第九十七話 戦の行方
ガンディア軍勝利の報が王都ガンディオンにもたらされたのは、二十日の明朝のことだった。
伝書鳩による速報は、昨夜のうちにマルダールに届き、かの要塞都市を震撼させたらしいが、その報告がガンディアの王都にもたらされると、天地が引っ繰り返ったかのような大騒動になったのは、想像にかたくないだろう。ガンディアの歴史においてもっとも大きな変化であり、賞賛すべき事象であり、喜びであり、驚きであり、とにかく、臣民は大袈裟なまでに驚嘆し、歓声を上げた。
バルサー要塞奪還以上の騒ぎになったのは当然だろう。弱小国のひとつであったガンディアは、隣国のログナーを下したことで、それらから一歩抜きん出ることができたのだ。それによってただちに何かが変わるということはないだろうが、少なくとも近隣諸国に比べて大きな軍事力を持つことになるという事実は、ガンディアの置かれている立場を変えていくことになるだろう。
同盟国であるルシオン、ミオンとの関係も少しは変わるかもしれなかった。それが必ずしも良い方向に向かうとは限らないものの、ガンディアにとって、同盟二国との関係が悪化するほど嫌なことはないのだ。それから考えれば、両国との関係は今後も良好に保たれていくはずである。
戦勝に関しての詳細な情報は、未だ城下に届いてきてはいない。ログナーとの戦闘による被害は甚大だったが、辛くも勝利を収めることができたということくらいしかわからなかった。
ガンディア軍の勝利は、ログナー王エリウス・レイ=ログナーの名の下に認められたものであるということは伝えられてはいたが、彼らログナー王家やその家臣らの処遇に関しては市民の耳には届かなかった。いや、市民だけではなく、一介の武装召喚師に過ぎない彼女の下にも詳細な情報が届いたりはしなかった。
ファリア=ベルファリアは、リノンクレア・レーヴェ=ルシオン王子妃をクレブールまで送り届けたあと、急いでガンディオンまで戻ってきたのだ。リノンクレアたちと一緒に観光(彼女らは国への土産を買い漁るために二、三日は滞在する予定だったという)などしている暇はなかった。無論、即時帰還せよなどという命令を受けていたわけではない。彼女は自発的に帰投を早めたのだ。それにはルウファ=バルガザールも同意だったが、彼はしばしの休息を要求し、彼女はそれを認めざるを得なかった。
ルウファ=バルガザールは、街道沿いでの戦いによって、明らかに衰弱していたし、精神面でも体力面でも不安があった。もちろん、そんな状態では連れて帰れない。そして、彼一人をクレブールに置いておくわけにも行かなかった。もっとも、彼の身の安全が保証されないということではない。彼はガンディアにおいてもっとも有力なバルガザール家の人間であったし、有能な武装召喚師でもある。
クレブールに置き去りにしてもなんら問題はなかっただろうが、それは彼女の正義に反した。そもそも、彼が休みを要求するほどに疲弊した原因は、ファリアにあるといってよく、責任を感じないわけにはいかないのだ。
すべては彼が黒き矛の武装召喚師たるセツナ=カミヤに成り済まし、リノンクレアの帰国に付き添うという任務から始まった。それは、バルサー平原の戦いで圧倒的な力を見せたセツナを前線から遠ざけたことで、他国の警戒を和らげるというためだけのものだったが。
黒き矛の武装召喚師に成り済ますためには相応の召喚武装がいる、というのは最初からわかっていたことだ。ルウファの召喚武装では、セツナになりきることはできない。
だからこそ、彼女は一晩かけて術式の構成に勤しんだのだ。遠目に黒き矛と見えればいいだけだったが、苦慮した末、天啓のように降り注いできたイメージを呪文化したファリアは、会心の出来だと思った。
実際、その術式によって召喚された漆黒の槍は、あまりに強力だった。いや、強力過ぎたというべきだろう。皇魔の一群を殲滅しただけでは飽き足らず、さらなる破壊の嵐を起こそうとした。
ルウファの意思とは無関係に、だ。
そして、セツナを幻視した。
ルウファによると、極めて実感を伴って現れたセツナは、彼と漆黒の槍を破壊しようとしていたという。もっとも、ルウファも槍も傷つけられることさえなかったが。
彼は、そのたった一度の召喚で精神を消耗し尽くした。クレブールまでの道中、馬車の中で眠り続けるほどに。
『召喚はもう二度と御免ですよ』
疲弊しきった顔は忘れようがない。
彼がガンディオンに戻ってきて最初にしたことといえば、漆黒の槍の召喚術式を記した手紙の焼却処分だった。残しておけばだれかが見てしまうかも知れなかったし、それが他の武装召喚師に渡ったときのことを考えれば、彼の対処は適切かもしれなかった。
ファリア自身、漆黒の槍には良い印象を抱かなかったし、彼の判断を支持した。いくら強大な力であっても制御できない武器など無用の長物なのだ。
ともかく、多少回復したルウファとともに王都に帰還したファリアは、そこで初めてガンディアのログナー侵攻を知った。
王都にいるファリアにできることといえば、セツナの無事とガンディア軍の勝利を祈ることだけだった。王命もなくログナーに向かうなどできるはずもない。
もっとも、日がな一日、なにもしないわけではない。ガンディオンにある大陸召喚師協会支部の事務所で、仕事に忙殺されていたのだ。ガンディアに雇われた身となった以上、本来ならば協会の役職を辞すべきであったのだが、状況がそれを許さなかったのだ。そのための手続きに時間を費やさざるを得なかった。
それさえ終われば後は気楽なものだった。ルウファの厚意に甘えてバルガザール家に部屋を借りたのは、セツナが帰ってくるとすればこの屋敷だったからだ。彼の借りている部屋はいつ覗いてもやはりがらんとしていたが、彼が数日生活した後は残っている。もっとも、バルガザール家のメイドたちによる行き届いた掃除は、彼がいた痕跡を消し去ろうとしていた。
さて、そのセツナが帰ってくるのはいつになるのだろう。
ログナーに勝利した以上、すぐにでも帰ってくるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。論功行賞は帰国後に行われるのだろうか。だとすれば帰国も早いだろうが、かといってログナーをそのまま放置しておくこともできまい。戦争には勝った。が、依然彼らは反抗するだけの戦力を有しているはずだ。
辛勝というのだから、それくらいの兵力は残っていると見るべきだ。
レオンガンド王はどうするつもりなのだろう。無論、ログナーという国家を飲み込み、ガンディアを強化するのだろうが、だとしてもどのような方法を取るのだろうか。ログナーの王家や貴族はどうなるのか。軍はどうするつもりだろう。
興味は尽きないのだが、ひとりで考えていても埒があかないのも事実だ。
ファリアは、情報収集に王宮へと向かったルウファが帰ってくるのを所在なげに待っているしかなかった。
ガンディアは勝った。セツナはきっと無事であるはずだ。彼の手にはあの矛がある。黒き矛を手にしている限り、彼は生き残る。全身を焼き尽くされても、生きていた。一命を取り留め、彼女の矢を受け入れることができたのだ。大丈夫。あの矛が裏切るようなことでもない限り、セツナは無事だ。そして、召喚武装が裏切ることなどありえない。
召喚武装の力を制御しきれず暴走するということはありうるとしても、だ。召喚武装自身の敵意が召喚者に向くことはありえない。ランス・オブ・デザイアでさえ、そうだった。ルウファの手に負えなかった漆黒の槍は、彼の意思を越えた力を発揮したものの、彼自身を傷つけるということはなかったのだ。
もっとも、使いこなせない力に意味はない。ルウファが呪文をこの世から消し去ったのは間違いではなかった。これで誰の目にも触れることはなく、もう二度と、あの槍が召喚されることはない。
(はずよね……?)
ひとりごちて、ファリアは、妙な不安に胸の奥がざわつくのを認めた。なぜかはわからない。あの槍にはそう感じさせる何かがあるのかもしれない、螺旋を描く漆黒の槍。圧倒的な力を見せつけて皇魔の群れを一掃した。あれほどの召喚武装などそうそうあるものではない。不吉な予感を覚えるのも無理はないのかもしれなかったが。
その思考の果てに脳裏を過ぎるのはセツナのことだった。
戦争が終わった今、彼はログナーの地でなにをしているのだろうか。
戦は、終わった。
思っていた以上にあっさりと。
考えていた以上にあっけなく。
アスタル=ラナディースが負けを認めたことで、勝敗は決した。そのために捧げられたのは、二百三十三名の兵士の命。それは彼女が決断に要した時間の長さというよりは、判断材料として必要な犠牲だったのだろう。
それは、セツナがカオスブリンガーによって殺した敵兵の数である。
あのとき、即座に敗北を認めることなどだれにもできなかっただろう。相手はたった一人の武装召喚師で、場は混乱していたとはいえ、兵の数ではログナーが上だったのだ。順調に行けば、ガンディアを圧するのは明白だった。例え黒き矛を突き付けられたとしても、目前の勝利と比べたとき、そう簡単に決断できるものでもないのだ。
結果、飛翔将軍の周囲にいた兵のうち、二百三十三人がセツナに襲いかかり、返り討ちにあって命を落とした。無駄死にともいえるし、必要な犠牲を払ったのだともいえる(それは傭兵の受け売りだったが)。
アスタル=ラナディースの決断がもっと早ければ散らなかった命。しかし、セツナが現れた瞬間にログナーの敗けを認めることなどだれができよう。認めることができたとして、周りは納得すまい。結局、同じだけの血が流れたかもしれない。
カオスブリンガーの力を目の当たりにしてこその決断であり、であればこそ、兵士たちも納得しようというものだ。もちろん、彼女の判断に納得できないものたちもいるだろう。名将と謳われたアスタル=ラナディースならば、あの状況から勝利を掴み取ることぐらい容易だったはずだという声もあるらしい。
が、ともかくこの度の戦いはガンディアの勝利に終わった。戦場には多数の皇魔が残っていたが、両軍は力を合わせてこれを撃退した。ブリーク百二十四体、それぞれ五十体以上のベスベルとレスベル、そして十体に及ぶギャブレイト。戦闘は熾烈を極めたが、両国の武装召喚師たちの活躍もあって被害の拡大は抑えられたのだった。
武装召喚師といえば、どうやらガンディアの本隊には二人の武装召喚師が随伴していたらしい。ウェインから将軍らの身を護る為に奮戦したものの、負傷し、後方に退かざるを得なかったようだ。大陸召喚師協会から雇ったふたりの武装召喚師。きっとファリアの知り合いに違いないが、セツナには興味のないことだった。しかし、武装召喚師二人でも止められなかったウェインの執念には空恐ろしくなる。
無論、あの槍の力に過ぎない。だが、彼が槍を召喚し、見事に操っていたのも事実だった。最後まで、そこには彼の意志が介在していた。ウェイン・ベルセイン=テウロス。戦いが終わって思い出すのは、あの騎士のことばかりだった。
セツナは、王都マイラムを一望する塔の屋上にいた。そこは、戦後の処理でおびただしい数の人間が出入りするマイラム王宮の一郭にありながら、ログナーの兵士たちもいなければガンディアの兵士たちの姿もない数少ない空間だった。市街にも王宮の中にも身の置き場の見つからない彼には打って付けの場所であり、ここにいる限り自由に思索することができた。思う存分、誰の邪魔をされることもなく。
戦闘が終わってから二日が立った。
飛翔将軍アスタル=ラナディースが敵国の王を引き連れて帰還を果たした時、マイラムの市民は沸き立った。しかし、ガンディア軍の兵士に前後を挟まれるようにして帰ってきたログナー軍の様子に疑問が生まれ、やがてログナー側の敗北が知れ渡るとマイラム中が大騒ぎとなった。が、取り乱したりする人のほうが稀で、多くの人はむしろ冷静に事態を受け入れていた。まるで諦観しているかのように。
セツナはログナーの歴史について詳しいわけではないので、市民の反応を不思議に思った。もっとも、黒き矛を担いでガンディア軍の先陣を切っていた彼に憎悪の視線を向ける市民の多さは、彼をして辟易させるほどだったが。
黒き矛の悪名は、ログナー中に轟いているらしい。
暗澹たる気分になる。頬を撫でる穏やかな風でさえ、いまの気分を掬い上げてくれるようなことはない。塔の上から見渡せる王都の街並みも、ガンディアの勝利を祝うかのような晴れ晴れとした青空も、彼の気分を晴らしてはくれなかった。両手を見下ろす。焼け焦げた手には、薬を塗りつけられたあと包帯が巻きつけられていた。ひどい火傷だった。が、火傷だけで済んでよかったという考え方もある。
ウェインとの戦いは、セツナが死んでもおかしくはなかったのだ。彼の執念。漆黒の槍の力。セツナの精神状態。なにもかもが、セツナを悪い結果に導こうとしていた。最悪の結末へ邁進していた。死へ。
思い出すだけで背筋が凍るようだ。
すべての発端は、己の過ち。そのために千人以上の兵士が命を落とした。ガンディア軍の本隊に編入されていた兵士たち。いまさらのように、自分のしでかしたことの重大さに気づく。いや、とっくに気づいていたはずだ。気づいていたからこそ、ウェインを倒すことができたのだ。
だが、それでけじめをつけることはできたのか。
頭を振る。
けじめなどつくはずがない。死んだ人間は二度と生き返ったりはしない。死は絶対であり、永遠だ。決定的な楔なのだ。それを覆すことはできない。それが生きるということであり、死ぬということなのだ。死んだ人間にはどうやったって償うことはできないし、過ちは過ちのまま、セツナの意識に残り続ける。記憶の襞に入り込み、死ぬまで囁き続ける。
「俺は……なんてことをしてしまったんだ」
取り返しのつかないことだ。あのとき、セツナがウェインを殺しておけば、本隊は無事レオンガンド王と合流できたはずだ。ガンディア軍は最良の状態でログナー軍と戦えたはずだ。
いまさらだ。なにもかも遅すぎる。わかってはいても、考えざるを得ない。自分がなんのためにここにいるのかを考えるのなら、直視せざるを得ない問題だ。甘いのか、甘えていたのか、酔っていたのか。
狗にもなれず、鬼にもなれず、中途半端な自尊心だけで成り立っているのではないか。そんなことばかりを考える。
マイラムへの道中、セツナはレオンガンド王に何度も話しかけられた。陛下はセツナのことを気にかけている様子だった。彼はセツナの失態について知っていた。そして、こういってきたのだ。
『君ひとりが悪いわけではないよ。君は確かにウェインに止めを刺しておくべきだったが、誰にだって間違いや失敗はある。気にするなとは言わない。それほど軽いものでもないからね。だが、落ち度があるのは君だけじゃない。三千もの兵、二人の武装召喚師を有しながら、たったひとりの敵に蹂躙された本隊に問題がなかったなどとどうしていえる?』
それもその通りなのだろうが、だからといってセツナは己の罪を問われないことにこそ不安を抱いていた。諭すように続けるレオンガンドの言葉には、毅然とした優しさがあったが、それこそセツナには辛かった。陛下はなぜ、自分を責め立てないのだろう。彼の臣下を無為に死に至らしめたのはセツナの失態なのだから、もっと責められてもいいはずだ。罵り、蔑み、罰を与えるべきなのだ。でなければ、セツナ自身が自分を許せなくなる。
けじめとしてウェインを倒すことはできた。この手で、息の根を止めた。だが、それですべてを清算できるはずもない。そんなつもりもなかった。死んだものは死んだままだ。失われた命が元に戻ることなどありえない。
だからこそ、セツナは断罪されることを望んでいた。しかし。
『たったひとりだ。たったひとりの敵に半壊させられたんだ。そんなこと、だれが予想できるというんだ。君のような力を持った武装召喚師が他にもいるだなんて考えられるのか? それが甘い見通しだったというのなら認めるしかあるまい。つまり、わたし自身にも責任があるということだ。いや、王であるわたしがすべての責を負うのは当たり前のことだな。すべてはわたしの認識の甘さから出たこと。君ひとりで背負うべき問題ではないんだよ』
気高くも優しく、誇り高くも穏やかに投げかけてくれた言葉の数々が、いまもセツナの頭の中で反響している。それが救いになったりはしない。心は深く沈んだままだ。それでも、少しだけ光が見えた気がした。
『それに君はこの勝利の立て役者だ。彼らの死も決して無駄にはならない。この勝利によって、ガンディアは強く大きくなっていくことができる。その第一歩を踏んだのだ。決して無駄にはしない。犬死になどさせるものか。ガンディアの歴史が続く限り、彼らの死は無駄にはならない。そうだろう?』
ガンディアの歴史が続く限り。
そのためにはセツナの協力が必要なのだと、レオンガンドはいった。黒き矛の使い手たるセツナの協力が必要不可欠なのだ、と。
必要とされている限り、居場所を失うことはあるまい。その点では安心できる。しかし、そこに安息と呼べるようなものがあるのだろうか。黒き矛を振るうのは戦場だ。闘争の中にこそ居場所があるということだ。いや、戦い続けなければ居場所を確保することなどできないというべきか。
居場所、安息、平穏――欲しいのはただそれだけだ。それ以上は望まない。しかし、それらを得るためにすら、血に塗れなければならないらしい。血で血を洗う闘争の中に身を置かねば得られぬ安息などあるのだろうか。ふと思い、苦笑する。今更だ。
「遅すぎるよ、後悔すんの」
自嘲するでもなくつぶやいて、彼は、塔の屋上から少しだけ身を乗り出した。十階建ての塔は、王都マイラムを見渡すには十分すぎるほどの高さがあり、眼下の騒動さえ別世界の出来事のように見えた。それくらいの距離感があるのだ。そしてそれは、今の彼には必要な距離感だった。考える時間が欲しかった。静かに、ゆっくりと、思索する時間が欲しかったのだ。
今日まで戦闘続きだった。敵国を走り回るとはそういうことだ。神経は常に張り詰め、気の休まる時はない。戦いに次ぐ戦いで心身ともに疲弊していくが、磨り減らした心を落ち着ける暇などあるはずもなかった。そして、戦闘が終わってからでさえ、心が休まる時は訪れなかった。
いま、ようやく落ち着きを取り戻し始めている。
激流のような現実から距離を置くことで、ようやく自分について考える時間を持つことができたのだ。
(ようやく……)
ひとつの戦いが終わった。
激動する時代の中にいるという実感は沸かなかったし、このガンディアの勝利によってなにがどう変わるのかも理解していなかったが、それでも、きっと意味があったのだろうと思う。レオンガンドの言うように無駄にはならなかったのだろう。この勝利のために費やされてきたものすべて。
(でも、それでも……)
息苦しさを感じる。
きっとこの息苦しさから解放される日なんてこないのだろう。確信めいた予感がある。この苦痛は、セツナが生きていく上でずっとついて回るものなのだ。そう理解したとき、彼は、少しだけ自分を許せるような気がした。
死ぬまでこの苦しみを背負っていくのだから。
不意に、階下から靴音が響いてきた。靴音だけで相手を判別できる訳もなく、セツナは、足音の主が姿を見せるのを待った。
「こんなところにいたのか」
そういって階下から声をかけてきたのは、ランカイン=ビューネルだった。彼は、仮面で顔面を覆い隠しているが、それは彼の素性が素性だからだ。隠すには遅すぎる気もするが、気にもしていないのだろう。戦場ではそこまで注視されないという自信でもあったのかもしれないが。ドラゴンとも鬼とも言えぬ化け物じみた仮面は、主に目元を隠しており、口元は顕になっている。声が聞こえやすいようにという配慮なのかどうか。
セツナは、王の側で従事しているはずの人物の登場に疑問符を浮かべた。
「なにかあったのか?」
「緊急事態というやつさ」
彼は笑うでもなく告げてくる。
「アーレス=ログナーがレコンダールを占拠した」
「はあ」
セツナは、階下のランカインを見下ろしながら、怪訝な表情をした。アーレスといえば、一度だけ顔を見たことがある。神経質そうな男だったように記憶しているが、勘違いかもしれない。印象が薄いのだ。レコンダールで短時間対面したに過ぎない。アーレスよりも、グレイ=バルゼルグのほうが印象的だった。いかにも歴戦の猛将といった風情のある人物だった。
しかし、レコンダールは元々占領されていたはずだ。アーレス率いるザルワーンの軍勢によって。ザルワーン軍が、ヒースの策略によって撤退したあともアーレス自身の手勢によって占領状態を継続していてもおかしくはないといっていたのは、ほかならないランカインだった。そんなことを再確認する必要があるのだろうか。
「彼はログナーの元王子だ。ログナー軍はラナディース将軍に心服しているとはいえ、今回の敗戦に不服を抱く連中もいる。そんな連中が彼からの誘いに応じないとも言い切れない。現に、王都から兵士が脱走しているという報告も入っている。わずかだがな」
「放置することはできない、と」
「陛下は事態を重く見ている。今はまだいい。アーレス如きに権力も魅力もないからな。集まってもたかだか数百人程度だろう。だが、長引けば他国が介入してくるかもしれない。いや、ザルワーンは間違いなく手を出してくるだろう。アーレスに援助するという名目でな。ヒースの策は二度とは使えまい。今度ザルワーンが軍を差し向けてき場合、こちらも全力で戦わなければならない」
「それは避けたい?」
「ログナーに勝利したとはいえ、情勢は不安定だ。この地はガンディアのものになったと言い切るには、まだ時間がかかる。それらが安定するまで軍を動かすのはできるだけ避けたいというのが、上の考えさ」
「つまり」
セツナがわかりきった結論を促すと、ランカインは笑うように言ってきた。
「君に一任するということだ、セツナ=カミヤ」