第九百九十二話 大義(四)
ガンディア軍の占領下にあるアバード軍駐屯地は、ガンディア軍一色といっていい状態にあった。敷地内にいくつもある建物にはガンディア軍の関係者ばかりが出入りしており、シーゼルに駐屯していたアバード軍将兵の姿はどこにも見当たらなかった。
「シーゼルのアバード軍は、ほとんどがガンディアに降りました。そのうち、半数程度がシーラ姫のためならば、ということで協力を申し出てくれています。それについてはどうするべきか判断に迷うところなんですが、姫様御本人がここにこられたとあらば、その申し出を受け入れる方向で考えるべきでしょうね。戦力は多ければ多いほどいいのですから」
基地内を移動中、エインはセツナの疑問に対してそのように答えてくれた。そして、アバードの将兵たちが見当たらないのは、別の建物に集められ、ガンディア軍の監視下に置かれているからだということもわかった。
駐屯所には様々な施設がある。屋内訓練施設もあれば、屋外の練兵場もある。シーゼルに長期滞在することになれば、そこで訓練を行えばいいということだったが、エインたちの見立てでは、そこまで長期間シーゼルに滞在することはないだろうということだった。
エインに先導され、セツナとシーラが足を踏み入れたのは、駐屯所中央に位置する一番大きな建物だった。いかにも権威主義的な厳しい建物であり、外観からそこが重要施設であることは明らかだ。駐屯所が戦場になれば真っ先に狙われそうな建物でもある。
建物の出入り口は厳重に警護されており、警護についている兵士たちは、エインの姿を見て敬礼すると、つぎの瞬間、セツナを目撃して緊張感たっぷりに再度敬礼した。
「さすがはガンディアの英雄様ですね」
「さっきもそんな言葉を聞いたよ」
「ま、セツナ様ですし」
「どういうことだよ……」
セツナは、エインの要領を得ない言葉にあきれながら、彼の後に続いて建物に足を踏み入れた。背後を一瞥する。シーラは、さっきから一言も発していなかった。憔悴している。なんとかして、彼女の力になってあげたいと思うのだが、セツナがガンディアの人間である以上、なにをいったところで彼女には響かないということもわかる。余計に彼女の怒りを買うだけだ。だからなにもいえない。手を差し伸べることもできない。
それが苦しくて、たまらない。
シーラを助けるための旅路が、彼女を追い詰めることになってしまった。
こうなることはまったく予期していなかった、といえば、嘘になる。セツナはガンディアの重臣であり、ガンディアの英雄と呼ばれるほどの人間だ。自分の立場についてはよくわかっているつもりだし、だから安易に行動してはならないということも理解している。ゆえにこそ、シーラとともにアバードに向かう際も、ナーレスに話を通したのだ。ナーレスに伺いを立て、軍師のお墨付きを得たからこそ、セツナはアバードに乗り込んだ。
正体が露見すれば、ただではすまない。
ガンディアとアバードの関係が悪化するどころか、外交問題となり、セツナの立場さえも危うくなるということだって、知っていた。だから正体を隠し続けた。ちょっとしたことで正体が判明してしまったが、あのとき、シーラが口を滑らせなかったとしても、セツナの正体は騎士たちにわかっていただろう。
黒き矛を召喚しなければ、あの状況を切り抜けることは不可能だった。
だから、シーラが口を滑らせたことは問題にはならない。彼女はそのことで自分を責めていたが、セツナは、それは違うといっている。あのまま正体を隠し、黒仮面だけで切り抜けられるほど、騎士たちは甘くはなかった。
正体が露見してしまった以上、アバードがガンディアを非難するだろうということは想像に固くなかったし、それに対してガンディアが何らかの行動にでることもわかっていた。
とはいえ、ガンディアがアバード領内に軍を差し向けてくるとは思わなかったし、その際、シーラを救うことを大義として掲げるとは、想像すらできなかった。
そんなことを考えながら、広々とした通路を歩いていく。考えれば考えるほど、自分の迂闊さを呪いたくなる。目先の事しか考えられないから、こうなるのだ。戦闘では常人以上の広い視野を得るセツナも、未来までは見渡せない。
時折、ガンディア軍の兵士と擦れ違い、そのたびに敬礼をかわした。
「あ、隊長!」
通路を曲がった先から声が飛んできたかと思うと、つぎつぎと彼を呼ぶ声がした。
「隊長? セツナ?」
「セツナ!?」
「御主人様ですか!?」
物凄い勢いで駆け寄ってきたのは、ルウファ、ファリア、ミリュウ、レムの四人だった。ルウファ、ファリア、ミリュウの三人は《獅子の尾》の制服を着こみ、レムだけは相変わらずのメイド服という格好で、軍事施設の中で浮いていた。が、彼女がそんなこと全く気にしていないのは、その態度からも明白だった。
「みんなも来ていたんだな」
セツナは、仲間たちの出迎えに少しばかり感動を覚えた。妙な懐かしさが湧き上がってくるのは、随分長い間逢っていないのだから、当然といえば当然だった。
《獅子の尾》の面々と、彼の第一の従者。
「無事だったんですね」
ルウファがほっとしたようにいう。いつも一緒にいるはずのエミルの姿が見当たらないのが、少しばかり不思議な感じがした。彼とエミルは、いつの間にかふたりでひとりのような認識をしてしまっている。もっとも、あながち間違いでもないはずだ。
その彼に向かった憤然と言い放ったのは、ミリュウだ。
「当たり前でしょ、セツナがそう簡単にやられるはずがないじゃない」
相も変わらぬ赤い髪が印象的な彼女は、《獅子の尾》の隊服を着込んでいるというだけなのにとてつもなく色気があった。しかし、彼女にはいつもと違うところもある。ミリュウといえば、セツナに抱きついてきたり、首に腕を巻きつけてきたりするのが定番だったが、いまはなにもしてこなかった。それだけのことなのだが、別人のような印象を抱く。
「そうね。でも、本当に無事でよかったわ」
ファリアの微笑を見ると、彼女が銀縁の眼鏡をかけていることに気づく。セツナははっとしたが、問いかける暇はなかった。ファリアの隣で、レムがなぜか辛抱できないとでも言いたげな表情をしていたからだ。
「何ヶ月も逢っていないような気分です」
レムは、なぜか目をうるませて、熱っぽい目でこちらを見ていた。実に彼女らしくない反応だったが、悪くはなかった。レムにしおらしい部分があってもなんらおかしくはない。
「実際、一月以上ぶりですかね」
「そうだな……うん」
セツナがシーラ、ラグナとともに龍府を立ったのは、五月十日の真夜中のことだ。今日は六月十八日。実に一ヶ月以上、アバードに滞在していることになる。セツナもまさかここまで長い間アバード国内に隠れ住むことになるとは想っても見なかったし、それは、シーラ自身が一番思っていることに違いない。彼女は、リセルグ王に直訴してそれで終わりにするつもりだったのだ。どうやって終わらせるのかは、セツナにはわからなかったが、彼女には勝算はあったらしい。
リセルグ王に会うことさえできればなんとかできたらしいのだ。
そして、それで終わっていれば、ガンディアがアバード領に軍を差し向けてくることなどあるはずもなく、ガンディアとアバードの関係は友好的なままだっただろう。それがシーラの理想だっただろうし、セツナもそうなることを信じて、彼女とともにこの地への潜入を行ったのだ。
しかし、そうはならなかった。
「皆さん、つもる話もあると思いますが、後にしてもらってもよろしいでしょうか?」
「えー」
「えー、じゃないの。わかりました。じゃあ、セツナ、また後でね」
「ああ、また後で」
ファリアがお辞儀とともにその場を立ち去ろうとすると、ミリュウとレムが食い下がった。
「えー、なんでよー」
「そうです。わたくし、御主人様に伺いたいことが……」
「だから、後にしろっていってるんでしょ。エイン室長の用事を済ませるほうが先だし、そのほうがゆっくり話せるわよ」
「むう……仕方ない、か」
「……ですね」
ミリュウとレムが顔を見合わせて、頷き合う。
「ということで、隊長、我々はこれにて」
「話が終わったらすぐに来てよね」
「御主人様、お待ちしておりますので」
強い口調でいってきたミリュウとは対照的に、レムは恭しくお辞儀をしてみせた。それから、三人に続いてセツナたちの前から立ち去っていく。
「……にぎやかですねえ」
「本当にな」
エインの微笑には、セツナも苦笑を浮かべるしかなかった。実際、賑やか極まりないのが、《獅子の尾》という部隊だ。どんな状況にあっても一番騒いでいるのが《獅子の尾》であるといってよく、騒ぎの渦中にいることもまた、多い。戦時のみならず、平時までも騒がしい。その騒がしさ故に問題を起こすことがないのが救いだ。だれもが自分の立場を理解して行動している。
もっとも、レムだけは《獅子の尾》の隊士ではない。彼女は、セツナの従者であり、だからこそ、セツナが隊長を務める《獅子の尾》と行動をともにしていたのだろう。そして、レムは《獅子の尾》に馴染んでいる。クルセルク戦争の頃から常にセツナの側にいたことが影響しているのは、間違いない。
ともかく、賑やかな面々と別れたセツナたちは、エインに案内されるまま、通路を進んだ。
やがて、突き当りの部屋に辿り着くと、エインが扉を軽く叩いた。しばらくして、中から反応があったのか、エインはおもむろに扉を開き、セツナとシーラに入室を促した。
室内に入ると、花の香りがした。花瓶はすぐに視界に飛び込んでくる。机の上や棚の上に置かれており、それらの香りが室内に充満しているようだった。花の香は爽やかで、どれだけ充満していても気分が悪くなるようなことはなさそうだ。
エインが部屋の扉を閉じ、セツナたちの先に進む。彼についていくと、仕切られた室内の奥に踏み込むことになったが、躊躇することもなかった。が、仕切りの向こう側の光景を見た時、セツナは一瞬、呼吸を忘れるほどの衝撃を受けた。
「セツナ様、シーラ姫、お待ちしておりました」
そういってきたのは、寝台の上の人物だった。頬がこけ、見るからにやつれきった様子の人物は、しかし、紛れも無くナーレス=ラグナホルンであり、だからこそセツナは衝撃を受けるのだ。一月ほど前、龍府で見たときは、健康そのものといってもいいような姿であり、元気に龍府の中を駆けまわっていたという話も聞いている。ザルワーンでの投獄中に毒をもられたという話も忘れてしまうほどの元気さであり、毒を克服したのではないかと勘違いさせた。
だが、目の前の彼の様子を見る限り、毒を克服し、死の運命を逃れたとは思えない。
「こんな姿で申し訳ありませんが、どうかご了承の程を」
落ち窪んだ目を鈍く輝かせる彼の姿は、幽鬼のようですらあったからだ。