第九百九十話 大義(二)
ガンディアはなぜ、アバードへの派兵を決定したのか。
それについては、新聞を記事を見れば明らかだ。
ガンディアの声明文には、アバードの糾弾に対するガンディアの立場が明確化されている。まず、ガンディアは、クルセルク戦争におけるシーラ・レーウェ=アバードの英雄的活躍を褒め称えた。獣姫の二つ名で知られる彼女と、彼女の直属の家臣である侍女団の活躍こそ、アバードの反クルセルク連合軍への貢献の最たるものであり、シーラ姫がいなければ、アバードの活躍など微々たるものであっただろうと言い切った。また、そんな彼女の活躍にアバード国民が熱狂するのは当然であり、彼女こそ将来のアバードを率いる女王に相応しいという意見が巻き起こるのも必然だといい、であるのに、シーラ姫の国民的人気を妬み、シーラ姫の凱旋を拒んだだけでなく、シーラ姫を窮地に追いやったアバード政府ほど愚かしい物はないと糾弾した。
龍府に落ち延びたシーラ姫を領伯たるセツナが匿ったのは人道的にも当然のことであり、そのことを非難されるいわれはない、とも声明文はいっている。
そして、みずからが起こした国内の混乱を鎮めるために他国の力を借り、情勢をさらに混沌としたものにした現国王にアバードを統治する能力はないと断じるとともに、国民から圧倒的な支持を得るシーラ姫こそがアバードの統治者に相応しいと告げた。その上、シーラ姫を窮状から救い上げ、アバードに安定をもたらすため、軍による介入も辞さないといっており、軍備も万端整えられているということだった。
「ガンディアがシーラ様を救いに来る……か。ますます売国奴まっしぐらですな」
エスクの何気ない一言にシーラの肩が震えたのを見て、セツナは彼を睨んだ。
「エスク……!」
エスクは、相も変わらぬ薄ら笑いを浮かべている。彼は、この状況を楽しんでいるようだった。彼がシーラに対して複雑な感情を抱いているのは知っている。彼女に対しての発言には辛辣なものが多かった。シーラに見捨てられたシドニア傭兵団の団長代理としては、当然の態度なのかもしれない。そのことがわかるから、セツナも強くはいえないし、シーラも彼の発言を受け入れるのだろうが。
「いやいや、口が滑りました。しかし、どうするんです?」
「どうもこうもない」
セツナには、ほかに言うべき言葉が見当たらなかった。ガンディアがシーラを数うために兵を差し向けてくるなど、想像だにしなかったことだ。ナーレスがそんなことを考えているとは想ってもいなかった。クルセルク戦争からこっち、厭戦気分が蔓延しているのではなかったか。
エスクが肩をすくめる。
「でしょうな」
ふと見ると、シーラが龍府新報の記事に目を通していた。手が震えている。青ざめていた顔が更に蒼白になっていた。
「俺は、こんなこと、望んじゃいない」
シーラは、声を絞り出すようにして、いった。震える声に力はなく、聞いているセツナも心苦しくなった。
「そうでしょうとも。姫様は、陛下や王妃殿下に逢うことだけを考えておられる。それですべてが終わるのだと、考えておられる。実際、姫様が陛下や王妃殿下にお逢いになることができれば、それで終わることもあったのでしょうがね」
エスクの軽妙で酷薄な物言いは、彼の最初からの特徴ではあったが、いまはとにかく辛辣に聞こえた。
「現実を見てみなさいな。あなたは、だれがどうみても、国を売ったんだ」
「エスクてめえ」
セツナは席を立ったが、エスクに詰め寄ることはできなかった。シーラに右腕を掴まれていた。彼女のその行動は、彼女がエスクの言葉を受け入れているということにほかならない。
「大将、あなたもその片棒を担いだんですよ。セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルド。あなたさえいなければ、少なくとも、姫様が売国奴になることはなかった。いやいや……違うな。姫様が、ガンディアを頼らなければ、こうはならなかった」
「なんだと」
「ガンディアなどに頼るから、こうなるのですよ。ガンディアは野心に満ちた国だ。ザルワーン戦争での折、レオンガンドはいったそうじゃないですか。大陸小国家群の統一を目指している、と。小国家群の統一ですよ? 統一。いま同盟を結んでいる国々も、いずれは飲み込むという算段でしょうよ」
「違う」
「あなたはガンディアの人間だ。ガンディアのお偉いさんだ。そりゃ、否定するでしょう。しかし、ガンディアがこれまでしてきたことを振り返れば、ガンディアが同盟国など取るに足らないものと見ているのは明らかだ。長年ガンディアに尽力してきたミオンを瞬く間に滅ぼしたのは、どこの国です?」
エスクがミオンの例を持ち出してくるとは思いも寄らず、セツナは息を呑んだ。言葉を探すが、適当な回答が思い浮かばない。お茶を濁すことさえできない。
「……あれは、仕方がなかった」
そうするよりほかはなかった。
ミオンが、マルス=バールを差し出していれば、それで終わったことだ。ミオンの国王イシウス・レイ=ミオンの愚かな判断が、レオンガンドの怒りを買った。だからガンディアは兵を差し向けたのだ。いや、それだけではない。クルセルクとの決戦が控えていた。多大な戦力を有した魔王軍との大戦争の直前。なんとしてもミオンを処理しなければならなかった。でなければ、クルセルクとの戦いの最中、ミオンに後背を衝かれるかもしれないからだ。もし、ミオンの問題がクルセルク戦争の目前でなければ、ミオンを攻め滅ぼすことはなかったかもしれない。余裕があれば、時間があれば、別の解決策を模索したかもしれないのだ。
時間。
(時間……か)
「今回もきっと、仕方がなかったんですよ」
エスクはひらひらと手を振りながら、皮肉げに笑った。
「大陸小国家群を統一するには、同盟国に攻めこむのも仕方がないことなのですよ」
エスクの声音の奥底に悪意を感じて、セツナは彼を見据えた。エスクは、底冷えのするような目でこちらを見ていた。黒い目の奥底には、闇が沈殿していた。
会議は、結局、ろくな結論を出せないまま終わった。
シーラの目的はなんら変わらない。王妃セリスに直接逢って、シーラを殺したがっている理由を問いただすことこそ、シーラの目的なのだ。それだけは、どのような状況になっても変わりようがない。だが、この情勢の急激な変化は、彼女の目的を果たすことをより困難なものにしたのは、間違いなかった。砦に隠れて情報収集し、情勢の変化を待っていられるような状況ではなくなってしまった。そんなことをしている間にガンディアがアバード領に攻め込んでくるのだ。ガンディアとアバードの間に戦争が起きれば、王宮への潜入などしている場合ではなくなる。そもそも、両国が戦争状態になれば、王都に潜入することはますます厳しくなる。
となれば、戦争を回避するのが一番だ。
が、そんな方法があるわけもない。
「俺が死ねば……どうだ」
会議の最中、シーラが出してきた戦争回避案がそれだった。ガンディアの派兵理由がシーラの救援なのだ。救援対象が死ねば、戦争は回避できるのではないか。
「駄目ですね」
エスクが即答した。
「姫様が死んだところで、なにも解決しませんよ。騎士の話が本当なら、それによって王妃殿下の願いは叶えられ、シーラ派への弾圧はなくなるでしょう。しかし、それだけです。一度動き出したガンディアが、姫様の死で矛を収めるとは思えません」
「それはどうかと思うがな」
セツナは、エスクの考えをやんわりと否定したものの、ガンディアが矛を収めるともいわなかった。エスクの考えにも一理ある。ガンディアが領土拡大を第一に考えている以上、侵攻する理由さえあれば、どのような国にだって攻めこむのは、セツナが一番知っている。救援を求められた国を救った上で支配下に置いたこともあるのだ。シーラが命を断ったとしても、なんらかの理由を作って戦争をけしかける可能性は、皆無とはいえなかった。
「でも、シーラが死んでもなんの解決にもならないってのは、同意だ」
セツナがシーラに視線を移すと、彼女は蒼白の顔でこちらを見ていた。その目からは精神的な消耗が窺える。痛々しい。
「……セツナ」
「シーラは知りたいんだろ? どうして自分が殺されなきゃいけないのか。王妃殿下がなにを想い、どういう考えでそんな結論をくだしたのか。直接聞き出したいんだろ?」
「ああ……」
「だったら、死ねないだろ」
セツナは声を励ましていったが、シーラは特に反応することもなかった。どこか虚ろな目は、こちらを見ているのかさえわからない。
「そうっすよ。大将のいうとおり。たとえ戦争が起きたとしても、姫様が王妃殿下に逢う機会はありますって」
「しかし、戦争を起こしたくはないな」
「ガンディアの英雄様がいうと、説得力皆無ですなあ」
「うるせえ」
セツナはエスクの突っ込みにそう返すほかなかった。確かにそのとおりだ。戦争の中でしか輝けないものが戦争を望まないなど、ありえない。
会議は、そのようにして終わった。
つまり、なにも変わらないということだ。砦に篭もり、情報収集を続けながら、日々を過ごすしかなかった。
龍府を発したガンディア軍がアバードの国境を突破し、シゼールに肉薄しているという情報が砦に届いたのは、三日後、十四日のことだ。