第九百九十四話 大義(六)
静寂が横たわっている。
シーゼルのアバード軍駐屯地にある建物の一室に、セツナたちはいる。セツナとシーラ、それにエイン=ラジャールとナーレス=ラグナホルンのたった四人だけが、その広い部屋の片隅に集まっていた。部屋の片隅、である。そこには寝台が置かれていて、その寝台にナーレスがいた。上体を起こし、座っている。簡素な衣服を身に着けているのは、体への負担を少しでも軽くするためかもしれない。ナーレスは一目見て死に瀕しているのではないかと思うほどに痩せ細っていた。骨と皮だけの状態とはまさにこのことであり、痛ましいことこの上なかった。
「まずは、お二方との無事の再会を喜びましょうか」
「そんなことは、どうでもいい」
ナーレスの一言をぶった切ったのは、もちろん、シーラだ。彼女は、ナーレスが病床にあることなどお構いなしに詰め寄り、声を荒げた。
「どういうことだ? これは。なにもかも、あんたの仕組んだことなのか?」
ナーレスを前にすれば彼女がそう出るであろうということは、セツナにも想像できていた。ガンディア軍を実質的に動かしているのが軍師ナーレス=ラグナホルンだということは、シーラもよく知っていることだ。ガンディア軍が動くとなれば、そこにナーレスの意志が関与していないはずもない。
ナーレスは、シーラの剣幕に対しても動じる様子はなかった。
「そうですね……どこから説明すればよいのやら」
「なんでガンディアが攻め込んできたんだ!」
「シーラ姫を窮状からお救いさし上げるべく、参上したまでです」
ナーレスは、にこやかに微笑み、告げた。シーラが息を呑んだのは、ナーレスの笑顔が笑顔になっていなかったからかもしれない。死に瀕し痩せ細った軍師の顔は、幽鬼のそれといって差し支えなく、いかにも朽ちかけた体とは対照的に爛々と輝く双眸が、彼の表情をより恐ろしいものとして認識させた。
シーラが、反芻するように問う。
「窮状……だと?」
「アバードは、ガンディアに対して、姫様の身柄を引き渡すようにいってこられました。我が国としてはその取引には応じる理由がない。アバードは同盟国であり、大切な国ではありますが、同様に姫様もまた、大切なお方。なにより、姫様はセツナ様の支配物。我々の勝手でどうこうしていい話ではございません。よって、ガンディアはアバードの申し出を拒否したまで」
「それは……いいさ。でも、だからといって、アバードに攻め込んできたのは、どういうことだ?」
「ですから、それも姫様をお救いさし上げるため、ですよ」
「俺を救うこととアバードを侵攻することが同じだというのか?」
「ええ。同じことです」
声を荒げるシーラに対し、ナーレスは、微笑みを浮かべるだけだ。そしてその幽鬼の微笑みには、やはり脅威的なものを感じざるを得ない。
「アバードの現状を考えてもください。シーラ派と王宮派の対立に始まる内乱は、アバードに深い爪痕を残しています。その爪痕はいまも癒えることはなく、むしろ悪化の一途を辿っている。王宮によるシーラ派の弾圧もそうですが、アバードは、いまやベノアガルドに頼らなければならないほどに弱体化してしまった。それもこれも、現国王リセルグ・レイ=アバード陛下の過ちによるものとしか言いようがない」
「あやまち……」
「姫様を受け入れていれば、このような事にはならなかった。そうは思いませんか?」
「……だからって、ガンディアが口を挟んでくるようなことじゃない」
シーラの言い分ももっともだと、セツナは思った。アバードの国内問題にガンディアが口を出す道理はない。内政干渉など以ての外だ。少なくとも、そのような考えが、この小国家群では当たり前だったし、セツナもそう教わっている。
「アバードは、ガンディアにとって大事な同盟国。その同盟国が弱体化し、壊れていくのを黙ってみていられるはずもありませんよ」
「余計なお世話だ」
「このままアバードがベノアガルドの傀儡になっても構いませんか?」
「それは……」
シーラが言葉を濁すと、ナーレスは、またしても微笑を浮かべた。彼は穏やかに笑っているだけなのだろうが、幽鬼の微笑ほど恐ろしいものはなく、セツナは、そんなナーレスの様子に痛々しさを感じずにはいられなかった。ナーレス本人にしてみれば、余計なお世話なのかもしれないが。
「ベノアガルドが南進を目論んでいるのは、ガンディアの内情を調査していたことからも明らかです。アバードを支配すれば、ジュワインを下すのも容易い。ジュワイン、アバードを手に入れ、その戦力で持ってガンディア領に攻め込んでくるという算段なのでしょう」
ナーレスは、その姿からは想像もつかないほどすらすらと言葉を並べていく。言葉だけを聞いている限りは、彼が死に瀕しているとは思えない。が、一目見れば、彼の病状が深刻極まりないのは、セツナでさえわかる。
「アバードがベノアガルドのものとなれば、ガンディアにとっては大きな痛手。アバードがアバードのまま独立していられるのであれば構いませんが、ベノアガルドの関与を見ている限り、そうなる可能性は限りなく薄い。我々が軍をアバードに差し向けたのは、アバードの地からベノアガルドの軍勢を退けるためでもあるのです」
ナーレスが語る中、シーラは沈黙を続けていた。だが、その手は拳を作り、震えている。彼女の横顔からは、複雑な感情が渦巻いていることが見て取れた。もっとも強い感情は、怒りだろう。国を捨てざるを得なかったとはいえ、アバードは彼女にとって愛する祖国なのだ。
「そして、アバードが平穏を取り戻した暁には、シーラ姫の王位継承権を復活させ、女王として君臨して頂く所存にございます」
「なにを……なにを勝手な!」
シーラが憤然と叫ぶのも無理はなかった。ガンディアによるアバード侵攻のお題目に利用されているということにほかならない。シーラ派に利用されることを嫌ってアバードを捨てたシーラとしては、たまったものではないだろう。
「それが、アバード国民の意志にございます」
「ガンディアの意向だろ! それは!」
「いえいえ。さきもいったように、アバードのひとびとは、姫様を慕い、姫様こそ、アバードの王に相応しいと思っているのです。だれもがそう考えている。だからシーラ派という派閥が生まれた。だから、王宮はシーラ派を潰そうとした。そのまま放っておけば、シーラ派がアバードを席巻し、シーラ姫がアバードの実質的な王になってしまうから」
ナーレスは、涼しい顔で続ける。
「しかし、よくよく考えても見てください。シーラ姫が王になることのなにがいけないのでしょうか。女王によって統治されることのなにが問題なのでしょうか。シーラ様は、これまでこの国のために骨を砕き、身を粉にして参られた。だれもが姫様の活躍を耳にし、姫様こそアバードの英雄だという声ばかり。姫様がアバードの頂点に君臨することになんの問題もないのではないですか? それこそ、まだ年端もいかない王子が王位を継承するよりは、余程アバードのためになるはずです」
「俺は、そんなこと、これっぽっちも望んじゃいねえ!」
シーラは、いまにもナーレスに掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。エインがふたりの間に入るほどの剣幕であり、セツナも彼女を抑えるために身を乗り出していた。彼女の気持ちも痛いほどわかる。無念だろうし、怒りが渦巻いていることだろう。しかし、ここでナーレスに掴みかかったところで、なんの意味もない。
それは、シーラもわかっているはずだ。
「姫様。それは、姫様にあるまじき発言だといわざるを得ませんね」
「なんだと……! てめえ、俺のなにを知って――」
「アバードのためです」
「っ!?」
「この国のために最良の選択をしてください。この国を救うため。この国をあるべき姿に戻すため。この国を正しく導くため。姫様には、このアバード侵攻軍の陣頭に立って頂きます」
「ふざけるな」
「ふざけてなどいませんよ。わたくしは至って真面目に話をしています」
「そんな話、俺が引き受けるとでも思っているのか!?」
「姫様の意見など、聞いてはいないのです」
「貴様っ」
「我々も姫様も、とっくに引き返せない状況にきているのです。人死も出ています。いまさら矛を収め、なかったことにしよう、だなどといえるはずもありませんよ。それとも、姫様をアバードに差し出せばよろしいのですか?」
「……!」
「アバードは姫様の身柄の引き渡しを求めています。姫様の身柄さえ引き渡せばそれで丸く収まるとも思えませんし、アバードがベノアガルドの属国に成り果てるのは火を見るより明らかですが、それでも構わないというのであれば、すぐにでも行動に移りますよ。なに、バンドールは目と鼻の先です。明日、明後日にも王都まで送り届けられましょう」
「俺は……」
シーラはなにかをいおうとしたが、言葉を飲みこんだ。かと思うと、すぐさま踵を返して部屋を出て行った。セツナが呼び止める暇もなかった。振り向いたときには、部屋の扉が勢い良く閉まるのがみえたほどだ。セツナは、呆然とつぶやくに留まった。
「シーラ……」
「困りましたね」
ナーレスは、まったく困ってもいない口調で、そんなことをいってきた。セツナは、彼を振り返り、口を開いた。伝えておく必要がある。
「シーラは、王妃様に逢う必要がある。だから、引き渡しには応じられない」
「セリス王妃に? ならば、引き渡しに応じても問題ないのでは?」
「シーラを引き渡せば、殺されるだけだ」
「なるほど。そういうことでしたか」
彼は、納得したようにうなずいた。
「姫様は、ラーンハイル伯の処刑を止め、その後に続くであろう惨劇を回避するため、このアバードへの潜入に踏み切られた。しかし、処刑はまったくの偽りで、姫様を誘き寄せるための方便に過ぎなかった。そして、姫様を誘き寄せたのは、姫様を殺すため……だったということですね」
「ああ」
ナーレスがさらりと告げてきたことに、セツナは驚きを禁じ得なかった。アバードの発表とは、セツナ率いる集団によって処刑会場が襲撃され、台無しになったというものだろう。その文面だけでは、公開処刑がシーラを誘き寄せるための策だとは想像しにくいように思えるのだが。
「それならば、シーラ姫を引き渡すわけにはいかなくなりましたね」
「そういうことになる」
「しかし、そうなると、シーラ姫には我が軍の陣頭に立っていただくことになりますが」
「シーラが承知しねえだろ」
彼女の態度から見て、そんなことを承知するとは思い難かった。ガンディア軍の陣頭に立つということは、アバードの敵になるということだ。名実ともに売国奴と成り果てる。そんなこと、シーラが望むはずもなかった。認めるはずもなかった。
ナーレスは、表情を変えることもなく口を開いた。
「承知していただきますよ。姫様本人がどうお考えになっておられようと、関係ありません。ガンディアは、シーラ姫をお救いさし上げるべく、軍を差し向けてきたのですから。それに、姫様がガンディア軍と合流したことを知らしめれば、アバード各地のシーラ派も沸き立つことでしょう。シーラ派のひとびとは純粋ですからね。我々が姫様を女王にすると信じて疑っていないでしょう」
ナーレスの言葉を聞く限り、彼はシーラを女王にするつもりなどなさそうだった。つまり、ガンディアの領土を拡大することがこの戦争の主題であり、シーラを窮状から救い、アバードの王位を継承させるというのは、アバードの領土を掠め取るためのお題目に過ぎないということだろう。
セツナは、彼の考えが少しわかった気がするとともに、彼がなぜ、自分のアバード行きを認めたのかを理解した。こうなることがわかっていたからではないか。アバードとガンディアの友好関係が壊れ、侵攻する理由が得られるからではないか。外交問題になることこそ想定済みであり、だからこそ、暴挙とでもいうべきシーラのアバード潜入を認め、あまつさえセツナの同行を認めたのではないか。
「……ナーレスさん」
「なんです?」
「全部、わかっていたんですね?」
セツナは、ナーレスの痛ましい姿を直視した。彼の目を見据える。いまにも死にそうな体とは裏腹に生気に満ちた目は、彼の精神力の強さからくるものなのかどうか。
「全部、わかった上で、俺とシーラのアバード行きを認めたんですね?」
「まさか」
ナーレスは苦笑を浮かべた。
「いくらわたくしでも、なにもかもすべてが視えていたわけではありませんよ。ですが、だいたいのことは、わたくしの思った通りに運んでいます」
ナーレスの冷ややかな言葉には、セツナは寒気を覚えた。