第九百七十六話 烙印(九)
「そして、手を出すのは、シーラ姫、あなただけだ」
シドという名の騎士は、一方的に告げてくると、腰に帯びていた剣を抜いた。闘技場で用いていた剣とは異なる剣だった。長剣。長い刀身が、魔晶灯の光を反射して、濡れたような輝きを放っている。しかし、それは刀身そのものの光であり、ベインやロウファの不思議な力ではない。
「させねえっていってんだろ」
セツナは、シーラを横目に一瞥して、ラグナに目線を送った。彼はなにもいわずにうなずくと、発光現象を止めた。この距離なら、騎士にもシーラの位置は明らかだろうが、これから混戦となれば、ラグナの光が目印になることだってありうる。シーラを守るためには、彼女の居場所の目印となるようなものはあるべきではない。
エスクが魔晶灯の光を消すと、傭兵たちもつぎつぎと魔晶灯の光を消した。さっきまでの明るさが暗闇を引き立たせ、完全な闇となって君臨する。しかし、セツナの視界が奪われることはない。黒き矛を手にしていることの副作用によって、セツナの視力は常人では考えられないくらいに強化されている。それでもシドの接近には気付かなかったのだ。なんらかの特殊な能力を駆使したのかもしれないし、それこそ、召喚武装の能力だとしてもおかしくはない。
「こうなった以上、ここで潔く死ぬほうが、シーラ姫のためだといっているのです」
シドの声音は、常に一定の温度を保っている。冷ややかなそれを温度といえるのならば、の話だが。
セツナはシーラの手を引っ張って後ろに追いやると、エスクたちの前に出た。エスクはこちらの意図を察してくれたらしく、傭兵ともども後退し、シーラを連れて移動を開始した。
「死ぬほうがいいなんてこと――」
そのとき、セツナの脳裏に過ったのは、ミリュウが発した言葉だった。
『あたしを殺して』
記憶を受け継いだために思い悩んだ彼女が出した結論。
リヴァイアの知の継承によって引き起こされるであろう悲劇を回避するための最終手段。他人の記憶に振り回され、狂い、壊れてしまうまえに、セツナの手によって命を終えたい。彼女の願い。彼女の想い。自分を見失ってまで生き続けるよりも、自分であるうちに死にたい。
どうせなら、愛するひとの手にかかって死にたい。
「――そんなこと、あるわけがねえだろ!」
セツナは叫んだ。シドに対してではない。自分に対してであり、ミリュウに対してであった。だが、彼女の想いを否定することもできない自分がいて、だからこそ、セツナは懊悩の中にいるのだ。ミリュウが継承したリヴァイアの知が本当に彼女を狂わせるのか、本当に化物のように成り果てるのかはわからない。しかし、彼女が垣間見た記憶の中では、そのような末路を辿った継承者たちがいたのだろう。自分もそうなると踏んだのだろう。そういう未来を視たから、彼女はセツナに頼んだ。一方的に約束を取り付けてきた。
セツナは、答えられなかった。
約束してなどいない。
殺すなど、一言も言っていない。
けれど、なにもいわないということは、黙認するのも同じだ。否定していないのだから。拒絶していないのだから。
だが、なにもいえなかったのは、
「本当にそうお想いですか?」
「ああ! 悪いかよ!」
「だとすれば、あなたは世間を知らなさ過ぎる」
シドの超然とした冷ややかな目は、彼が人間ではないもののように思わせた。しかし、“神”と対峙している時のような感覚はない。やはり彼は人間で、人間の中でも強い意志の持ち主にすぎないということだろう。その意思の強さが厄介なのは、疑いようがないが。
「この世には、死んだほうがましだと言い切れるような地獄だってあるのです」
「だとしても、シーラは違う!」
「……このまま逃げ延びれば、生きることはできるでしょう。しかし、彼女にとっては地獄のような未来が待ち受けている。あなたは、それをわかった上でいっているのですか?」
「どんな未来が待ち受けようと、俺が守るさ」
セツナが告げると、シドは一笑に付した。
「無責任な方だ」
「無責任だと?」
「言葉ではなんとでもいえるということです。どうやって守るというのです」
「俺はガンディアの領伯だ。いくらでも守る方法がある」
セツナは、その権力を用いて、一度、シーラを庇護下に置いた。シーラを部下とすることで、彼女の立場と居場所を確保したのだ。それをこれからも続けるというだけのことだ。ガンディア国内で批判の声があったとしても、セツナは彼女を守り抜く覚悟があった。レオンガンドも、その程度のわがままなら許してくれるだろう。なにせ、セツナはこれまで、ガンディアのためにだれよりも多くの敵を倒してきたのだ。だれもよりも多くの戦場を制してきたのだ。だからガンディアの英雄などと呼ばれ、ふたつの領地を持つ領伯にまでなれたのだ。
だが、シドには伝わらなかったようだ。彼はやれやれと頭を振った。
「……あなたはなにもわかっていない。が、まあ、いいでしょう。あなたと問答をしている暇はない。わたしは姫様を殺さなければならない。それで、すべてが丸く収まる」
「収まるかよ」
「いえ、収まります。少なくとも、アバードはセイル王子殿下派によって統一され、安定した国造りを始めるでしょう。反逆者にして売国奴たる獣姫の存在は、時間とともに風化していくだけのこと」
シドは、剣を横に振った。刀身に光が宿り、完全な闇を淡く照らす。やはり、ベノアガルドの騎士は特殊な能力を持っている。おそらく、その破壊力はベインの一撃に匹敵し、ロウファの光弓にも並ぶのだろう。まともに食らってはいけない。
「それだけのこと」
(いや、まともに戦うべきじゃないんだ)
セツナの頭の中は、極めて冷静だった。冷静に状況を把握している。自分がどうするべきか、どうやってこの場を切り抜けるべきか、明確な答えが出ている。ベノアガルドの騎士と戦うことになんの意味もないということは明白だ。相手もまた、セツナとの戦いに興味もないのだ。彼らの目的はシーラの殺害。それ以外のことに構うつもりもない。シドもまた、同じだろう。セツナをどうにか出し抜き、シーラに追い縋りたがっているはずだ。
(だったら)
セツナは後方に大きく飛び退くと、シドに向かって矛先を向けた。騎士が警戒を示した。セツナの思った通りの展開になった。
「だから、させねえってんだよ!」
力を込める。生命力が吸い取られるような感覚があり、カオスブリンガーの穂先が白く膨張したように見えた。直後、穂先から光が放出され、奔流となってシドに向かっていった。騎士は、直撃を嫌ったのか、左後方に飛んだ。透かさずセツナは矛を上方に翳した。光の帯が曲線を描き、そのまま地下通路の天井に突き刺さる。そのまま自分の頭上まで移動させながら、さらに力を注ぎ込んだ。光の帯が膨張し、威力が増した。破壊の連鎖が巻き起こり、地下通路の天井が瞬く間に崩落を始める。轟音と地響きが黒き矛の光線による破壊の凄まじさを物語っている。
あっという間にセツナの前方は瓦礫で埋め尽くされた。シドの気配は、瓦礫の彼方にある。
セツナは、後ろに下がりながら光線の照射を止めると、すぐさま反転してエスクたちの後を追った。
シド・ザン=ルーファウスは、地下空間に立ち込める粉塵の中で立ち尽くしていた。前方、本来ならば通路になっているはずの空間は、天井から崩落した瓦礫によって完全に封鎖されていた。現在の彼の力でも撤去するのは必ずしも難しいことではない。しかし、移動するにたる空間を確保している間に逃げ切られるのもわかりきったことなのだ。たとえ目の前の瓦礫を撤去したところで、行く先々で瓦礫の山に直面しないとも限らない。そうなれば、ますます距離が引き離されるだけのことだ。彼ならば、そうするだろう。
実際、破壊音が断続的に聞こえていた。
(存外頭が回る)
建物の構造を利用した障害物の構築。地下通路の天井を破壊し、その瓦礫で通路を塞ぐなど、瞬時に考えつくものだろうか。無論、頭が回るだけでできることではない。それもこれも、黒き矛の強大な力があってはじめて可能なのだ。ベインの腕力でも可能だろうが、彼はそんなことを考えはしない。ベインはその膂力を駆使した近接戦闘を得意とし、搦手は不得手だ。そして、そんなものを必要しない火力がある。
(しかし、ベインでも彼を押さえられなかった)
ベインとロウファがセツナと接触し、交戦したが、彼らふたりを以ってしても制圧することは簡単ではなかった。全力を駆使してはいないとはいえ、黒き矛のセツナの力量の一端が窺い知れるというものだ。騎士団長フェイルリング・ザン=クリュースが気にするだけのことはある。
(ケイルーン卿の報告は、主観が入りすぎている、ということか)
彼は、ベノアガルドへの帰路、アバードに立ち寄った騎士のことを思い出して、軽く嘆息した。
既に複数の気配がシドの間合いから遠ざかっていくのがわかる。じきに感知範囲からも離れていくだろう。そうなれば、目標に追いつくことは極めて難しくなる。感知範囲を拡大した結果、精度が落ちてしまっているからだ。逆に、精度を高めれば、特定の対象を判別することは難しくないのだが、今度は範囲が狭まるのだ。
(一長一短だな)
仕方のないことではある。
「おやおや、シド・ザン=ルーファウスともあろうお方が、目標を取り逃すなんてことがあるとは」
「君らが彼を押さえてくれていれば、今頃終わっていたのだがな」
おどけたような声に対し、シドは軽く肩をすくめながら背後を振り返った。ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコートとロウファ・ザン=セイヴァスの姿がある。
「ラナコート卿が調子に乗ったおかげですよ」
「セイヴァス卿がわたしを射殺そうとしたものでね」
「ラナコート卿ならばわたしの意図を察してくれると信じたまで」
「おやおや、そこまでわたしの力量を買ってくれているとは、想いもよりませなんだなあ」
「あなたほどの馬鹿力は、騎士団内を見回しても他にいませんよ」
「はっはっは」
「ははは」
なにやら慇懃無礼を体現するふたりを見遣りながら、シドはいつものように嘆息してみせた。
「まったく……君らは本当に仲がいいな」
「皮肉ですか」
「ああ、皮肉だよ」
シドがにべもなく告げると、ベインの笑顔が凍りついた。そんな彼の反応を見て、シドはまたしても頭を振った。ときにベインという男がわからなくなる。彼は、膂力と凶暴さだけが取り柄であり、その取り柄がひとよりも図抜けていたから騎士団幹部になれたような男だった。騎士にもっとも相応しくないといわれるだけのことはあるのだが、それでも騎士団の一員だということに誇りを持っているらしい。
「いいんですか? 追わなくて」
「必要がない」
「必要がない?」
「彼女の愚かな振る舞いが、彼女自身を追い詰め、みずからの首を絞めることになったのだ。我々が手を下すまでもないかもしれん」
「どういうこった?」
「アバードは、シーラ姫の生存を明らかにし、糾弾するだろう」
シドは、ベインたちに自分の見解を伝えた。おそらく、アバードはシドたちの報告を聞き、彼の想像通りに行動を取るに違いない。そのとき、糾弾するのは、シーラだけではない。シーラを匿い、シーラとともに公開処刑を台無しにしたガンディアの英雄と、ガンディアそのものをも糾弾するに違いなかった。
アバードとガンディアの関係がどう変化するかは、アバードの糾弾に対するガンディアの反応にかかっている。ガンディアがシーラ姫を援護すれば、両国の関係は間違いなくこじれ、急速に悪化していくだろう。逆に、アバードに陳謝し、シーラ姫を差し出すという結論を下せば、両国の関係はこれまで以上に密なものともなりうるのだが。
「彼女は、獣姫という英雄から、売国奴へと身を堕したのだ。それこそ、彼女のような人間にとっては地獄だろう」
シドは、話に聞くシーラ姫のひととなりから彼女の心情を想像し、小さく告げた。
救済こそが騎士団の目的だ。
シーラ姫もまた、救済の対象であることに違いはない。