第九百九十一話 大義(三)
「遅かった……」
シーラがぽつりとつぶやいた言葉を、セツナは聞き逃さなかった。だからといって、彼女にかけるべき言葉も見当たらず、茫然とする以外にはなかったのだが。
セツナたちは、馬車を降り、その光景を見ていた。夕日に照らされたアバードの大地にひとつの都市が見える。シーゼルだ。
シーゼルは、アバード南西の都市であり、龍府のちょうど真北に位置するといっていい。セツナとシーラがアバード潜入後、最初に入った都市であり、エスクたちシドニア傭兵団の残党と遭遇した街でもある。大陸の都市の例にもれず、四方を堅牢な城壁で囲われているのだが、その一部が大きく破壊されていた。セツナたちがセンティアに向かうときにはなかったものだ。まず間違いなく戦闘の爪痕だろう。つぎに目に入ってくるのは、城壁などに掲げられた旗だ。アバードの国旗や軍旗ではなく、ガンディアの国旗、軍旗がはためいていた。
西に沈む太陽が猛然と燃え盛る中、銀の獅子の旗が揺れている。
つまるところ、シーゼルはガンディア軍によって占領されたということだ。
六月十八日。
センサールの砦にガンディア軍の国境突破の報せが届いて四日が経過している。ガンディア軍の戦力を持ってすれば、四日もあればシーゼルくらいたやすく落とせるだろうということは、セツナにもわかっていた。ガンディアはおそらく龍府の戦力を派遣している。龍府には、セツナ率いる《獅子の尾》が滞在していた。休暇も終わる頃合いだ。ファリアたちが動員されたとしても不思議ではないし、隊長が不在だからといって運用できないはずもない。そして《獅子の尾》は、セツナの有無に関わらず強力極まりない部隊だ。そんな部隊が動員されれば、シゼールなど、たやすく落ちる。
落ちるべくして落ちただけのことだ。
そのことに特別なにか感じるようなことはない。
問題は、これによってガンディアとアバードが完全に敵対関係になったということだ。同盟関係の解消は無論のこと、これまでの友好的な空気は一瞬にして消えて失せた。シーラが尽力してきたものがすべて霧散した。
彼女は、名実ともに売国奴となった。
「俺は……いったい……なにを――」
うわ言のように言葉にならない言葉を紡ぐ彼女を馬車に乗せ、セツナは、シーゼルに急がせた。馬車は、もちろん、センティアの《星のきらめき》亭のものであり、三台の馬車の荷台に五十人ほどが分乗している。
シーゼルへの急行を決めたのは、シーラだ。
セツナは、せめて戦争を回避したいという彼女の想いを汲んだ。すぐさま馬車が用意出来たのは、幸運としか言い様がなかった。ちょうど宿の馬車が物資を届けてくれたときだったのだ。その馬車を引き止め、シーゼル行きを伝えた。状況は逼迫している。アバード軍に発見されようがされまいが、いまや関係なかった。乗せられるだけの人員を乗せ、乗り切らなかった傭兵たちには、センティアに使いを走らせ、馬車を寄越させることで対応した。
そうやって、三台の馬車を捕まえたのだ。
そこからシーゼルまでは走りっぱなしだった。とにかく急ぐ必要があった。急がなければ間に合わない。いや、急いでも間に合わないだろうという冷静な考えがセツナの頭の中にあったが、彼はなにもいわなかった。シーラの切羽詰まった表情を見ていると、そういう言葉を吐くことはできなかったのだ。エスクも、めずらしくなにもいってはこなかった。
そして、シーゼル付近まで辿り着いたのが、つい先程のことだ。夕日に赤々と照らされたガンディア軍旗が、シーゼルの陥落を主張していた。シーゼルそのものが静寂に包まれていることから、シーゼルがガンディア軍の手に落ちたのは、数日前のように思えた。やはり、どれだけ急いだところで、ガンディア軍の侵攻を止めることはできなかったのだ。
それからシーゼルに向かうと、門前で、ガンディア軍ログナー方面軍の軍服を着込んだ兵士たちに馬車を止められた。鎧兜こそ身に纏っていないものの、武器を携帯した兵士たちの様子から、シーゼルは厳戒態勢下にあるのだということがわかった。
御者台のほうから話し声が聞こえてきたかと思うと、元傭兵が門兵に問いかけているのがわかった。
「なんなんです? 仕入れのためにシーゼルに入らなきゃならないんですが?」
「シーゼルはガンディア軍の占領下にある。市内に入りたいのならば、我々の意向に従ってもらうことになる」
「そりゃあまあ、わかりますが。なにをすればよろしいんで?」
「まずは荷台を調べさせてもらう。あやしいものがあれば、取り調べを受けてもらうことになる」
「なにもありませんぜ?」
「……なにもなければないで問題はないだろう」
「そりゃあそうですが……」
御者と門兵の話し声が聞こえていたのは、セツナの乗っている位置が御者台に近かったからだ。御者は、荷台を調べられることがまずいと想っているのか、門兵と話を引き延ばすことに必死だった。エスクが顔を寄せてくる。
「大将、どうします?」
「俺がいる。なんの問題もないさ」
セツナがあっさりと告げると、エスクはきょとんとして、それから手を打って納得した。
「皆、降りろ」
「大将のいうとおりにしろー」
エスクが続けると、傭兵たちはすぐさま馬車の荷台から降りていった。セツナは荷台の前の方から外に出ると、シーラが飛び降りてくるのを待った。シーラ、エスクが続いて前の方から出てくる。残りの十数人は荷台の後方から降りており、門兵たちが愕然としたような声を発するのが聞こえた。一台目の馬車から全員が降りると、残る二台の馬車からも傭兵たちが降り立ち、門兵たちを慌てさせた。まさか屈強な男ばかりが五十人ほども乗っているとは思いもよらなかったのだ。
門兵のひとりが市内に駆け戻ったところを見ると、仲間を呼びに行ったのかもしれない。
セツナはそんな様子に嘆息すると、門兵のひとりに歩み寄った。
「なんなのだ? これはいったいどういうことなのだ?」
門兵が混乱するのも構わず、話しかける。
「すまないが、ガンディア軍の指揮官に会わせてくれ」
「はあ? 突然なにをいいだすかと思えば、指揮官に会わせろだと? おまえたちのような――」
憤然とする門兵の様子を見ていると、門兵のひとりが慌てて彼に駆け寄って耳打ちした。
「まずいっすよ、隊長!」
「なんだ?」
「セツナ様っす」
「は?」
「ですから、この方は、セツナ様なんですよ。ほら、見て下さいよ、あの黒髪に赤い目。それに頭の上のドラゴン。どう考えてもセツナ様なんですって」
「セツナ……様?」
隊長と呼ばれた門兵は、ぼんやりと反芻するようにつぶやいた。その言葉が意味するものを理解するのに時間がかかったのは、混乱の渦中にあったからでもあるのだろう。それから、疑問を浮かべる。
「セツナ様ってあの……?」
「はい……」
隊長は門兵と顔を見合わせた後、セツナの顔色をうかがうような弱々しさで話しかけてきた。
「つかぬことをうかがいますが……」
「なんだ?」
「あなたさまの氏名を教えていただけないでしょうか?」
「セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドだが」
セツナは、門兵長に向かって胸を張って答えると、彼は表情を蒼白にした。
「こ、これは失礼いたしました! な、なんと申し開きをすればよいのやら、その、あの……」
慌てふためく門兵長の反応に、セツナは肩を竦めた。門兵長がセツナの容姿を知らなかったとしても、なんら不思議ではない。セツナはガンディアでも有数の有名人だが、全国民、全軍人が彼の姿を知っているはずもないのだ。外見的特徴こそ知られているものの、黒髪赤目を即座にセツナに結びつけることもあるまい。
「いや、当然のことだ。指揮官の居場所まで案内してくれれば、それでいい」
「はっ、た、ただちに!」
「そうだ。彼らも連れて行くが、問題はないな?」
「は、はい、もちろんでございます!」
門兵長は、恐縮しきった調子でいってくると、部下たちになにやら命令を飛ばした。その様子を横目に見て、エスクに視線を向ける。
「ということだ」
「さすがはガンディアの英雄様ですな」
彼は、相も変わらず皮肉げな笑みを浮かべていた。
門兵に案内されたのは、シーゼルのアバード軍駐屯地だった。東門からは離れているため、市内の移動には馬車を利用した。しかし、ガンディア軍の馬車が出迎えてくれたため、馬車三台にぎゅうぎゅう詰めにならずに済んでいる。もっとも、ガンディア軍の馬車に乗ったのはセツナとシーラ、エスク、レミル、ドーリンの五名だけであり、残り五十人近い男どもは、《星のきらめき》亭印の馬車に詰め込まれて移動した。ほかに方法がなかったのだから、仕方がない。
アバード軍駐屯地は、四方を堅牢な城壁で囲われた都市の中でも、さらに周囲を堀と塀で囲まれた敷地内にあった。軍の駐屯地というだけあって様々な施設があるようだが、そこかしこに掲げられる軍旗は、以前見た時のようにアバード軍の旗ではなくなっており、銀獅子を表す旗が各所ではためいていた。ガンディア軍の支配下にあるという証明だ。
駐屯地に辿り着くと、セツナたちを載せた馬車は、ガンディア軍関係者による出迎えを受けた。セツナがシーゼルに到着したという報せが電撃的な速さで駆け抜け、馬車と追い越した――というよりは、門兵のひとりが馬を飛ばしたのだろうが。
馬車から降りると、軍服の少年が駆け寄ってきた。エイン=ラジャールだ。彼はセツナに抱きつかんばかりの勢いを見せたものの、セツナの手前で立ち止まり、ガンディア式敬礼をした。
「想像していたよりもお早いおつきですね、セツナ様」
「想像していたのとは違う再会になったがな」
セツナも敬礼を返しながら、告げる。エインは困ったような顔をした。
「そう怖い顔しないでくださいよ。これも大義のためです」
「大義?」
「我々ガンディア軍は、シーラ様を窮状よりお救いさし上げるべく軍を発したのですよ」
エインの言葉は、ガンディアの声明文を噛み砕いたもののように思えた。そこに彼の意志が関与しているように思えないのは、彼の本心は別のところにあるからかもしれない。もちろん、エインがなにを考えているのかなど、セツナにはわからない。彼は参謀局の人間であり、軍師候補だ。セツナよりも余程深く遠く世界を見ている。
「そんなこと、俺は望んじゃあいない」
不快げに声を荒げたのは、シーラだ。
「これはシーラ姫。ご健勝そうでなによりです」
エインは、そういったとき、微笑を浮かべていた。美少年の笑顔はそれだけで相手の心を蕩かす魅力があるのだが、いまのシーラにはなんの効果もなさそうだった。彼女は、エインを睨んでいる。
「立ち話も何ですので、奥で話しましょうかね」
「そうだな……」
セツナがシーラを一瞥すると、彼女もそれには異論がないのか、小さくうなずいた。その後ろで、エスクたちが手持ち無沙汰に突っ立っている。彼らにしてみれば首を突っ込めるような話題ではないのだ。無関係とは言い切れないにしても、関係があるともいえない。そんな微妙な距離感が、アバードとシドニア傭兵団の残党の間に横たわっている。
「俺たちはどうすれば?」
エスクが尋ねてきたことで、ようやくエインが彼らの存在に触れた。
「彼らは?」
「シドニア傭兵団って聞いたことあるか?」
「ええ、もちろん。エンドウィッジの戦いで壊滅したという話ですが、まさか?」
「そのまさかだ。彼らはシドニア傭兵団の生き残りなんだ」
「へえ。それなら戦力として期待できそうですね」
エインが嬉しそうな顔をする傍らでシーラが拳を作るのを見て取って、セツナはどう反応するべきか判断に困った。エインに同調するべきか、黙っているべきか。
しかし、セツナがそんなことを考えている間にも話は進む。
「見た限りではお疲れの様子ですし、どこか……そうですね、兵舎にでも案内してあげてください」
「はっ」
エインの指示に威勢のいい反応を示したのは、彼の部下のひとりらしかった。エインの腹心たちではない。おそらく参謀局の連絡係かなにかだろう。
「エスク、自分の部下のこと、しっかり見張っておけよ」
「りょーかーい。っても、こんなところで問題を起こすほど、俺たちも馬鹿じゃないっすよ」
「わかってるさ。また、あとでな」
「はーい」
エスクの元気な返答は、ようやくセツナたちと別行動を取れることを喜んでいるようでもあった。実際、そのとおりなのかもしれない。ほかの傭兵たちはともかく、少なくともエスクは、セツナやシーラのことを快く想ってはいまい。とくにシーラに対して複雑な感情を抱いているのは、彼の言動からも明らかだ。
「セツナ様とシーラ姫はこちらへ」
エインが部下とともに歩き出したので、セツナはシーラとともについていくことにした。
「姫と呼ぶのはやめてくれ。俺はもう、ただのシーラだっていっただろ」
「いえ。シーラ姫はシーラ姫です」
シーラは口調を荒げたが、エインは一歩も譲らなかった。
「我々ガンディアがアバードに派兵を決定したのは、シーラ姫、あなた様こそ、アバードの王に相応しいと判断したからです」
「なにを馬鹿な……!」
シーラが足を止めた。振り向くと、彼女の手は震え、顔は青白く染まっていた。怒りや嘆き、悲しみなど様々な感情が入り乱れているのは、その表情からわかる。目線が定まっていない。
ガンディアの人間であるセツナには、彼女に掛ける言葉が見当たらない。
「……とりあえず、基地の中に入りましょう。話をするなら、落ち着ける場所のほうがいいでしょう?」
エインはにこやかに告げると、そそくさと歩き始めた。
セツナはシーラの手を掴んだが、振り払われた。
「ごめん……いまは、無理だ」
「いや、こっちこそ、ごめん」
セツナには、そう返すよりほかなかった。