人ではない。規則的で、揃った軍の音。
村の入り口が見えた瞬間、それはもう、いつもの景色ではなかった。煙が上がっている。焼ける匂い、誰かの叫び声、何かが壊れる音。そして、見慣れない銀の鎧。
「……人間軍」
ノクスの口から、自然とその言葉が漏れる。
「そんな……」
リラが立ち止まる。
「行くな!」
ノクスが腕を掴む。だが、リラは振り払った。
「でも、このままじゃ!」
その時、一人の兵士がこちらに気づく。
「敵だ!」
空気が裂けた。矢が飛ぶ。ノクスはとっさにリラを引き寄せる。すぐ横の地面に、矢が突き刺さった。
剣と剣がぶつかる音。怒号、悲鳴、血の匂い。ノクスは剣を抜く。目の前の兵士を弾く。
だが、多すぎる。
一人、倒す。二人目。三人目。息が追いつかない。周りでは、村の者たちが倒れていく。子どもの泣き声が、耳にこびりつく。
勝てない。その事実が、はっきりと形になる。
「ノクス!」
リラの声。振り向く。別の兵士が、リラへ向かっていた。
「やめて!!」
「もうやめてよ!!」
その瞬間、一人の男が前に出る。ルクス。彼は剣を構えたまま、動きを止める。
視線の先には、リラ。武器も持たず、ただ手を広げて立っている。
「……下がれ」
小さく、そう言った。
「お願い……もうやめて」
リラの声は震えていた。それでも、まっすぐだった。
ルクスの手が、わずかに揺れる。ほんの一瞬、ほんのわずか、迷いがあった。
だが、
「……命令だ」
剣が、振られた。
リラの体が崩れる。
「ノクス……」
「……ケンカ、しちゃ……だめ、だよ……」
動かなくなる。音が、消えた気がした。
「……殺す」
喉の奥から、声が漏れる。
「お前を……絶対に殺す」
その時、地面が揺れた。
「魔王軍だ!!」
黒い影が戦場に流れ込む。魔族の軍勢。圧倒的な力。
「……撤退だ!」
ルクスの指示。彼は一瞬だけノクスを見た。何かを言いかけて、やめた。
人間軍は去っていく。
静寂。
「生きている者はいるか!」
魔王軍の幹部が現れる。
「……ノクス。ここに残れば死ぬ。来るか」
ノクスは、リラを見る。
答えは、もう決まっていた。
「……行く」
振り返らず、歩き出す。
この日を境に、ノクスの世界は変わった。平和も、日常も、すべてが奪われた。
残ったのは、憎しみだけだった。
そして、これは。
彼が、すべてを失い、それでもなお戦い続ける物語。
僕たち魔族が、殺されるまでの物語。




