第九百八十三話 砦にて(二)
砦内を一通り歩き回り、内部構造を把握したセツナは一度シーラの寝床に戻った。シーラが寝入っているのとラグナが警戒を怠っていないことを確認するとともに部屋を出、それから砦の二階から外に出た。
夜の森は、闇の帳に閉ざされ、なにも見えないといっても過言ではなかった。
周囲には木々が乱立し、砦そのものを飲み込まんとしているかの如くであり、実際、半ば飲み込まれているからこそ風景に溶け込んでいるのだ。強靭な木の根が砦の石壁や石床を突き破っている箇所もいくつかあった。あと何十年、何百年もすれば、この砦は完全に森の一部となるだろう。
砦二階の外部には、見張り台らしきものがあり、そこにエスクとドーリンが立っていた。魔晶灯の明かりもつけていないのは、光を灯せば、砦を使っている人間がいることがわかってしまうからだろう。砦内部でも、魔晶灯を使っていい場所は限られていた。外部に光が漏れることのない空間だけ、光明を灯すことが許されているのだ。厨房は、光量を最小限に抑えることでなんとか誤魔化しているといった感じだったが。
そこまで気を使う必要もないのではないか、と思う反面、そこまで気をつけるべきなのだろうとも考える。シーラの足取りを追っているのは、ベノアガルドの騎士団だけではない。アバード中がシーラの敵に回ると考えるべきなのだ。王宮派、セイル派だけではなく、シーラ派の人間にも気を許してはならない。
《星のきらめき》亭の主人のように、シーラの境遇に同情し、命をなげうってでも力を貸してくれる人間がどれほどいるのか。
考えれば考えるほど、どこかの都市に潜伏するのではなく、森の奥の捨てられた砦に籠もるというのは、賢い選択だったのかもしれない。都市の中でも隠れることはできただろうが、ここまで気楽には過ごせないだろう。
「あら、セツナの旦那じゃないっすか」
こちらを見つけるなり、エスク=ソーマが発してきた言葉がそれだった。隣のドーリンが大袈裟に頭を下げてくる。大柄だからちょっとした動作が大袈裟に見えるだけだろうが。
「いや、大将っていったほうがいいかな」
エスクが首をひねりながらいってきた言葉に、セツナは怪訝な顔になった。
「大将?」
「領伯様には、そちらのほうが相応しいな、と。シーラ姫を娶ったってんなら、旦那のままでもいいんですがね」
「冗談だろ」
「ま、ただのシーラさんを娶る理由はありませんか」
「怒るぞ」
セツナは、エスクの隣に辿り着くと、彼の長身を仰いだ。エスクとドーリンの上背ふたりに挟まれると、圧力に負けそうになる。エスクにせよ、ドーリンにせよ、セツナより身長があるだけでなく、体格もよかった。筋肉も骨格も、セツナのそれより優れているように見える。まともにやりあえば、ドーリンにも勝てるかどうか。少なくとも、エスクには手も足も出ないのではないか。シゼールの酒場で対峙したときですら、エスクが挑発してきたからこそ召喚武装を用いることにし、それによって勝利をもぎ取ったのだ。エスクがもし、徒手空拳の戦いで決着をつけようとしてきたら、負けていたのはセツナのほうだった。
召喚武装。
あのとき、セツナが偽りの術式を用いて召喚したのは、黒の仮面だった。黒き矛ではなく、闇黒の仮面に酷似した仮面。クレイグ・ゼム=ミドナスの召喚武装であり、黒き矛の力の一部。
まさかあそこまでうまくいくとは思っていなかったが、召喚できるという確信はあった。
黒き矛は、闇黒の仮面を破壊し、その力を吸収したのだ。闇黒の仮面を吸収したことで、黒き矛は強くなった。それは事実だ。絶大な力を持つドラゴンを一撃のもとで葬り去ったのがその証拠だ。以前の黒き矛ならば、あそこまでの力を引き出すことは不可能に近かった。少なくとも、セツナには、無理だった。そう考えれば、闇黒の仮面を吸収し、黒き矛が強くなったと言い切れるのだ。
が、それだけなのか、とも思っていた。
闇黒の仮面が真に黒き矛の力の一部というのならば、闇黒の仮面の能力が使えたとしてもおかしくはないのではないか。漆黒の槍にもいえることだ。黒き矛に元来備わっている力だというのならば、それと同じことができたとしても不思議ではないはずだった。
ぶっつけ本番だったが、セツナの考え通りのことが起きた。“死神”によく似た闇人形を具現する能力を持つ黒仮面を召喚することに成功したのだ。これにより、セツナは、黒き矛の新たな可能性を見出している。つまり、吸収した召喚武装を使い分けることができるということだ。ランスオブデザイアも召喚できるだろうし、エッジオブサーストなるものも、吸収した暁にはセツナの召喚武装になるということだ。もちろん、それはセツナと黒き矛がエッジオブサーストとその使い手に勝利した先のことであり、いま考えるべきことではないが。
ともかく、セツナは新たな戦い方を見出したのだ。黒き矛と黒仮面を使い分けることができれば、戦いの幅はぐっと広がるのは間違いなかった。そういう意味でも、エスクとの出会いは決して無意味ではなかったし、感謝してもいた。
「それこそ冗談ですよ」
彼は手をひらひらとさせながら笑いかけて来た。軽薄な笑い顔だが、そこに悪意はない。だからセツナは彼を睨まず、肩を竦めるのだ。率直に感想をぶつけることができるのも、彼に他意がないからだ。
「嫌なやつだな、おまえ」
「よくいわれます。だから団長代理に向いてないんすよ」
「本当にな」
「ひどいなあ」
今度はエスクが肩を竦める版だった。
「おまえにいわれたかねえよ」
「大将って、相手によってすんごい口が悪くなりません?」
「悪いかよ」
「そうはいってませんぜ。ただ、わかりやすいなー、と」
「わかりやすい……か」
「ええ。シーラ姫を大切にされていることもよくわかりますよ。って、姫様から目を離すなっていったじゃないっすか」
「砦の中を見て回りたかったんだよ。それにシーラは眠ってるし、ラグナがついてるからさ」
「むう……あのドラゴンっぽい爬虫類的ななにかは、本当に、いったいなんなんです?」
「だから、ドラゴンだよ」
「本当に?」
「さすがは団長代理、疑い深い」
ドーリンが感心したようにいったが、口ぶりからは馬鹿にしているようにしか思えなかった。ドーリン=ノーグがエスクに心服していないのは最初からわかっていたことだが、セツナの正体が判明してからの彼の言動は特に酷くなっていた。とはいっても、エスクの言動同様、そこに悪意がないのだから、エスクもあまり厳しく追求したりはしないのだ。
「元はとてつもなくでかくてさ、あんな可愛らしくはなかったんだぜ」
「ふうむ……」
「俺でも苦戦したからな」
「ザルワーン戦争の竜殺しが?」
「ああ」
「あのドラゴンもどきがねえ……」
セツナが説明しても、エスクは納得出来ないという顔をしていた。実際のラグナシア=エルム・ドラースを見ていないのならば、当然の反応だ。いまはセツナの手のひらに収まる程度の小さな生き物でしかないのだ。セツナやシーラが証言したところで、想像できないのも無理はなかった。それでも、彼がただのトカゲっぽいなにかではないのは、彼が人語を解し、魔法を駆使したことで理解できたはずではあるが。
「信じる信じないはエスクの勝手だがな」
「じゃあ、信じません」
「おい」
「ですから、冗談ですって」
「おまえの言動の半分は冗談だな」
セツナが半眼になると、
「まさか」
エスクはこちらを見て、冷笑した。
「八割が冗談ですよ」
セツナは、その場でこけかけた。
「それで、どうするんだ?」
セツナが問いかけたのは、砦内から夕食のにおいが漂い始めた頃合いだった。そろそろ夕食が出来上がるらしく、砦内からばたばたと足音が聞こえ、それに対する注意が飛び交ったりした。物音を立てずに走れという無理難題を突き付け合う傭兵たちには笑うしかなかった。
「どうするって?」
エスクが首を傾げた。
センサール砦二階外部の見張り台からは、森の風景がよく見えると思いきや、なにも見えなかった。この砦が利用されていた時代には、砦の周辺を見渡すことができたのかもしれないが、それから数百年たったいまとなっては見張り台の視界は、無数の木々によって遮断され、森の闇だけが視界を暗く塗り潰していた。
湿気を帯びた空気が満ちた世界には冷ややかな夜の風が流れ、動物たちの鳴き声ばかりが聞こえている。
「確かに、この砦に隠れている限り、そう簡単に見つかることはないだろうさ。街道の外れの森の奥地だし、砦そのものが風景に溶け込んでる。砦内で息を潜めていれば、まず発見されることはない」
「でしょー? さっすが俺」
「それは、いい。だが、それじゃあいつまでたっても解決しないぞ?」
「セツナの大将、よくよく考えてくださいませ」
「ん?」
「俺たちの目的はなんです?」
「シーラの目的を果たさせることだ」
セツナは即答した。改めて問われるほどのことでもなかったし、考えるまでのこともなかった。元より、セツナがここにいることがそれなのだ。シーラの目的を果たさせるためだけにアバードに潜入したのであり、それ以外のなにもセツナは考えてはいなかった。
考えなくてはならないということもわかっている。
セツナには立場があるのだ。
多大な力を持った一般人などではない。自由気儘に歩き回っていい人間ではないのだ。しかし、いまは、シーラのことだけを考えていればいいし、彼女だけを見ていればいいと思っていた。でなければ、彼女を守り抜くこともできまい。
「ですよね? 姫様の目的は?」
「セリス王妃殿下との対面、だな」
セリス・レア=アバード。つまりシーラの母親であり、シーラは母から直接話を聞き出すつもりでいる。セリスがなぜ、シーラの死を願っているのか。それを知ることだけがシーラの目的であり、それを知ることさえできればあとはどうでもいいというような雰囲気が、いまの彼女にはあった。
実の母親にすべてを否定されたのだ。そうなるのも無理はなかった。
だから、セツナは彼女の側にいてあげなければならないのだ。
「ですな」
「……つまり、まずはセリス王妃殿下の居場所を知らなければならないのです。そのうえで、潜入計画を練らなければならないわけでして、一朝一夕にいくものじゃないんですよ」
「それはわかるが……王妃殿下は、王都にいるんじゃないのか?」
「十中八九、王都バンドールの王宮にいるでしょうね」
エスクはにこやかに告げてきた。
「じゃあ、居場所を調べる必要なんてねえだろ」
「とはいえ、陛下の影武者の件もありますし、調査しておくに越したことはないでしょう」
「……で、どうやって調べるんだ?」
「それに関しては既に手を打っています」
「《星のきらめき》亭の主人が手を尽くしてくれていることでしょうな」
「ああ……あの店主か」
「姫様の御人徳の成せることでございます」
「よっぽどシーラって人気あったんだな」
「国を二分するほどです。大将ほどでもありますまいて」
「なんでそこで俺が出てくるんだよ?」
セツナが口を尖らせながら彼を仰ぎ見ると、エスクはいつもの皮肉げな笑みを浮かべてきた。
「だって、大将ってセツナなんでしょ? 黒き矛の」
「ああ」
「黒き矛のセツナっていやあ、ガンディアの英雄であり、ガンディア国民から圧倒的な人気を誇ることで知られているじゃないっすか。国民的人気ぶりは、あの軍師を凌ぐとか」
エスクの目が冷ややかに光った。
「ガンディアで大将の擁立運動が起こったら、ガンディアもばらばらになったりして」
「そんなことは起きない」
「どうしてそういえるんです?」
「俺が起こさせない」
セツナが断言すると、エスクが砦の方に視線をやった。彼の視線を追いかけると、二階の出入り口に女が立っていた。長い白髪にわずかながらも寝ぐせがついている。シーラだ。ぼーっとした目で、こちらを見ていた。頭の上にはラグナがいて、彼が淡い光を発しているところを見ると、照明代わりに使ったのかもしれない。
「一度動き出した状況ってのは、個人の力でどうこうできるもんじゃないんですけどね」
「知ってるさ」
セツナの脳裏には、天輪宮の広間で独白する女の姿だった。獣姫の国民的人気に端を発する女王擁立運動は、彼女の望んだものなどではなかった。彼女にしてみれば寝耳に水もいいところであり、その結果、王都への凱旋が拒絶されたのだからいい迷惑という他なかったはずだ。そしてシーラ人気の加熱は、シーラ派と王宮の対立を生み、内乱へと至った。
シーラは止めようとした。
彼女には女王になる意思などなかったし、シーラ派という派閥そのものも不要だった。彼女は、アバード王家の一員であり、次期国王は弟のセイルでいいと考えていたからだ。だが、彼女の叫びも虚しく、シーラ派と王宮の対立は深まり、戦争へと発展した。
シーラが失意の中アバードを去ったのは、そんな最中のことだった。
「シーラがそうだったからな」
セツナは、エスクとドーリンに軽く挨拶をしてから見張り台から離れた。