第九百八十六話 砦にて(五)
砦での生活は、続く。
セツナたちがセンサールの砦に辿り着き、隠れ家として利用し始めたのは、大陸暦五百二年五月二十八日のことだ。
ラーンハイル・ラーズ=タウラルとその一族郎党の公開処刑が執行されることになっていたのが二十七日。その夜のうちにセンティアを脱出し、翌日の昼過ぎにセンサールの森の中に到達している。そして、砦探しをはじめ、夕刻までには見つけ出した。それから砦内の掃除と寝床の確保が同時並行的に行われ、ようやく、セツナたちはある程度、ゆっくりと休むことのできる場所を得られたということだ。
物資は、センティアを脱出する際、センティアの宿屋《星のきらめき》亭から提供されたものがあり、それで数日は持つだろうということだった。しかし、数日分だけでは凌ぎきることなど不可能だということもあり、《星のきらめき》亭の馬車が定期的に物資を運び込んでくれるという手筈になっていた。
《星のきらめき》亭がなぜそこまでしてくれるのかというと、宿屋の主人が熱狂的なシーラ派であることが大きい。シーラの境遇に涙さえ流していた主人は、シーラが生きていたことを知ると、彼女のために命を投げ打つ覚悟を決めたといい、自分や家族がどうなろうともシーラに尽くすと言い切った。シーラはそこまでしなくていい、するな、といったのだが、店主は聞かなかった。むしろ、そういうシーラだからこそ命を賭ける価値があるのだ、といった。
シーラはこれまでアバードのため、アバード国民のために身を粉にし、骨を砕いてきたのだ。そんな人が困り果てているのに黙ってみているなど、アバード国民の風上にも置けるものではない。今度は、アバード国民がシーラを助け、守る番なのだ、と熱く語ったものだ。
身も心も疲れ果てていたシーラの胸にも、店主の言葉は響いたはずだ。
無関係なセツナでさえ感動したのだ。
とはいえ、シーラが店主の身を案じるのも当然だったし、無理はしないで欲しいとはいっておいた。そして、もしものときは、ガンディアのセツナに脅され、仕方なく提供した、と答えるべきだとも。しかし、店主は、笑って首を横に振った。
『セツナ様には、シーラ姫を護っていただくのですから、そんなこといえるはずもないでしょう』
そこまでいわれては、セツナもなにも言い返せず、シーラを守ることを約束するほかなかった。
ともかく、彼ほど清々しい人物は中々いなかった。
《星のきらめき》亭の店主が支援してくれていることで、セツナたちの砦生活は、必ずしも悪いものではなかった。森の奥深く。多少、大きな声を発したところでだれに聞かれることもない。街の中に潜伏するよりはずっと気楽で、ずっと自由だった。日中は砦に籠もっている必要もない。砦と同化して周囲を覆い尽くす木々が、壁となってセツナや傭兵たちの姿を隠した。もちろん、調子に乗って街道に近づけば、見つかることもあるだろうが。
街道にさえ近づかなければ、隠れ続けることは難しくない。
たとえば、日課の訓練も問題なく行えた。そして、屈強な傭兵たちと寝食をともにしているということは、訓練相手に事欠かないということでもあった。ドーリン=ノーグを始め、シドニア傭兵団の傭兵たちは皆、ガンディアの兵とは比べ物にならないほどに強かった。シーゼルの酒場でこそ圧勝したドーリンだったが、やはりあのときは酒に酔い潰れていたから弱かったのだろう。酒気が抜け切ったいまとなっては、セツナでも対等に戦えるか怪しいほどに手強かった。
シーラも、訓練に参加した。セツナが呼びかけたからであり、彼女も不承不承といった様子だったが、木剣を手に取れば、目つきが変わった。
体は、使っていなければすぐに萎え、弱くなるものだ。日々の鍛錬を怠れば、どれだけの強者であってもすぐに衰えていく。それに体を動かしていれば気が紛れるかもしれないというのもあって、セツナは彼女を訓練に誘った。
さすがにシーラは強く、セツナは為す術もなく打ちのめされ、ドーリンをも圧倒した。傭兵たちから驚きの声さえ上がらなかったのは、シーラの強さを知っているからだろう。
「訓練も構いませんが、問題は汗臭くなることです」
レミル=フォークレイが深刻そうな顔で告げてきたのが、五人と一匹の会議の場で、だ。
「確かに……」
シーラが真剣な顔で肯定すると、エスクが室内を見回した。
「この砦がもう少し大きけりゃな」
二階建ての石造りの屋敷というのが、この砦を形容する言葉としてぴったりだった。城壁もなければ、堀も見当たらず、砦としての要素が皆無といってもいいのではないかと思うような建物だ。ガタイのいい五十人の男が寝泊まりできるくらいの広さはあるものの、それらが全員、汗を流したまま砦内に篭もれば汗臭くもなるだろう。
着替えは用意してあるのだが、それも無数にあるわけではない。《星のきらめき》亭から届けられる物資は有限だ。そして、つぎにいつ届けられるかわからないし、つぎも必ず届けられるとは限らない。《星のきらめき》亭の行動を怪しんだセンティアの駐屯軍によって摘発される可能性もないわけではないし、森への道中、皇魔に襲われるということだってありうる。そんなことがあってもいいよう、皇魔を撃退するための戦士を雇っているということではあったが。
期待しすぎるのも考えものだったし、頼り過ぎるのもよくはなかった。
「水浴びでもできればいいんですが」
といったのは、ドーリンだ。彼は自慢の髭が汚れていることを気にしているようだった。
「そういえば、水汲みはどうしてるんだ?」
セツナは、レミルに問いかけた。レミルは料理が得意らしく、よく厨房に立っていた。約五十人分の食事だ。たったひとりで作るわけではないが、厨房の指揮官としてのレミルは、だれよりも頼りになった。料理には水を使うし、火も使う。基本的な道具は、センティアから抜け出す際に持ち込んでおり、火起こしもそのひとつだが、水はそれほど大量に運んではこなかったはずであり、既に尽きていたとしても不思議ではなかった。
「砦の裏手に川があるんですよ」
レミルがあっさりといってきたので、セツナは怪訝な顔になった。
「だったら、そこで水浴びすればいいんじゃ……?」
「なるほど」
「なるほどじゃねえよ」
セツナは突っ込んだが、レミルに笑顔で流された。そして、彼女は立ち上がる。
「ではさっそく、水浴びに行きましょうか」
「俺もか?」
「はい。汗臭いのを気にされているみたいでしたし」
レミルがいったとおり、シーラは自分の体に染みこんだ汗のにおいが気になってしかたがなかったようだ。特ににおうわけではないし、いまのところなんの問題もないのだが、彼女も女性だ。気にするのは当然だろう。議題にしたレミルも、女性だった。
「それとも、シーラ様は、セツナ様と一緒に水浴びされます?」
「な、なにいってんだよ!? そんなわけないだろ!」
レミルの発言に、シーラは顔を真赤にしながら立ち上がった。そんな彼女たちの様子をぼんやりと眺めながら、セツナは頭の上のドラゴンを手掴みした。ラグナは羽をばたつかせて抗議してきたが、彼は黙殺して、手のひらの上に乗せた。それから、シーラに近づける。
「ラグナ、一緒にいってこい」
「わしが? なぜじゃ?」
「おまえなら安心だ」
セツナは、特になにも説明しなかったが、手のひらの上の彼は納得したようだった。
「む……そういうことならば仕方あるまい」
ラグナはセツナの手のひらの上から飛び立つと、悠々とした飛行でシーラの体の周囲を旋回し、右肩に止まった。そんなラグナを一瞥して、シーラがつぶやく。
「ラグナならいいか」
「ドラゴンですしね」
レミルも理解を示してくれたようだった。
セツナがラグナをシーラにつかせたのは、彼ならばどんなことがあってもシーラを護ってくれると信じたからだ。ロウファの光の矢からシーラを守り抜いたように、たとえ水浴びの最中に皇魔が現れたとしても、ふたりを護ってくれるなり、大声で知らせてくれるだろう。もっとも、シーラがハートオブビーストを手にすることさえできれば、皇魔が襲ってきたところでどうとでも切り抜けられるのは、セツナにもわかりきっていることだったし、それでも用心に越したことはないと判断したまでのことなのだ。
レミルとシーラと連れ立って食堂を出て行くと、食堂の中には冷ややかな静寂が満ちた。なにやら厳しい面付きのエスクに、お茶をすするドーリン。セツナはそんなふたりを交互に見比べていた。やがて、シーラたちの足音さえ聞こえなくなる。
「よし……」
不意に立ち上がったのは、エスクだ。立ち上がり、居住まいを正した彼は、おもむろに席を離れると、食堂から出ていこうとした。透かさず、ドーリンが声をかける。
「団長代理、それはいけませんぞ」
「そうですよ、男どもは砦からでないでくださいよ」
食堂の出入り口から顔を覗かせたレミルの冷ややかな一言に、エスクがその場で硬直し、セツナは憮然とした。
「どもって」
まるで自分までエスクと同じような行動を取ろうとしたかのようではないか。セツナはレミルに抗議しようとしたが、直後、レミルの背後から顔を出したシーラの一言が彼に反論をいわせなかった。
「そうだぞ。ぶっ飛ばすぞ」
「ぶっ飛ばすって」
「焼き払うぞ」
続けざまに言い放ってきたのは、もちろん、シーラの右肩に乗っかったドラゴンだ。
「できるのかよ」
「いずれはな」
「いまは無理なんじゃねえか」
セツナはラグナに突っ込んだが、それさえもレミルによって流されてしまう。
「破廉恥極まりない男どもは放っておいて、行きましょうか、シーラ様」
「ああ。けど、様はよしてくれよ」
「そうじゃな、シーラに様は似合わぬ」
「なんだよそれ」
「わしこそ崇め讃えるがよいぞ」
「ははー」
「レミル、おぬしは案外素直じゃな」
「素直さだけが取り柄ですから」
などという会話が食堂の中にまで聞こえたのは、彼女らがわざとらしく大声で話していたからだろうが。
椅子から立ち上がったままのセツナは、なぜか取り残されたような感覚を覚え、ひとりバツの悪い顔をした。それはエスクも同じらしく、食堂の出入り口に向かって彼は、何事もなかったかのように踵を返すと、こちらへと舞い戻ってきた。
「しかしまあ、姫様も元気になってきたようで、良かった良かった」
「まあ……な」
相槌を打ったものの、セツナには、シーラが元気になったとは思えなかった。確かに、一見すると元気に見える。レミルにからかわれた時の反応などがまさにそれだ。しかし、それは、空元気というものではないのか。雰囲気を暗くしないため、無理に明るく振舞っているのではないのか。シーラには、そういうところがあることをセツナはよく知っている。王都への帰還が拒まれて以来、笑ってなどいられるはずもなかった彼女だが、龍府では暗い表情を覗かせることなどほとんどなかった。まるで、悩みなどないかのように振舞っていた。それは、彼女が王女という立場にあったことに起因するのだろう。王女が暗い顔をしていれば、臣民が心配し、不安になる。王族たるもの、常に明るい表情をしていなければならないのだろう。
シーラはそれを実践しているに過ぎないのかもしれないが、それが、いまのセツナには痛々しく思えてならなかった。
「それもこれもセツナの大将のおかげですか?」
「あん……?」
セツナはエスクがにやにやしていることに気づいて、目を細めた。
「変な勘ぐりしてると、ぶっ飛ばすぞ」
「おおう、怖い怖い。でもでも、大将といるときの姫様が心底安らいでいるのは、誰の目にも明らかですぜ」
エスクがなにやらいってきたことは完全に黙殺して、セツナは右腕を掲げた。告げる。
「武装召喚」
武装召喚術の式を完成させる結語だけを口にした。瞬間、セツナの全身から光が発散したかと思うと、掲げた手の内に光が収斂し、黒く禍々しい矛が出現する。黒き矛。カオスブリンガーと命名した漆黒の矛は、破壊的とでも形容するべき形状をしている。直後、エスクが悲鳴じみた声を上げてきた。
「うおっ、いまの発言のなにがいけなかったんですか!?」
「こ、殺される……団長代理が殺されて、わたしが団長代理に?」
「てめ、このドーリン野郎!」
ドーリンの一言にエスクが彼の髭を掴み、いまにも殴りかかるかのような勢いを見せたが、セツナはそんなふたりに冷めた視線を送った。
「なに勘違いしてんだ? 俺はただ、砦周辺を索敵するだけだ」
「索敵?」
「聞いたことくらいはあるだろ。召喚武装は、使用者の五感を高めるって」
「なるほど。その高めた感覚で水浴びを覗き見ようという魂胆ですか」
「あのなあ、俺がそんなことするわけないだろ」
「いやいや、男なら、ここはのぞきに行かねばなりませんでしょ」
「なんでだよ」
「そりゃあ、男として生まれた以上は、ですね」
(ルウファみたいなこといいやがって)
セツナは胸中でつぶやきながら、研ぎ澄まされる感覚に身を任せた。エスクとルウファは、妙な軽さを持っているという点では似ているかもしれない。しかし、本質は大きく異なるように思えた。ルウファは、ガンディアの名門バルガザール家の二男という自分の出自に誇りを持っている。ガンディア王家への忠誠心の塊といってもいいような青年であり、ガンディアのために働けることを涙を流して喜んでいたような人物なのだ。そういった本質を知っているから、彼の普段のおちゃらけた言動も笑って流せるし、ただ遊んでいるんのだということもわかる。
対して、エスクはどうだろう。
セツナは、彼のことをよく知らないのだ。知っていることといえば、シドニア傭兵団の一員であり、“剣鬼”ルクスと並び称される剣の使い手にして“剣魔”の二つ名で知られるということくらいだ。ひょんなことからセツナたちと行動をともにしているものの、心服しているわけではないのは明らかだ。仕方なく従っているに過ぎない。彼の本質など見えるわけもないのだ。
故に、彼のことを信用しきることはできない。
脳内に飛び込んでくる数多の情報が砦内のみならず、砦周辺の情景すらも頭の中に描き出していく。超感覚。召喚武装を手にしていることによって強化された五感。黒き矛という凶悪な召喚武装は、通常の召喚武装とは比較にならないほどの副作用をもたらしている。
シーラたちが砦内を歩いている光景すら、脳裏に投影された。足音、その反響、空気のわずかな揺れ――そういった瑣末な情報から、彼女たちの輪郭が浮かび上がっていく。
セツナは頭を振った。
シーラたちの輪郭よりも、砦周辺の状況把握にこそ意識を向けるべきだった。
鬱蒼とした森の奥地にひっそりと佇む砦。城壁に囲まれてもいない建物は、皇魔の攻撃対象になりうるのだ。
警戒するに越したことはなかった。