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第九百八十八話 暗転

 不安定にも、日々は通り過ぎていく。

 五月の末に始まったセンサールの砦生活も、十日以上が経過した。

 五十人ほどにも及ぶむさ苦しい男どもにたったふたりの女性陣、そしてドラゴンの奇妙な共同生活は、特に大きな問題も起きることなく続いている。

《星のきらめき》亭からの補給も、ほとんど滞ることもなく、セツナたちが飢えに苦しむようなことさえなかった。ほとんど、というのも、一度だけ、予定時刻になっても補給物資が届かなかったからだ。話によれば、センティアの駐屯軍に怪しまれ、監視されていたらしく、監視を振り切るため、やむなく補給物資の投下地点を無視せざるを得なかったということだった。もっとも、一日くらい補給が遅れたところでなんの問題もなかったのだが。

《星のきらめき》亭からの補給物資は、潤沢といってよかった。まるで宿の主人が全財産をなげうっているのではないかと思うほどであり、シーラが心配していた。そのことを馬車の御者を務める元傭兵に伝えると、彼は、小声で教えてくれたものだ。

『実は、ウィンドウ家から資金が流れてきているんです』

 セツナたちは驚いたが、考えられない話でもなかった。

 ウィンドウ家、ウィンドウ一族は、先の当主キーン=ウィンドウが熱狂的といってもいいほどのシーラ派であり、彼の熱意に影響されてセンティア中がシーラ派に染まるほどだったという。彼の死後、その影響力は鳴りを潜めたかに思えたが、宿の主人のように、いまだにシーラを慕い、彼女のためならば死をも厭わないものもいる。ウィンドウ一族の中にも、キーンの熱意を受け継いでいるものがいたとしてもおかしくはなかった。

 しかし、エスクはセツナの見解を否定して、笑った。

『ゼーレの口止め料でしょう』

 エスクにいわせてみれば、シーラたちの闘技場襲撃にウィンドウ家がわずかでも関わっていることが公にされれば、ウィンドウ家の政治生命は確実に終わる。いまでさえ破滅の縁に立っているという状況なのに、そこへきてシーラたちとの関わりが明らかになれば、奈落の底まで真っ逆さまなのは疑いようがないという。

 アバード政府の発表によって闘技場襲撃事件がシーラの売国行為とされた以上、それにわずかでも関わりのある人間は売国奴の烙印を押されるのは、火を見るより明らかだ。

 ウィンドウ家は、ただでさえキーン=ウィンドウの行動によって立場を失っている。かつてセンティアを支配していたといっても過言ではないほどの権勢も失い、アバード国内での発言力も低下してしまっている。そんな中、売国奴の烙印を押されればどうなるか。数百年に渡るウィンドウ一族の歴史が幕を閉じることにだってなりかねない。

 ならば、シーラたちの口を封じるしかない。

『しかし、どうやって我々とあの店主との繋がりを知ったのかは気になりますな』

『勘……かな?』

『勘?』

『ゼーレ野郎、勘だけは妙に鋭いんですよ』

『勘だけは……か』

『だから、キーンには勝てなかった。キーンは、勘以外はなにもかも持っていましたから』

 エスクが語るウィンドウ家の話にも興味は尽きなかったが。

 それよりもなによりも、セツナが気にしていたのは、シーラのことだった。

 シーラは、アバード政府の公式発表以来、少しは取り戻しかけていた明るさを完全に失っていた。

 砦の日々そのものに問題はなかった。王宮に潜入する糸口が見つからないというのは大きな問題だったが、それはそれとして、砦での生活は厳しくはあったものの、問題になるようなことは起きなかったのだ。

 だから、セツナもシーラを見守ることに集中できたし、彼女の精神面での変化に気づけたのかもしれない。


 夜。

 空気が重いのは、いつものことだ。

 このセンサールという森の奥地は、常に湿気を帯びた空気で満ちており、場合によっては空気に溺れるような感覚さえ覚えることもあった。昼間でさえ冷ややかな気温は、夜になれば殊更に低くなり、宿の主人が物資の中に毛布を用意してくれていなければ、毎晩、寒さに凍えて眠らなければならなかっただろう。

 床も壁も石材でできているのだ。冷たいのも当然だったし、毛布に包まっていても寒いと思うことがあった。六月上旬。夏が目前に迫っている。いや、初夏といってもいいのかもしれない。だが、センサールの森の奥地は、いつだって冷えていて、だから夜になると寒さに震えなくてはならなかった。

 そんな寒さの中にあって、いつもと変わらない様子を見せるのが、ラグナだ。丸みを帯びた小さな体をセツナの胸の上で丸め、ぐっすりと眠っている。万物の霊長たるドラゴンには、この程度の冷気など苦にも思わないのかもしれない。

(おまえはいいよな)

 セツナは、自分の胸の上で眠りこけているドラゴンを軽く撫でながら、部屋の天井を見ていた。星明かりさえ入り込まない部屋の中には、完全な暗闇ができあがっている。目が闇に慣れたいまでさえ、どこを見ても闇ばかりだった。かろうじてラグナの様子がわかるのは、彼が間近で眠っているからだ。

(気楽でさ)

 なにも考えず、のほほんとした様子で日々を過ごすラグナのことを羨ましく思うのは、いままさに苦悩の中にいる人物を知っているからだ。彼女が懊悩し、苦しみ抜いているのを見守ることしかできないのは、苦痛以外のなにものでもない。手を差し伸べることができれば、その苦しみをわずかでも肩代わりすることができれば、どれほどいいのか。

 しかし、そんなことをすれば、余計に彼女を苦しませるだけだということもわかっている。

 シーラは、そんな女性だ。

 セツナは、右隣に視線を移した。

 闇の中、白い髪だけがわずかに浮かんで見えた。シーラだ。龍府を発してから一月余り、セツナとシーラは寝床をともにした。アバードまでの道中は交代で見張りをし、片方は仮眠をとるという方法で夜を過ごしたものだが、シーゼル以降は夫婦を演じることになったため、同じ部屋で寝泊まりすることが当たり前となった。いまや夫婦を演じる必要はなくなったものの、シーラはセツナの隣で寝ることを止めなかった。

 ほかに頼れる相手いないのだから当然だと、セツナは想った。

 屈強な傭兵たち。

 頼りがいのある男どもばかりだが、それは戦闘面でのことだ。精神面で頼りになるかというと、別問題だった。精神的な意味で

「俺は、頼りになるか……?」

「なるよ」

 ぼそりと返ってきた言葉にセツナは驚いた。胸中でつぶやいたつもりだったというのもあるし、まさか彼女が起きているとは想っても見なかったからだ。それから、シーラがいつの間にかこちらをじっと見ていたことに気づく。起きたのか、それとも、ずっと起きていたのか。

「セツナだけが頼りだからな……」

 彼女が、不意にセツナに顔を近づけてくるのがわかった。朧気にしか見えなかった彼女の顔が輪郭を帯び、はっきりとした形となってセツナの目の前に現れてくる。元より、手が触れ合うほどの距離にいたのだが、闇の深さが輪郭さえも闇に溶かしてしまっていたのだ。その闇に溶けた部分が鮮明とはいわないまでも、明らかになっていく。

「みんながセツナを頼る理由、よくわかった気がする」

「そうかな」

 セツナはシーラにいつもと違う雰囲気を感じ取って、少しばかり距離を取るべきかと考えたが、考えている間に距離を詰められすぎてしまった。石床に敷き詰めた布団の上、シーラの顔が目の前にある。長い白髪の毛先が顔を撫で、こそばゆかった。

「そうさ」

 シーラは、セツナに急接近するとともに、彼の顔を真上から覗きこんできていた。ふと視線を下ろせば、彼女の胸がその豊かさを主張しているのだが、そこに意識が奪われるようなことはなく、むしろシーラのらしくない態度にこそ注意を向けた。

 らしくない。

 だが、彼女が弱気になっているのも、仕方のないことだということもわかっている。らしくないのではない。らしくいられないのだ。

「シーラ?」

 セツナは、彼女がじっとこちらを見つめていることが気になって声をかけた。静寂に満ちた森の夜。聞こえるのは夜の音であり、ラグナの寝息だ。そして、自分の鼓動が聞こえるのは、物憂げな表情でこちらを見つめるシーラにいつもと違うものを感じているからに違いない。シーラから色気を感じるのは、稀といってもよかった。

 シーラは、無言のまま顔が近づいてきたかと思うと、唇と唇が触れ合いそうな距離で止めた。そこで、時間が止まったような感覚があった。ラグナの寝息も、風の音も、森の声も聞こえなくなり、なにもかもが意識の外へ消えていく。

「ごめん」

 現実感を取り戻したのは、シーラがそういって顔を離したからなのかもしれない。彼女は、顔を離した勢いでセツナから離れると、布団の上に座り直していた。

「なんで、謝るんだよ」

 セツナは、そんな彼女の様子を眺めながら、鼓動の高鳴りを抑えるよう胸に手を置こうとして、やめた。セツナの胸の上にはラグナの寝姿がある。そんなことをすれば、彼を起こしかねない。その代わり両手でラグナの小さな体を包み込んで、自分の体から離した。その状態で上体を起こす。両手の中で寝こけているドラゴンを枕に移動させ、それによって、ようやくセツナはシーラに意識を集中させることができた。

 彼女は、布団の上で膝を抱えるように座っていた。着ているのは寝間着代わりにしている衣服であり、彼女らしく男物だった。セツナが身に着けている衣服と意匠が同じであり、そのことをエスクたちに指摘され、からかわれたりもしたものだ。

「……ごめん」

 シーラは、膝に顔を埋めたまま、小さな声でいってきた。彼女がなにを謝っているのかを理解して、セツナはむしろあきれる想いがした。彼は、彼女にそんなことを期待してはいないのだ。

「謝るようなことかよ」

「全部終わったらさ、そのときこそは……」

「……あのな」

「うん。だいじょうぶ。決めたから」

「なにをだよ。っていうか、勝手に話を進めんなって」

 セツナは、シーラの一方的な発言の連続にどういえばいいのか困った。困った末に出た言葉がそれであり、シーラに苦笑させた。

「ふふ」

「なんだよ」

「いや、なんでもない」

「なんでもないの笑うのかよ」

「うん」

「そうかよ」

 セツナがむくれると、シーラはまたしても小さく笑った。

 ほかに熟睡中のラグナしかいない空間で、彼女のささやかな笑い声だけが僅かに反響する。森の冷気と、夜の気温の低さ、そして石造りの砦が組み合わさったことによる寒さも、いまのセツナにはほとんど効果がなかった。妙に体温が上がっているからだ。

 それもこれもシーラのせいだ、と彼は責任を彼女に押し付けるとともに、闇の中で膝を抱える姫を見やった。

「セツナ」

 彼女は、不意に口を開いたかと思うと、思いもしないことを口走ってきた。

「……おまえがいてくれてよかった。おまえがいなかったらきっと、いまごろ……」

「死んでた?」

「そうかもな。殺されて死んでたか、自分で命を断ってたか……いずれにしても死んでたんじゃないか」

 シーラは、セツナの問いを否定しなかった。それどころか、こうもいってきたのだ。

「いまだって死にたい気分さ」

 彼女の気持ちは、痛いほどわかった。

 もちろん、完全に理解できるわけではないし、なにもかもすべてを把握しているわけではない。しかし、家族に死を望まれていると告げられれば、死にたくもなるものだ。彼女がこの世に絶望してしまったとしても、だれも責められない。生きろ、というほうが、無理難題かもしれない。

『この世には、死んだほうがましだと言い切れるような地獄だってある――』

 脳裏を過ぎったのは、シド・ザン=ルーファウスの言葉だ。彼のいう言葉も真理なのかもしれない。確かにセツナはこの世のすべてを知っているわけではない。生き地獄を味わったことがあるわけではない。セツナが知っている地獄とは、苛烈な戦場であり、生への渇望と執着が渦巻く世界だ。そこには死んだほうがまし、などというものはない。多くの場合、だれもが生を望み、生を掴むために闘う。それは、シドのいう地獄とはまったく異なるものだろう。

「死ねば、楽になれるだろうし、それに母上の望みも叶う」

「本当にシーラの母親が望んでいるかなんて、わからないだろ」

「気休めだよ、それは」

 シーラがこちらを見て、いった。

「あの騎士たちが俺に嘘をつく理由がない。俺を動揺させ、その隙を狙うなんていう真似をする必要すらないんだからな」

 彼女がいってきた言葉の意味は、セツナにも理解できた。シーラを動揺させる間でもなく殺せるだけの実力を持っているのが、ベノアガルドの騎士団なのだ。召喚武装とも異なる不可思議な力を持った三人の騎士を同時に相手にするとなれば、いかに獣姫といえども切り抜けることなど不可能であり、セツナとラグナがいなければ、あっさりと殺されていただろうことは疑いようがなかった。騎士たちの実力があれば、シーラを殺すことは必ずしも難しいことではなかった。

 彼らに制限があったからこそ、あの場から逃げ出すことができたのだ。

「だから、知りたいんだ。どうして、母上がそこまでして俺を殺したがっているのか」

「だったら、死ねないよな?」

「ああ……死ねない、かな」

 シーラの返事に力がなかった。力がなく、迫力もない。虚しさばかりが膨れ上がる、そんな声。だからセツナは強い口調でいったのだ。

「――死ぬなよ」

「それは命令か?」

 シーラがこちらを見て、小さく苦笑した。彼女は、アバードの王女ではあるが、いまは、セツナの部下だった。領伯の私兵部隊黒獣隊の隊長こそ、シーラの肩書なのだ。彼女がその肩書を返上していない以上、セツナの命令権は生きているはずだった。

「ああ、おまえの主である領伯の命令だ」

「なら、順守しないとな」

 シーラは、にっこりと笑って毛布にくるまった。

 アバードの地において彼女が笑顔を見せたのは、それが最後になった。

 翌朝、アバードの地を揺るがす大事件が起きたからだ。

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