第九百七十五話 烙印(八)
「ったく、ひとがせっかくあんたとの戦いを後回しにしたってのに、なんだってんだ」
大剣使いの騎士は、黒き矛とぶつけあっていた拳を引くと、間合いを取るためか飛びのいた。それから、右の手を開いたり握ったりした。感覚を確かめるためかもしれない。周囲の状況を見る限り、男は、通路の壁をぶちぬいてきたらしい。そのさい、壁を破壊したのはその右拳に違いなかった。拳に力を込めて殴るのが男の戦いかたのようなのだ。無論、ただの拳ではない。不思議な力、特別な力が込められた拳だ。その一撃は重く、黒き矛を握るセツナの両手が痺れるほどだった。
セツナは、間合いを広げはしない。シーラたちが目の前の男の攻撃範囲から逃げ切るまで、この男から一瞬足りとも目を離すことなどできなかった。一瞬の隙が命取りになる。文字通り、シーラの命に関わる問題なのだ。セツナは、気を引き締めながら、男の動向に注目していた。
男は、セツナより遥かに長身で体格もよく、全身が筋肉の鎧で覆われているような人物だ。拳を武器とするのもわからなくはないが、大剣を捨ててまで拳で戦おうとするのは、その特殊な能力のおかげだろう。召喚武装の能力などではないのは、彼がろくな防具を身に着けていないことからも窺える。特殊な能力。
レムと交戦したベノアガルドの諜者も、不思議な力を持っていたという話だった。“死神”の攻撃を素手で防いだといい、その際、金属同士がぶつかり合ったかのような現象が起きたというのだ。いままさに起きたことだ。黒き矛と男の拳が激突し、火花が散った。重い激突音は、いまも耳に残っている。まともに喰らえばただでは済まない。
男は、笑みを浮かべている。獰猛な笑み。狂暴な怪物を目の当たりにしているような感覚は、錯覚などではあるまい。皇魔よりもよほど手強い相手だということは、その立ち姿だけで判断できる。
「そのわりには嬉しそうだな」
「ああ、嬉しいねえ。戦いが好きで好きでたまらねえのさ」
男は、手の確認を終えると、拳を軽く構えた。隙だらけの構えなのだが、かといってその隙を突こうとすれば手痛い反撃を食らうこと間違いない。隙は、わざと作っているのだ。敵の攻撃を誘うための隙。つまり、男はその隙への攻撃に対応できるほどの技量があると自負している、ということだ。
「けどよお、一方的に蹂躙するのは、戦いなんて呼べねえよな?」
男の言葉は、自嘲にも、セツナへの皮肉にも聞こえた。セツナの戦いの歴史といえば、黒き矛による一方的な蹂躙ばかりだ。もちろん、中には死闘もある。絶大な力を秘めた黒き矛を手にしていても窮地に陥ることはあるし、苦戦したことだってある。しかし、全体を通してみれば、一方的な、虐殺とさえいえるような戦いのほうが多い。だから、セツナは彼の言葉を肯定した。
「……ああ」
「だからいつも力を抑えてなきゃんねえ。力を抑えて、抑えて、抑えて、それでも雑魚には付き合いきれねえんだ」
「そうかい」
今度は、肯定しなかった。
どれだけ敵が弱くとも、どれだけ敵が脆くとも、セツナは黒き矛の力を抑えて戦うことはしない。もちろん、全力を出しきることこそ少ないが、それは、自身への負担を軽くするためであり、消耗を抑えるための処置に過ぎない。常に全力で戦えるというのなら、きっとそうするだろう。そうしなければならないと想っている。
力を抜けば、手を抜けば、その害は味方に及ぶ。
敵にとどめを刺さなかったため、味方に多大な被害をもたらしたことがセツナのそういった考えに繋がっている。敵が完全に戦意喪失したのならばまだしも、そうでないのなら、力を抑える道理はない。
男とは立場も戦う理由も違うのだから、意見の相違もまた、必然ではあるのだろうが。
「けど、あんたなら、力を抑える必要はなさそうだ。許可は……まあ、あとで取りゃあいい」
男は、そういうと、構えを変えた。隙だらけの構えから隙の一切見いだせない構えへと変貌する。変貌。まさに変貌といってよかった。怪物がその正体を表したような恐ろしさがある。両拳が光を帯びた。右手だけではないところに彼の本気が窺える。
セツナは、半身になって構えたが、意識を前方だけに集中させるわけにはいかなくなってしまった。後方に気配が出現したからだ。
「良くないな」
声は、闘技場で聞いて覚えている。弓使いだ。
「ああ? なんだよ、おまえまで来たのかよ」
「目的を忘れるな。ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコート。我々の目的は――」
「シーラ姫の殺害、だろ。わかってるっての」
光拳の男は、あきれたように告げて弓使いの言葉を遮ると、セツナを見据えてきた。やはり、笑っている。
(ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコート……か)
胸中で反芻したのは、名を覚えるためだ。ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコート。長たらしい名前だが、これまでセツナが得てきた知識によれば、ラナコート家のバイルの孫にして騎士ベインという意味になる。ベルは孫、ザンは騎士という意味の古代語だったはずだからだ。つまり、彼は間違いなくベノアガルドの騎士ということであり、彼と対等な口調で話す弓使いも、彼らを従える剣使いも騎士に違いなかった。
「けどよお、こいつが邪魔するんだよなあ。しかも、鬱陶しいことに強いのなんの。正面からぶつかり合って排除してからじゃないと、シーラ姫を殺すだなんてのは、不可能だ」
「言い訳か」
「へっ……よくわかってるじゃねえか」
「まったく、困ったものだ」
「そういいながら、てめえも興味津々って顔じゃねえか」
ベインの嬉しそうな物言いに、セツナは背後を一瞥した。魔晶灯に照らされた通路に弓使いの男の姿があった。秀麗な顔立ちは、ベインとは真逆といっていいのかもしれない。距離を詰めてこないのは、彼が遠距離攻撃を得意とするからにほかならない。こちらが彼との距離を詰めるまでに一発二発は覚悟しなければなるまい。それだけの間合い。
対して、ベインとの間合いは、一足飛びの距離でしかない。一飛で到達する距離。互いの一撃が届く間隔であり、いつ攻撃されても対応できるよう、常に意識を集中しておく必要があった。それは、騎士たちとの戦いを始めてから変わっていないのだが。
一瞬でも意識の集中が途切れたら、それで終わりだ。
「そうだな……団長閣下が興味を持たれるほどの力、確かめたいとは想う」
「だろ?」
「まあいい。シーラ姫には、あのひとが当たってくれている。我々が、彼をここで食い止めておくというのも、悪い手ではない」
「ほらな」
「なにがだ」
「なにもかも、シドに任せときゃいいのさ」
「……まったく」
(シド……あの男か)
セツナは、ふたりの会話から、剣使いの顔を思い浮かべた。ただひとり、常に冷徹な表情をしていた男。巧みな剣の使い手であり、凄まじい速度で黒き矛に追随してきたことを覚えている。全力を出し切れば倒すことも不可能ではなかったかもしれないが、あの状況下では、すべての力を出しきることなどできるわけもなかった。力を使いきれば、倒しきれなかった場合、対処できなくなる。自分はともかく、シーラを守るのが、いま、セツナのやるべきことなのだ。敵を倒すことなどどうでもいい。そして、ベノアガルドの騎士たちを倒すことになんの意味もないのだ。ただ、ベノアガルドを敵に回すだけであり、現状、ベノアガルドとガンディアの関係を悪化させる必要はない。ベノアガルドは、ガンディアに諜者を送り込んできてはいるが、そんなことはどの国だってやっていることだ。ガンディアだって、周辺諸国に諜者をばら撒いているし、それらがもたらす情報によって戦略を立てている。この戦国乱世においては当然のことであり、その程度のことで一々敵愾心を抱いたりはしないものだ。
しかし、セツナほどの立場の人間がベノアガルドの騎士を殺害したとあらば、話は変わる。ベノアガルドはガンディアへの敵意を露わにするだろうし、両国の関係が一気に最悪の状態になりかねない。つまり、殺すことはできないのだ。だからといって下手に加減をすれば、こちらがやられる。向こうとしても、セツナを殺すつもりはないようではあるが。
彼らが殺そうとしているのは、シーラだ。シーラだけが狙われている。ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコートと呼ばれた男と弓使いの男は、足止め。黒き矛のセツナという厄介な敵を押さえておくためだけの駒。シドという名の騎士が、シーラを追っている。
(俺の目的は、シーラを守ること)
セツナは、胸中で自分の目的を確認すると、矛を握る手に力を込めた。足が痛む。空間転移のために裂いたからだ。が、問題はない。戦闘を続けるのならば、この傷が文字通り足を引っ張ることになるが、この場に留まることに意味がないということが判明した以上、この程度の痛み、どうとでもなった。
セツナは、背後を一瞥した。弓使いは、弓を構えている。鏃に光が灯る。彼の弓が召喚武装ではないのは、その簡素な構造からも明らかだ。召喚武装とは、どれほど弱いものであっても複雑な装飾が施されているものなのだ。つまり、矢が光っているのは、彼の能力ということだ。ベノアガルドの騎士は、どうやら不思議な能力を持っているらしい。
「余所見してんじゃねえ!」
進行方向で殺気が膨れ上がったかと思うと、熱量を帯びた圧力が、一瞬にしてセツナの眼前に迫っていた。振り向いたときには、ベインの拳が頭を打ち抜く角度にある。が、無意識に反応した黒き矛がベインのがら空きの腹に石突きを埋め込んでおり、彼の光を帯びた拳がセツナの頭部を破壊することはなかった。瞬間、セツナは左に流れる。光芒が視界を貫いたかと思うと、ベインの髪が焼けたにおいがした。弓使いの矢だ。
「ロウファてめえ、俺ごとか!」
「もののついでだ」
「てめえふざけてんじゃ――」
ベインの怒声が聞こえなくなったのは、セツナが空間転移を発動させたからだ。空間転移は、黒き矛の能力のひとつだ。媒介として血を必要とするが、その血は自分の血でも良かった。セツナは、矛を旋回させて右太ももを浅く裂いたのだ。出血の瞬間、血の中に薄暗い通路を見た。直後、空間が歪み、世界から隔絶されるような感覚があった。そして、再び世界に舞い戻るような錯覚。いや、それを錯覚と言い切れるのかどうかはわかったものではないが。いずれにせよ、空間転移は成功し、セツナはベインとロウファなる騎士を振り切ることに成功したのだ。
そして、暗闇の中に放り出された。
真っ暗闇の中、それでも空間の広がりを正確に把握できるのは、黒き矛の補助による超感覚のおかげといっていい。研ぎ澄まされた視覚、聴覚、嗅覚、触覚が、地下通路の広大で複雑な作りを認識させる。足音が聞こえたかと思うと、光が近づいてくるのが見えた。
「気をつけろ、だれかいる」
「なんてこった……」
警戒を呼びかけたのはシーラだ。彼女は、処刑会場を襲撃するときからハートオブビーストを解き放っている。彼女もまた、召喚武装による超感覚のおかげでこちらを認識することができたようだ。しかし、不完全な認識は、警戒を呼びかけるに留まったようだ。シーラの呼びかけによって、さっきまで全力疾走といってよかった足音が慎重なそれに変わる。
セツナは、その場に留まって待つのはやめて、彼らに近づくため、携行用魔晶灯の光が照らす方向に走った。距離は遠くはなかった。すぐに複数の魔晶灯の光が見えてくる。鉢合わせするまで時間はかからなかった。
光の中、飛び出してくる影がひとつ。
「だれだ!」
シーラだ。
ハートオブビーストを構え、警戒心全開でこちらを睨み、そして、愕然とする。
「……って、セツナ!?」
シーラが全力で驚く中、彼女の右肩の上で飛龍が長い首を持ち上げるのが見えた。彼は彼で緑色の美しい光を発しており、シーラの視界を確保するのに務めているようにも思えた。実際はなにを考えて光っているのかは不明だが。
「おお、主よ、無事じゃったか」
「おいおい、旦那だったのかよ! 警戒して損したぜ」
エスク=ソーマと彼の部下たちがゆっくりと近づいてくる。狭い地下空間。声や足音が幾重にも反響して聞こえる。
「シーラ、ラグナ、エスク……無事だったか」
セツナは、心底ほっとした。が、同時に心配しすぎだったのではないか、とも思ったりした。先行していたベインはともかく、ロウファはようやくのことであの場に追いついたのだ。ロウファと同様に闘技場に残っていたはずのシドが、セツナよりも先に地下通路に辿り着けるとは思えない。そもそも、ウィンドウ一族によって秘匿とされた地下通路の出入り口を知っているとも考えにくい。
そう想い、シーラたちの無事な姿をもう一度確認しようとしたときだ。
「それはそうだろう」
声は、シーラたちが進んできた方向から聞こえた。セツナが彼の気配を察知したのは、声を聞いた直後のことだった。
「まだ手を出してはいないのだ。無事に決まっている」
傭兵たちの魔晶灯に照らしだされたのは、ベインたちがシドと呼んでいた騎士だった。