第九百七十九話 烙印(十二)
「センティアを出ましょう。このままここにいても状況は悪化する一方だ」
エスク=ソーマが提案してきたのは、夕闇が迫る頃合いだった。
五月二十七日。
ラーンハイル・ラーズ=タウラルとその一族郎党の公開処刑が実施されるはずだった日。その処刑会場があるセンティアは、セツナたちが起こした闘技場襲撃事件によって大騒ぎになっていた。
そもそも、センティアは数日前から喧騒の中にあるといってもよかった。
センティアは、熱心なシーラ派で知られるウィンドウ一族の影響力が強く、都市そのものが猛烈なシーラ派といってもよかったのだ。それが、シーラ派の台頭に始まる内乱によって加熱し、女王擁立運動の過激化、王宮との対立、エンドウィッジの戦いに至るまで続いた。エンドウィッジの戦いによってシーラ・レーウェ=アバードが捕らえられ、王都にて処刑されたことが公表されると、アバード国内におけるシーラ派の勢いは急激に衰えた。
センティアもその例に漏れなかったのだが、その一因としては、当時のウィンドウ家当主であったキーン=ウィンドウが私兵とともにエンドウィッジの戦いに参加したことがあげられる。キーン=ウィンドウは、ウィンドウ一族の中でも取り分け強烈なシーラ信者であり、彼の熱意に当てられたセンティア市民も数多くいたという。そんな彼も、エンドウィッジの戦いに敗れた後、王都にしてシーラ姫ともども処刑されている。それによって、ウィンドウ一族の当主は、キーンの双子の弟であるゼーレに引き継がれたのだが、ゼーレは消極的シーラ派とでもいうべき人物であり、家督を継いだ後、すぐさま王宮に取り入ったという。そのことがセンティア市民のシーラへの熱狂を冷まさせる一因になったというのだが、シーラにしてみれば、むしろそのほうが良かったのだ、ということだった。
彼女は、シーラ派という派閥そのものを憎んでいる。シーラ派などという派閥さえなければ、シーラ派の連中が行動さえ起こさなければ、シーラはクルセルク戦争後、王都に凱旋し、王家に迎え入れられていたはずなのだ。彼女がシーラ派を憎むのもわからなくはなかった。
そんなシーラ派の熱狂も冷めたセンティアが大騒動の渦中にあったのは、センティアの闘技場が公開処刑の会場に選ばれただけでなく、アバード国王リセルグが領伯の処刑を見届けるため、センティアに訪れるということになっていたからだ。シーラ派最大の人物であるラーンハイルの公開処刑だけでも大騒ぎなのに、そこへきて国王が下向するとなれば、騒ぎにならないはずがなかった。
そして、闘技場襲撃事件である。
五月二十七日午後二時、闘技場にて行われるはずだったラーンハイル・ラーズ=タウラルとその一族の公開処刑は、シーラ姫率いる武装集団の襲撃によって取りやめとなった――センティア市内ではそのような情報が流れているという。
つまり、アバード政府は、シーラが生きていたという事実を公表したのだ。
「ついでにいうと、セツナの旦那が協力していることまで明かされているようです」
「まあ、隠すわけもないか」
夕闇の中、セツナは、エスクが机の上に広げた新聞に視線を落とした。明かりはない。長い間人の出入りのなかったような建物に身を潜めているのだ。明かりを点けて、内部に人がいるということを外に知らせるわけにはいかなかった。不便だが、いまだけは仕方がなかった。
新聞は、つい先程街頭で配られていたという。号外なのだろうが、だとしても手際が良すぎるにも程があった。セツナたちが闘技場を脱出してから数時間しか経過していないのだ。この世界の印刷技術がどの程度のものなのか、セツナは詳しく知らないものの、エスクたちまでもが驚いていたところを見る限り、やはり相当な速さで刷り上げられたのは間違いなさそうだった。
新聞を入手したのは、シドニア傭兵団の傭兵のひとりだ。冴えない顔の青年であり、筋骨逞しい野郎どもの中でひとり浮いているような印象の人物だったが、こういうときには役に立った。彼自身、逞しい肉体を持っているものの、一見した限りでは、荒くれ者揃いのシドニア傭兵団の一員とは思えなかったからだ。彼が地下通路を辿って別の場所から外に出て、また地下通路を通ってこの建物に運んできた。そういう手間が必要なのは、ここが長い間放置された建物であり、人の出入りがあるのはおかしなことだからだ。照明を点けられないのと同じ理由である。
夜の闇が訪れたとしても、魔晶灯の点けることはできないということでもある。
「ええ。これで、姫様は見事売国奴となったわけですな」
「エスク」
セツナはエスクを睨んだが、薄闇の中、彼は薄ら笑いを浮かべるだけだった。
「ま、言葉を謹んだところで、事実は変えようがないわけでしてね」
「それもわかるが」
「いいんだ、セツナ」
「シーラ……」
「俺がセツナの力を借りているのは事実なんだ」
シーラは、両手でハートオブビーストを握りしめている。セツナの手を離したのは、ずっと握っているのが疲れたからでもあるだろう。セツナの手の甲辺りには、シーラの爪痕が刻まれ、血が滲んでいた。
「でも」
「うん。俺は国を売った覚えはないし、売る気もねえよ。俺はアバードは愛しているし、これまでこの国のためだけに生きてきたんだ」
「そんなお方が王妃様に命を狙われるなんざ、世も末ですな」
「エスク、おまえ一々一言多いぞ」
「それが俺の魅力なんでね」
夕闇の中、エスクは片目を瞑って笑いかけて来たが、当然、笑えるような状況ではなかった。セツナの頭に軽い衝撃があったかと思うと、影がエスクに襲いかかるのが見える。ラグナだ。
「おぬしのどこに魅力があるというんじゃ?」
ラグナは、純粋に疑問に感じたことを問いかけただけなのだろうが、エスクは慌てふためきながら後退し、飛龍の接近を許すまいと手を振り回した。
「うおっ、くんなよ、ドラゴン!」
「なにゆえわしを避けようとする!」
「だからこっちくんじゃねえっての!」
「むー」
ついには机の上の新聞を手に取ってラグナを叩き落とそうとまでしたのを見て、ラグナが頬を膨らませた。いままでラグナをここまで拒絶した人間はいなかったのだ。彼にしてみれば、そのような反応をされるとは思いもしなかったに違いない。が、むしろ、エスクに出会うまで、平然と受け入れられてきたことのほうが不思議だった。
セツナ自身、ラグナをいつの間にか自然と受け入れてしまっていることに気づいて、胸中で苦笑を浮かべた。かといって、いまさら拒絶することなどありえないのだが。
「戻っておいで」
「セツナ、あやつは使い物にならんぞ」
不服げにつぶやきながらふよふよと浮遊しながら戻ってきたラグナを両手のうちに受け止める。最初のころよりも若干体積が増えているような気がするのだが、気のせいかもしれない。相変わらず、彼は手乗りドラゴンのままだった。
「団長代理殿は爬虫類が苦手ですからな」
そういいながら椅子の背後からぬっと顔を出してきたのは、ドーリン=ノーグだ。赤い髭の大男は、部下とともに建物内を探索していたのだが、さすがにそれにも飽きたらしい。特に値打ちになるようなものはないのかもしれない。そんなものがあったとして、盗みを働くことを認めることは、セツナにはできないが。
「へえ、エスクがねえ」
「わしは爬虫類などではないぞ」
「見た目は羽の生えたトカゲだろ」
セツナは、ラグナの小さくも丸々とした体を撫でてやりながら、小声で告げた。当然、ラグナの耳に届いているし、彼もこちらを睨みあげてきたのだが、エスクの叫び声によってかき消された。
「て、てめえ、ドーリン野郎! 裏切りやがったな!」
「常に強いものに付く、それがこの世の倣いでして」
「傭兵なら金払いのいい方に付く、の間違いだろ!」
「それのなにが問題で?」
ドーリンが言い放ったのは、セツナの座る長椅子の背もたれを盾にして隠れながらだ。説得力もなにもあったものではなく、ふたりの間に挟まれているセツナは、どうすることもできず、軽い痛みに耐え続けるしかなかった。ラグナが指に噛み付いている。もっとも、痛いというよりも痛痒いといったほうが正しい。
「あん?」
「わたくしどもの雇い主は、セツナの旦那でございやしょう?」
「む……確かに」
「それに、ニーウェの旦那の正体がガンディアの英雄殿と判明した以上、金払いに関してはなにひとつ心配する必要もございませんし」
「そりゃあそうだ」
エスクは、ドーリンの説明に納得すると、丸めていた新聞紙で自分の肩を叩いた。背後で、ドーリンが安堵の息を吐くのが聞こえた。セツナはそんなふたりのやり取りに対して、口を開かざるを得なかった。
「……安心しろ。働きに応じた金額を支払ってやる。金の使い道がなくて困ってるくらいだからな」
実際、セツナの懐には大量の金銭がある。現在、手元にある分だけでも路銀としては破格の金額といってもいいほどであったし、国に帰れば比較にならないほどの金額が有り余っていた。度重なる戦争で殊勲者として表彰されてきた結果でもあるし、王宮召喚師、王立親衛隊《獅子の尾》隊長としての給料もあれば、ふたつの領地を持つ領伯として懐に入る金額は膨大といってもいい。基本的に金を使うことがないセツナには、金は貯まるだけのものであり、使い道を探していたというのもあながち出任せではなかった。
「ひゅー! さっすが旦那だぜっ!」
軽妙に口笛を吹き、あまつさえ抱きついてきたエスクの豹変ぶりにはさすがのセツナも上体を逸らして距離を取ろうとした。背もたれのおかげで、退くことも離れることもできなかったが。
「おまえはいったいなんなんだよ」
「ただの傭兵くずれにございますよ、旦那」
「はあ」
セツナは、茶目っ気たっぷりに片目を閉じてきたエスクに対し、ため息を漏らすしかなかった。