第九百九十七話 死よりもずっと恐ろしいもの(二)
シーラは、龍府からアバードに潜入するときから今日に至るまで、片時もハートオブビーストを手放さなかった。彼女が召喚武装から離れていたのは寝ている時間だけであり、彼女の睡眠時間の短さを考えれば、それもごく短時間でしかない。肌身離さず手にしているのは、ハートオブビーストが獣姫シーラの力の源泉であり、象徴だからだろう。
アバード潜入中、なにが起こるのかわからなかった。エスクたちの裏切りに遭う可能性も皆無ではなかったのだ。武器を手放すわけにはいかない。特に召喚武装など、敵の手に渡れば厄介なことこの上なかった。
シーラは武装召喚師ではない。ハートオブビーストを元の世界に送還することも、召喚し直すこともできないのだ。それが可能な人物もエンドウィッジの戦いで死んでしまっている。セレネ=シドール。気の優しそうな人物だったことを覚えている。そのセレネは、シーラ派という派閥に与したのではなく、シーラのためにエンドウィッジに赴き、死んだという。
シーラのために。
シーラを生かすために。
彼女に幸福な人生を歩んでもらうために。
そうやって命を散らせたものは、数多くいる。
シーラがいかにアバードのひとびとから愛され、慕われ、敬われていたのかがわかるというものだった。
だからこそ、彼女の無念は想像するだけで息苦しくなるのだ。シーラは、そんな人々の想いに応える形でガンディアはザルワーン方面に逃れてきた。マルウェールに隠れ、龍府に至った。息を殺すように日々を送り続けた。地を這い、泥を啜ってでも生きるほどの覚悟をしていたかもしれない。それくらいの覚悟を決めさせられたのが、シーラなのだ。彼女は、自分のために、自分の身代わりとなって死んだものたちの願いを叶えるために生きていた。そこにシーラ自身の意志はない。
シーラはただ、王都に戻りたかっただけだ。
王都に戻り、家族に迎えられ、いつもの生活に帰りたかっただけなのだ。
それがシーラの願いであり、望みだった。
望みが絶たれ、願いが叶わないものだと悟ったから、彼女はラーンハイル・ラーズ=タウラルやレナ=タウラルらの願いを聞き入れた。彼らの強い想いが彼女に生への執着を植えつけた。彼女が今日まで生きてこられたのは、彼女を慕う人々がそれを強く願い、望んだからに他ならなかった。
では、死を望まれれば、彼女はどうなる。
セツナは、シーラに歩み寄りながら、頭を振った。頭の中を取り留めもなくさまざまな考えが渦巻いていく。シーラのこと。シーラを思うひとびとのこと。アバードのこと。アバード王家のこと。王妃のこと。知っている情報を纏め上げたところで、真実の輪郭さえ浮かび上がらないのが現状だった。だから、セツナは考えるのをやめた。
「シーラ」
セツナが呼びかけたのは、十歩ほどの距離にまで近づいてからのことだった。彼女は、横顔だけでこちらを確認する。夕焼けが彼女の横顔を際立たせていた。はっとしたのは、ここまでまじまじと彼女の横顔を見たことがなかったからかもしれない。
「ここから落ちたら、死ねるかな」
「そりゃあ死ぬさ。俺もシーラも人間だからな」
小さく笑う。五階六階の建物の屋上から身投げすれば、だれだって死ぬ。人間なのだから当然のことだ。どれだけ鍛え上げたところで、人体の脆さを強化することなどできない。人間の限界といってもいい。どれだけ鍛錬を行い、死線を潜り抜け、武装召喚術を習熟したところで、弱点の多い脆弱な生き物に変わりはないのだ。高所から落下すれば死ぬし、脇腹を刺されても死ぬ。セツナがこれまで生きてこられたのは幸運に恵まれていただけのことだ。
セツナは、彼女との距離を少しずつ埋めながら、さらに言葉を続けた。あと九歩、八歩、七歩……。
「でも、死なない」
「は?」
「ラグナが守る」
セツナが笑うと、シーラの横顔が見る見るうちに曇っていった。
「なんでだよ」
シーラは、セツナからそっぽを向いた。地平の彼方に沈む夕日が彼女の視線の先にある。セツナは彼女の背後で足を止めた。あと四歩の距離。微妙な距離感。埋めようと思えば埋められるが、無理に埋めれば馬鹿馬鹿しいことになるかもしれない。
「なんで、だれも俺を死なせてくれないんだよ」
だれも、とは、ラーンハイルやレナ、セレネたちのことだろう。シーラから聞いたタウラル要塞でのあの別れが、彼女に死ぬことを諦めさせている。生を託されたのだ。責任感の強い彼女が、その想いを無視できるはずもない。
ラーンハイルもよく考えたものだ、とセツナは思う。命を託すことこそ、シーラを生き延びさせる唯一の方法だったかもしれない。その結果、アバードが戦火に包まれるとは、さすがのラーンハイルも考えてはいなかっただろうが。
そのラーンハイルが現在どこにいるのかは、未だ不明のままだった。公開処刑の会場には連れてこられていなかった。ロズ=メランの情報から、随分前に王都に移送されたのは間違いないため、いまも王都に幽閉されているのかもしれない。
尋ねる。
「死にたいのか?」
「死にたいかもな」
彼女は、こちらに向き直った。沈む夕日が逆光になって、彼女の表情は影に覆われてしまう。そして、白髪が赤く燃えているように見えた。
「俺が死んだらさ、ガンディアの大義は失われるぜ。それに、母上もお喜びくださるだろ」
「シーラ……」
セツナは、彼女の自暴自棄的な言葉に対し、返す言葉も思い浮かばず、彼女の名を口にするしかなかった。いや、あるにはあるが、いったところで詮なきことだ。
たとえば、ガンディアの大義が失われるという話だが、ナーレスのことだ。シーラがみずから命を断ったとしても、それを大義に仕立てあげる方策くらい考えているに違いない。この状況さえも予見していたのがナーレスなのだ。シーラの生死に関係なく、ガンディアにとって有利となる状況を生み出す方策くらい、いくらでも用意していそうなものだった。
彼女はぽつりとつぶやいてきた。
「俺は……生まれて来るべきじゃなかったのかな」
「そんなこと、あるわけない」
「なんでだよ。なんで、そう言い切れる?」
シーラが、激しくまくし立ててくる。
「俺のことをなにも知らないくせに。アバードのことだって知らないくせに、なんでそう言い切れるんだよ。俺が生まれなきゃ、セイルだけが生まれていたんだぜ? そうすりゃ、こんな事態には成り得なかったんだ!」
「でも、それってつまり、アバードに獣姫がいないってことだろ」
「そうだよ!」
「っていうことはさ、アバードの国土を守り抜いてきた獣姫がいないってことはさ、アバードの状況はいまと大きく変わっていた可能性も高いんじゃないか?」
「そうかもな……」
彼女は、セツナの言葉を否定しなかった。が、すぐに頭を振って、撤回する。
「けど、そんなことは問題じゃねえよ。問題は、俺の存在がこの事態を引き起こしたことなんだ。俺がいなけりゃ、俺さえ存在しなけりゃ、少なくとも内乱は起きなかった。女王擁立運動、シーラ派の暴走、エンドウィッジの戦い、ガンディアの侵攻……なにもかも、起きなかった。全部、俺の存在に起因することだろ」
「……そうだな」
否定は、できなかった。アバード政府の発表だけではなく、シーラの口から内乱の真実を聞いたいまでも、最大の原因はシーラの存在にあるということに変わりはなかった。もちろん、シーラが悪いなどとはセツナは微塵も思っていない。むしろ、シーラは被害者で、周囲に振り回されただけだという印象しかないのだが、それでも、彼女の活躍と人気が巻き起こしてきたことだという事実を否定することもできない。
「俺はなんなんだよ。俺のいったいなにが悪かったんだ? 俺はただ、この国のために戦ってきただけだろ? 人気取りなんて考えたこともないし、女王になりたいと思ったこともねえ。俺は、セイルが王位を継ぐまでは戦い続けて、その後は政略結婚でも何でもするつもりだったんだ。それでよかったじゃねえか。なんで、なんで……こんな……!」
シーラがセツナの胸に拳を叩きつけてきたが、あまりに弱々しく、痛みさえなかった。気が付くと、いつの間にか、彼女との距離がなくなっていた。まくし立てながら詰め寄ってきていたらしい。セツナがそのことに気が付かなかったのは、シーラとの会話に意識を集中させていたからに他ならない。
「だから、生きるんだろ」
セツナは、胸に突きつけられたシーラの右拳に己の手を重ねた。続ける。
「だから生きて、真実を知らなきゃならないんだろ」
「セツナ……」
「王妃殿下にお逢いして、話を聞くんじゃないのか?」
じっと見つめると、シーラは顔を俯けた。見つめ合うことが嫌で目を逸らしたのかもしれない。セツナは、彼女に嫌われても仕方がない状況にいる。
「うん……」
「それでもまだ死にたいっていうのなら、そのときは……さ」
「そのときは?」
シーラが顔を上げてきた。相変わらず逆光の中にあるが、至近距離にいるということもあって、彼女の瞳が潤んでいることがわかる。泣いていたのかもしれない。胸が締め付けられる。
「うーん……やっぱりダメだ」
「なんだよ」
シーラの声は不満そうだった。死ぬのを認めてほしいというわけでもないだろうに。
セツナはわざとらしく、告げた。
「おまえは俺のものだからな。死なせない」
「……ひでえな。酷い領伯様だ」
シーラの反応は、穏やかだ。しかし、表情に大きな変化はみえない。少なくとも、柔らかくなっているようにも思えなかった。
「でも、ありがとう」
「ん?」
「本当のこというと、全部、わかってた」
シーラがハートオブビーストを手放したのが、金属音が響き渡ったことでわかる。彼女がなぜ斧槍を手放したのかは不明だが、いまは不要だと判断したのかもしれない。安心している、ということだろうか。
「このアバードを取り巻く状況は、全部俺のせいだ。俺の撒いた種だ。俺がシーラ派の暴走を止められなかったことがすべての始まりなんだ。それを他人のせいにして、自分だけは生き延びて、悲劇の渦中にいると主張して……なにもかも自分のせいなのにな」
シーラの独白は、続く。セツナはただ、聞いてあげることしかできない。口を挟む余地はなかったし、それこそ無粋と言わざるをえない。
「ラーンハイルとの約束を守っていればよかった。アバードのことなど忘れて、ガンディアで生きていれば、こんなことにはならなかった。アバードにセツナを連れて行ったのも、俺だ。売国奴か。俺に相応しい烙印だよ、まったく」
皮肉げな物言いは、彼女の調子が戻ってきたということなのかどうか。少なくとも、表情も口調も普段のシーラらしい明るさはなかった。ただ、ナーレスの前で見せたような複雑さは消えて失せており、その点ではセツナも安堵を覚えた。少しずつだが、確実にシーラは安定を取り戻しつつあるように思える。
「ガンディアが俺を救援するという名目で軍を動かしたのも、俺のせいだろ? 俺がガンディアに隠れ住むだけでなく、セツナに頼り、ガンディアと深い繋がりを持ってしまったから、こうなった。軍師様が策謀を巡らせる機会を与えてしまったのは、俺なんだ。ほかのだれが悪いわけじゃねえ。もちろん、セツナが悪いわけでもない。全部、俺が悪い」
シーラの独白は、常に自分を責めるものだった。自責の念が彼女の心を圧迫しているようであり、そのことがセツナの心を締め付けていく。きっと、責任感の強さからくるものなのだろうが、シーラのこの責任感の強さは、いったいなんなのだろう。王族に生まれ、王子として育てられていく中で身についていったものなのか、それとも、生まれ持ったものなのか。
いずれにしても、シーラこそアバードの次期国王に相応しいという風潮が生まれ、アバード全体がそういった熱狂に包まれていったのもわかるというものだった。シーラならば、良い女王として君臨するに違いないという期待が持てる。もちろん、彼女自身が望んでいないこともよく理解しているが。
「だから、見届ける必要があるんだ。この戦争の行き着く先まで、この目で見届けなけりゃならねえ。多くの血が流れるだろうし、たくさんのひとが死ぬだろう。それを全部見届けることが、この状況をつくりだしてしまった俺の役割だ。たとえ売国奴と罵られようと、数多の人々に呪われようと、恨まれようと、この役割を全うするしかない。そこから逃げたら、母上に合わせる顔もない。母上に会うんだ。逢って、話を聞くんだ」
シーラの決然とした声音に、安心感が強くなる。
「どうしてそこまでして俺を殺したかったのか。真相を聞くまでは死んでも死にきれねえ」
シーラがセツナの手に右手を重ね、両手で包み込むようにした。
「だから、だいじょうぶ」
シーラはそう告げてきたが、彼女がセツナに笑顔を見せることはなかった。
彼女の笑顔は、あのとき以来、失われたままだった。
それがセツナには気がかりだったが、だからといってなにができるわけもなく。
「それを聞いて安心したよ」
そういって、彼女に笑顔を見せるしかなかった。