第九百八十四話 砦にて(三)
「寝ていてよかったのに」
セツナは、シーラの横に並んで歩きながら、彼女の表情を覗き見ていた。砦の二階、暗闇が横たわっている。厨房と食堂は一階にあり、夕食の用意ができたということもあって、セツナは足を食堂に向けていた。その間もシーラのことばかりが気にかかる。
シーラの表情は、薄っすらと輝く小飛龍のおかげでなんとはなしにわかった。ラグナもあまり強く発光することは危険であると理解しているのか、その光は極めてか細かった。が、彼がシーラの左肩に乗ってくれたこともあって、彼女の横顔が闇の中に浮き上がっている。少しばかり眠たそうな表情は、寝起きだからだろう。
「寝ているつもりだった」
「ん?」
「けどさ、気がついたらセツナがいなかったから……」
シーラの声は小さくて、わずかでも注意をそらすと聞き取れなかったかもしれない。か弱く、か細い声音。寝起きだからかもしれないし、心細くなっているからかもしれない。どちらにしても、セツナは彼女に悪いことをしたと思った。いまは彼女の側にいてやるべきだと考えていたというのに、すぐに別のことをしてしまったからだ。
今後のことをエスクたちと相談するのも大事なことなのは間違いないのだが、シーラの心情を思いやれば、彼女の側にいてやることを優先するべきなのかもしれない。
エスクもいっていた。
シーラから目を離すべきではない、と。
いくらラグナがついているといっても、シーラが勝手なことをしでかす可能性は皆無ではなかった。ただでさえ精神的に参っているのだ。そんなとき、頼れる誰かが側にいないとなれば、それこそ、自暴自棄な行動を取ることだってありうる。
シーラは強い。だがそれは、戦闘者としての実力に関する話だ。彼女もまた、か弱い人間のひとりに過ぎないのだ。
誰かが側にいて、支えてやるべきなのだ。
その役割ができるのは自分だけだ、などとは思うまいが、現状、シーラが頼れるのがセツナしかいないのもまた、歴然たる事実だった。少なくとも、この砦内にはセツナとラグナ以外、シドニア傭兵団の傭兵しかいない。傭兵たちは、セツナに従ってくれているものの、それは金による契約であり、また黒き矛のセツナという強者を恐れているからにほかならない。信頼できる繋がりがあるわけではない。
「ごめんな」
「ん……いいよ」
そのときシーラが浮かべた儚げな微笑みは、セツナの網膜に焼き付いてしばらく離れなかった。
「シーラがそうだった……か」
エスクがそっとつぶやいたのは、だれもが寝静まった真夜中のことだった。
センサールの森の奥の小さな砦。小さいとはいえ、五十人の大人がゆったりと寝るくらいの空間は十分にあった。それだけが救いだと苦笑したのは、レミルだ。むさ苦しい男どもと雑魚寝するなど、彼女には考えたくもないことだったのかもしれない。もちろん、レミルは団長の妹だからといって特別扱いを受けてきたわけではないのだが、かといって狭苦しい空間で男ばかりに囲まれて眠るということもなかった。
レミルは、いつだって、実兄にして団長であるラングリードか、エスクの隣にいた。それが彼女の特権であり、特別扱いを受けていなくとも、特別視される所以であった。そのことを不服に思うものがこの荒くれ者揃いの傭兵団にいなかったのは、単純に彼女の戦士としての実力も大きいし、ラングリードの人望もあるだろう。ラングリードは、類まれなる統率者の才能を持った人物であり、彼が傭兵団を率いている間、団員の中から不平が漏れたことは一度もなかった。彼の妹への扱いに関しても、エスクの特別扱いに関しても、だ。彼の死後、その不満が一斉に噴き出し、矛先を向けられることになったのは皮肉という他なかったが、仕方のないことだとも思えた。エスクは、ラングリードに贔屓されすぎたのだ。ラングリードがエスクの才能を見出し、実力を引き出したのだから、彼としてはエスクを重用するのは当然だったのだが。
みずからが鍛え上げた武器を優先して用いるという程度の意味しかなかったのだが、ラングリードとエスクの関係を知らない傭兵からしてみれば、ラングリードがエスクを贔屓していると思ったものだろう。だが、ラングリードが団長として君臨していた時代は、それでもなんの問題もなかった。ラングリードの人心掌握術が完璧であり、団員のだれもがラングリードに心酔していたからだ。
エスクも、ラングリードに心酔していた。
ラングリードこそが天地を支える柱だと思えた。
シドニア傭兵団という小さな天地。
しかし、その小さな天地こそがエスクのすべてだったのだから、天地を支える柱を神聖視したとしてもなんの不思議があろう。だれも、なんの疑問も持たなかった。ラングリードこそがこの世の法理であるとさえ想っているものもいた。皆が、彼を慕っていた。
ラングリード・ザン=シドニア。
彼は、死んだ。
エスクの眼前で、だ。
「姫様、確かに止めようとしてたか」
「ええ。シーラ様ご自身は、女王擁立運動にも関わっていませんし、シーラ派がタウラル要塞に集まることさえ忌避していたようでしたよ」
「……記憶にねえや」
エスクは闇の向こうに浮かぶ天井を見遣りながら、レミルの肉感的な肢体を抱き寄せた。レミルは抗わなかったし、むしろ積極的に体を寄せてくる。
脳裏にあるのは、エンドウィッジの戦場だ。
戦力は五分。
それが開戦当初、シドニア傭兵団にもたらされた情報だった。五分ならば、勝ち目はある。エスクがだれよりも多く敵兵を斬り殺せば、勝機は見えてくる。
勝てる戦だった。
こちらには歴戦の猛者が揃っている。
アバードの矛ともいえる双角将軍ガラン=シドールに、ウィンドウ一族の当主キーン=ウィンドウも政治家のみならず、指揮官としても有能だった。クルセルク戦争以来、シーラ姫に付き従ってきたアバード軍の将兵も、あの戦いに参加していた。牙獣戦団、爪獣戦団、翼獣戦団などである。
そして、獣姫とその侍女団だ。獣姫ことシーラ・レーウェ=アバードは、猛者の中の猛者といっても過言ではない。王家の一員であり、王女という立場にありながら率先して戦場に駆けつけ、数多の敵を屠ってきた彼女は、アバードの勝利の象徴でもあった。
シーラ姫が味方にいる限り、負けることはない。
だれもがそう信じたし、エスクもそう想った。
だが、現実はどうだ。
エンドウィッジで繰り広げられた戦いは、序盤こそシーラ派の優勢で進んだが、しかし、中盤に至るころにはシーラ派の勢いは目に見えて減少し、敗走する部隊が続出した。ついには、シドニア傭兵団も壊乱し、汚濁のような混乱の中でエスクはラングリードが戦死するのを目の当たりにした。混沌とした戦場は、エスクに絶望と失意をもたらした。
シーラ軍は敗走を始めた。
完全な敗北だった。
序盤の優勢が嘘のような負けっぷりには、エスクも言葉を失ったものだ。
ラングリードの亡骸だけでも引き上げることができたのは、不幸中の幸いといってもよかった。そして、エスクたちが無事だったのは、それが一因であったらしい。ラングリードや団員たちの亡骸を戦場から引き上げるため、戦場近くに隠れていたことが功を奏した。その間、敗走中の本隊は、長駆迂回しシーラ軍の背後を突くつもりでいた王宮軍の急襲を受け、壊滅。その際、シーラ姫やガラン将軍らが王宮軍の手に落ちたということをエスクたちが知ったのは、戦場から団長と仲間の死体を引き上げたあとのことだった。
ラングリードの亡骸を見捨て、本隊と行動をともにしていれば、エスクたちも一網打尽にされていたのは疑いようのない事実だ。
『ラングリード団長が守ってくださったのだ』
だれかがつぶやいた言葉には、傭兵団の生き残りのだれもが感銘を受けた。
エスクもそう信じた。
ラングリードが死して後もシドニア傭兵団のことを護ってくれたのだ、と。
だから、エスクはシドニア傭兵団を存続させるために動かなければならなかった。