第九百七十四話 烙印(七)
「俺たちの目的は姫さん、あなたの死だ」
大剣使いの男が、進路を塞いでいた。仁王立ちに立ち尽くし、こちらを見据えている。武器を手にしていないどころか、防具もまともに身に着けているふうには見えない。処刑人用の白衣の下にがっちり着込んでいる可能性も少なくはないが、袖から覗く手には手甲を身に着けている様子はなかった。それでも白衣が膨張気味なのは、男の体が筋肉の塊だからなのかもしれない。
エスクの身の丈を優に超える巨躯であり、その全身が筋肉の鎧に覆われているのではないかと思われるような男。まなざしは鋭く、獲物を捉えた捕食者のようだった。しかし、彼がどうやって横壁をぶち抜いたのかはわからない。武器を手にしていないということは、召喚武装の補助を得ていないということでもある。いや、いかに召喚武装の補助を得ていたところで、素手で石壁を破壊するのは不可能に近い。
まず、手が砕けるからだ。召喚武装の補助を得たところで、肉体の強度そのものが高くなるわけではないのだ。
「あなたさえ殺せれば、それでいい。それだけだ。セツナとやりあえないのは、残念至極だが、目的を果たすのが先決」
シーラは、息を呑んだ。気圧されている。圧倒的な質量と重圧に負けている。槍を強く握るも、それで状況が改善されるわけではない。相手が召喚武装を手にしていないからといって油断はできない。見えないところに装備している可能性もそうだが、純粋に、凄まじい膂力の持ち主であることは、ひと目でわかるからだ。
「救いを」
男が地を蹴った。一瞬にして間合いがなくなる。男が振り下ろしてきたのは拳。右の拳だ。拳そのものが光っているように見えた。
「救い……か」
シーラは、瞬時にハートオブビーストを旋回させ、石突きを男の拳に叩きつけ、軌道を逸らした。力加減を間違えたのでは思うほどに力を込めた一撃だった。無意識に力を込めすぎたのだが、それでよかったのは、相手の反応を見る限り明白だった。軌道を曲げられた拳は、石床に激突し、破壊音を響かせた。床に大きな穴が開き、破片がシーラの外套を裂いた。男が拳を床にめり込ませたまま、感心するようにいってくる。
「へえ、やるじゃねえか」
「これでも、獣姫なんて呼ばれてたんだ。これくらい――」
「これくらい?」
足に衝撃があり、激痛があった。視界がめまぐるしく流転する。足を払われた。どうやって? 疑問を気にしている場合ではない。転倒する最中、素早い身動きで立ち上がろうとする男が見えた。
「なんだって?」
男は、右の拳を振りかぶっている。拳に光が灯るのが見えた。召喚武装の能力のようにも思えるが、そうでもなさそうにも見える。どちらにせよ、一撃必殺の威力があることは、壁や床を苦もなく破壊したことでわかりきっている。シーラは床に体をたたきつけられて息を止めたが、すぐさまその場から移動するため体を転がした。男が拳を振りかぶったまま追ってくるのがわかる。
「あんな一撃を受け止めただけで、互角に戦えるとでも思ってんのか?」
「シーラ様!」
「ここは俺たちに任せて!」
叫んだのは、名前も知らぬ傭兵たちだ。シーラと男の間に割って入り、つぎの瞬間、男のケリで吹き飛ばされた。が、その隙にシーラは立ち上がることができたし、男との距離を取ることができている。
「邪魔すんなって。俺たちゃ、シーラ姫さえ殺せりゃそれでいいんだ。それだけが目的だ。あんたら雑魚に用はねえ」
男は、傭兵たちを蹴り飛ばした態勢のまま、傲然と言い放ってきた。確かに彼は言葉通りに行動しているようだった。見ると、壁や床に叩きつけられた傭兵たちに目立った外傷はない。軽く蹴り飛ばされただけのように見える。すぐにでも立ち直れるだろう。が、
「雑魚だって?」
「聞き捨てなんねえ!」
男の発言が、荒くれ者揃いのシドニアの傭兵たちに火を点けたらしく、男たちがつぎつぎとなにかしらの得物を手に、騎士に向かっていく。
「雑魚は雑魚だろ。事実を指摘されて怒ってんじゃねえっての」
騎士はあきれたように告げた。そして、殺到する傭兵たちの猛攻を軽々と処理し、傭兵たちを瞬く間に蹴り倒していった。シドニア傭兵団のだれひとりとして、騎士の男に触れることさえできなかった。
「安心しな、あんたらを殺す道理はねえ。あんたらを裁くのは、アバード政府だ。俺たちは、王妃殿下の望みを叶えるだけ。王妃殿下の魂を救うだけ」
騎士の言葉が、シーラの意識に突き刺さる。
「魂を……」
「あなたが死ねば、救われるんだよ。あなたも、王妃殿下もな」
「俺が死ねば……」
(救われる……?)
シーラは、騎士の言葉を胸中で反芻した。繰り返しつぶやいて、茫然とする。それは、彼女の望みでもあった。彼女の願いでもあった。彼女の目的でもあった。死ぬこと。殺されること。そのためだけに、彼女は祖国に潜入し、父親たる国王に会おうとしたのだ。
自分の命を差し出して、すべてを終わらせるために。
この苦しみから解放されるために。
この悲しみから解き放たれるために。
「姫さんさあ、こんな脳が筋肉ができてるような野郎のいうことなんざ、聞く必要はないぜ」
不意に口を挟んできたのは、エスクだった。エスク=ソーマは棍棒でみずからの肩を叩きながら、どうでもよさげな態度でシーラの前に出てきた。彼の傍らにはレミルとドーリンがいる。三人とも、騎士の発言に怒っているというわけでもなさそうだが。
「エスク……」
「旦那もいってたっしょ、生きろって」
はっとする。
「生きるんですよ、あんたは」
「生きる……」
「そうじゃぞ。主の命令には従わんとのう」
「命令……」
確かに、セツナはいった。
『シーラ、生きろよ』
生きる。
なんて難しいことをいうのだろう。
なんて大変なことをああも軽々しくいってくるのだろう。
死ぬつもりしかなかった自分に、生きろ、ということほど酷なことはないのではないか。
もちろん、生きなければならない理由もある。あるにはあるが、それがわかれば、死ぬことも考えている。母の理由が納得できるものならば、シーラは喜んで死ぬつもりだった。だからこそ、それまでは生きなければならない。
「生きる? これから死ぬ人間になにいってんだ、てめえ」
「あんた、ベノアガルドの騎士様なんだっけ? 騎士様なんていうわりには、口が悪いねえ」
「品行方正が取り柄の騎士なんざあ掃いて捨てるほどいるが、俺ほどの力を持った騎士なんてひとりとして、いねえ!」
騎士は、光る拳を振りかぶり、エスクに殺到した。エスクは咄嗟に棍棒を構えたが、彼と騎士の間に波紋が生じ、つぎの瞬間、衝撃波が来た。閃光があり、金属の激突音が鳴り響く。外套がはためいていた。
「ぬおっ!?」
「なにやってんだ! さっさと逃げろよ!」
叫び声を聞かずとも、わかる。セツナだった。騎士の拳を受け止めたのは黒き矛であり、つまり、彼は、この場に空間転移してきたのだ。
「旦那!?」
「セツナ!?」
シーラは驚愕しながら、同時に一瞬にして安堵を覚える自分に気づいた。セツナが目の前に現れたというだけなのに、それだけなのに、これほどまでに心強く感じるのはなぜだろう。
「こいつらは尋常じゃねえ! 俺が抑えてる間に逃げろ! 早く!」
セツナの叫びは、悲鳴に似ていた。
「だ、旦那! わかったぜ!」
「エスク、シーラを頼む!」
「おうよ!」
エスクはセツナの命令に威勢よく返答すると、シーラの腕を引っ張った。シーラは、エスクの顔を見た。エスクは進路を見ており、こちらを見てもいない。シーラはもう一度セツナを見た。騎士の拳を受け止めた態勢のまま、微動だにしない少年の背中は、頼もしいとしか言いようがないのだが。
「ま、まて、まだ――」
「俺たちゃさっさと逃げる! それだけだろ!」
「くっ……!」
エスクの怒号には、シーラも返す言葉もなかった。彼も必死なのだ。必死でこの場から逃げようとしている。そうしなければすぐにでも追いつかれるのだ。殺されるのはシーラだけだとしても、だ。いや、シーラが殺されれば、エスクたちもただでは済まないだろう。セツナがエスクたちを許さない。少なくとも、エスクはそう考えている。
「セツナを信じよ。わしの主ぞ」
「信じてる。信じてるさ」
それでも、シーラはセツナのことが心配で堪らなかった。彼は、あの場に転移するために自分の足を傷つけている。負傷は、短期戦ならば問題はない程度のものかもしれない。しかし、時間が経過すればするほど体に響いてくるものだ。
セツナの悲痛な叫びが耳をついて離れなかった。
尋常じゃない相手。
黒き矛のセツナがいうのだ。
シーラ如き、歯がたたないのは明白だった。セツナと一緒に戦っても、足手まといにしかならないのもわかっている。騎士の狙いは、シーラの命だ。シーラを殺せば、彼らの勝ちなのだ。そうなると自然、セツナはシーラを守りながら戦わざるを得なくなる。力を発揮できなくなるということだ。
エスクの判断が正しいのだ。
シーラは、胸中で納得しながら、エスクたちと走った。