第九百七十三話 烙印(六)
「ったく、なにがなんだか」
闘技場の通路を走り抜け、闘技場外郭部に辿り着いた頃、エスクがひとりつぶやいた。闘技場でなにが起きていたのかまったく理解できていないのだ。なぜ、シーラとセツナが処刑人の格好をした連中や警備兵、数千の騎士たちと交戦していたのか、あの一瞬で把握できるはずもない。
しかし、シーラはそのことには触れず、彼の横を走りながら告げた。
「こっちこそなにがなんだかだよ」
「なにがです?」
「ニーウェも死ねとかいってなかったか?」
横目に見ると、エスクの表情は凍りついていた。氷解するまでに要した時間は数秒。その間、シーラたちは走り続けている。闘技場外郭部一階。警備兵はあらかた片付けられている。おそらくもなにも、エスクたちの仕業だろう。彼らがどのような目的であの場にきたのかはわからない。しかし、彼らが警備兵を一掃してくれたおかげであの場を脱出できたのは間違いないし、この外郭部通路を問題なく通過できている。
「あーはは、あれは言葉の綾というか、物の弾みというか、なんというか。雇い主も殺す勢いだった、ということで」
「そうか。あとでセツナにいっておくからな」
シーラは、エスクに釘を差すように告げた。セツナの耳にも届いてはいただろうが、戦闘に集中している彼が、エスクの発言など覚えているとも思いがたい。
エスクはぎくりとし、それから真顔になった。真顔になって、こちらを見てくる。
「セツナ……さっきもいってましたけど、まさか、セツナって」
「そのまさかだよ」
シーラは、エスクの考えを肯定した。ベノアガルドの騎士たちに知れ渡ってしまった以上、もはや隠す必要はなくなってしまっていた。彼らは王宮と繋がりがあるのだ。ガンディアのセツナがアバード国内でシーラと行動をともにしているという情報は、すぐさま王宮に伝わり、王宮からアバード全体に知れ渡るに違いない。アバード国内だけでは済まないかもしれない。
いま隠したところで、遅かれ早かれ知れることだ。それなら、いますぐ伝えておいたほうが、話が早い。
「あいつはガンディアのセツナだ」
「ええっ!?」
「ガンディアのセツナ? 黒き矛のセツナですか?」
「竜殺しとか万魔不当とかいわれてる、あの?」
エスク、レミル、ドーリンが驚愕し、シーラの予想通りの反応を見せた。もちろん、驚いているのは三人だけではない。行動をともにしている傭兵たちの全員が驚きの声を上げていた。黒き矛のセツナの雷名を知らない傭兵などいるはずもなかった。黒き矛のセツナ。竜殺し、魔屠り、万魔不当のガンディアの英雄。その名はあまねく知れ渡り、大陸小国家群でもっとも有名な戦士のひとりといってもいいのではないか、というほどにまで名声は高まっている。
さらにいえば、ガンディアはアバードの隣国である。いまでこそ友好的な関係を結んでいるものの、ガンディアがザルワーンを下した直後は、つぎはアバードが攻め込まれるのではないかと噂され、だれもが黒き矛の到来に戦々恐々とした時期を送ったものである。シーラは、セツナと戦える日を待ち望んだりしたものの、多くの人間にとって、黒き矛のセツナとは恐怖の対象でしかなかった。
傭兵たちにとっては、どうだったのだろうか。
「ああ、あいつが正真正銘、黒き矛のセツナさ。見ただろ、あいつが黒き矛を呪文の詠唱無しで召喚したのを」
「あれが黒き矛……」
だれかが呆然とつぶやく。
傭兵たちも見たのだ。セツナが黒仮面を送還し、黒き矛を召喚した瞬間を目撃したのだ。黒き矛。カオスブリンガー。破壊的なまでに禍々しい漆黒の矛は、遠目に見ただけでもその異様さが理解できる。圧倒的な力を秘めていることがわかってしまう。恐れがあり、畏れを抱く。もっとも、そこまで感じるのは、シーラだからかもしれず、傭兵たちは、ただ黒き矛の出現に関してため息を漏らしただけかもしれないが。
シーラは、黒き矛のセツナと戦場をともにした記憶がある。獅子王宮の戦いとクルセルク戦争において、セツナと黒き矛に命を救われている。そのあざやかな戦いぶりに戦士として惚れたのは疑いようがない。
戦闘者としてのセツナは、限りなく純粋だ。
その純粋さがときに眩しく、ときに美しい。
「まさかまさか、ニーウェの旦那が黒き矛のセツナだったなんてな……さすがに驚いたぜ」
「おまえにもバレていなかったってことだな」
「わかるわけないじゃないっすか。ニーウェの旦那、黒き矛なんて召喚しなかったし、そもそも、ガンディアの英雄ともあろう方が、シーラ様と一緒にアバードに潜入しているだなんて思わないじゃないっすか」
「そうだな。そりゃあそうだ」
シーラは、エスクの驚きに満ちた反応に満足した。セツナの正体が微塵も露顕していなかったということにもほっとする。ニーウェ=ディアブラスなるものがいったいなにものなのか、怪しまれてはいただろうが、そこからセツナにたどり着くことはなかったということだ。それはつまり、シーラたちの行動がある意味では間違いではなかったということになる。新婚夫婦を装い、仮面の召喚武装を駆使したことは、なんの間違いでもなかった。
セツナの正体が知れたのは、シーラの不用意にすぎない。それについては、まともに判断ができなくなっていたから仕方がないと思うしかなかった。
その結果、烙印が焼き付けられたのだ。
罪と罰。
「わたくしたちには、そちらも驚きなんですが」
といってきたのは、レミルだ。彼女の目は、シーラに向けられている。
「シーナ様がシーラ様だったなんて……」
「生きておられた、ということですかな?」
レミルとドーリンがおずおずといってくると、エスクが少しばかり得意気な顔をした。
「ああ、そうだな、おまえらにゃあいってなかったもんな」
「その点は安心したよ、おまえはまだ信用できる」
シーラは、驚きの顔を見せる傭兵たちを見回しながら、エスクにいった。シーラの正体も、もはや隠す必要はなくなっていた。隠したところで、騎士団やアバード政府によって明らかにされるのだ。隠すだけ時間の無駄だし、正体を明らかにしていたほうが、傭兵たちを操作しやすそうでもあった。獣姫を慕う傭兵は多かったという話だ。
もっとも、エンドウィッジの戦いに参加せず、結果的に傭兵団長を見殺しにしたシーラに対し、傭兵団の残党がどんな気持ちを抱いているのかは、シーラにはわからないが。
「ははは、なにいってるんですか、俺ほど信用のおける相手なんて、このアバードのどこを探してもいませんぜ?」
エスク=ソーマは走りながらふんぞり返るという奇妙で不可解な態勢を取って見せたが、シーラは彼の言葉を聞いて、目を伏せた。
「……そうかもな」
否定は、できなかった。
このアバードにおいて、シーラがいま信頼できる人間など、どれほどいるのだろうか。
セツナは、別だ。彼はアバード人ではないし、信頼できるできないの次元にはいない。シーラは、セツナに全幅の信頼を寄せているのだ。彼がいなければ、彼女はいま、ここにはいることなどできなかった。
そちらのほうがよかった、ともいえるのかもしれないが、騎士の話を総合すれば、アバード国内に潜入したことそのものは間違いでもなんでもなかった。
ラーンハイルと一族郎党の処刑がシーラを炙り出すためだけの方便であり、処刑そのものが実行されることはなかったのだろう。シーラが現れなかったとしても、だ。しかし、炙り出すための方便だということは、たとえ一度失敗したとしても、それで諦めるということはないだろう。シーラがアバード国内に姿を現すまで、何度も続けるはずだ。方便が方便でなくなり、偽りの処刑が本当の処刑に変わるまで時間はかかるまい。
シーラ派に与した人間がつぎつぎと処刑されていったのは、想像に固くない。
王宮の暴走を止めるためにも、アバードに潜入し、この場にきたことは間違いではなかった。シーラを炙り出すことができたのだ。王宮がそのために暴走することはなくなるはずだ。
だが、同時に、シーラはすべてを失った気がした。
王家さえ、信頼できなくなってしまった。
王妃が彼女の死を望んでいる。
母に死を望まれている。
「あら?」
シーラは、エスクの反応は無視して、頭巾を取った。白髪を明らかにすると、傭兵たちも息を呑み、そして納得の顔をした。
「見ての通り、俺はシーラだ。ただの、シーラだ。王女でも獣姫でもなんでもねえ。ただのシーラさ」
「そういうわけだ」
なにがそういうわけなのかはわからないが、エスクはそんな風に部下たちにいった。
「なるほど」
それで納得するレミルもレミルだが。
シーラは傭兵たちが自分の白髪をじっと見ているのが妙に恥ずかしくなり、頭巾をかぶり直した。アバード王家の血筋の証明たる純白の頭髪は、やはり物珍しいのかもしれない。が、それにしたって凝視しすぎだといわざるをえない。
「ともかく、さっさとここを抜け出すぞ」
「ニーウェ……いや、セツナの旦那は放っておいていいんで?」
エスクに尋ねられて、シーラは一瞬、足を止めた。が、すぐに迷いを振り切ってかけ出す。
「……ああ。あいつは黒き矛のセツナだ。あの程度の状況、切り抜けられないわけがねえ」
すると、シーラは胸の辺りで奇妙な感触を覚えた。直後、シーラの服の胸の間からなにかが飛び出していった。間違いなくラグナだ。
「そうじゃな。我が主のことは心配無用じゃ」
緑柱玉のように美しく輝く外皮に覆われた小さな飛龍が、シーラたちの目の前を飛んで回ってみせた。相変わらず翼によって浮力を得ているわけではないような飛び方は、彼がドラゴンという生物であることの証明のようだった。つまりは、魔法のような力で空を飛んでいるのではないか。
彼が魔法染みた力を使うのは、最初に出遭ったときから判明している。圧倒的な再生力や攻撃力は、ドラゴンの名に相応しいものだった。そして、シーラを光の矢から守ってくれたのも、彼の力だ。感謝してもしきれなかった。
「どわっ」
エスクが尻餅をついたのは、眼前を飛び回るドラゴンの姿に驚き過ぎたからに違いない。
「なんじゃ?」
「そりゃ驚くだろ、普通」
「むう?」
「手乗りドラゴンが姿を見せるだけでも驚きなのにだな、流暢に共通語を話せば、だれだって腰を抜かすさ」
シーラは、ラグナに説明しながら、肩に止まるよう仕種で示した。ラグナは不服そうな顔をしながらも、シーラの周りを一飛して、右肩に降り立つ。
「おぬしらは平然としておったではないか」
ラグナがいったのは、彼が一度セツナに斃され、小飛龍として転生した直後のことだろう。確かに、すぐさま受け入れていた記憶がある。しかし、それはドラゴンの出現からそこに至るまで、緊張の連続だったからでもある。ドラゴンとの戦いは、熾烈を極めた。
「あのときは色々ありすぎて、感覚が麻痺してたんだよ」
「そういうものかのう」
「そういうもんだ」
シーラが肯定すると、エスクが立ち直りながら叫んできた。
「って、なに平然としてんです!?」
「それで、なんなんですか、それは?」
「か、かわいい」
エスク、ドーリン、レミルの反応を見比べると、一番驚いているのはエスクだった。ドーリンは驚きながらも受け入れ始めており、レミルは愛嬌たっぷりのラグナの姿を一瞬で気に入ってしまったようだ。
「話せば長くなるし、詳しく説明している暇はない。こいつはセツナの下僕二号だ」
「下僕二号のラグナシア=エルム・ドラースじゃ。以後、よしなにな」
「俺たちはラグナッて呼んでる」
シーラが適当に説明する傍らで、ラグナはおそらく尊大な態度を取っているに違いなかった。下僕二号などという不名誉な名称さえも、彼にしてみれば誇らしい、らしい。シーラはそんなラグナを愛おしく思わないではなかったが、いまは彼を愛でている場合ではない。
シーラは駆け出そうとした。
「セツナの旦那の下僕……」
「弐号……」
「ラグナ……」
「なにぼけーっとしてるんだよ、さっさと行くぞ。騎士団に追いつかれるぞ」
シーラがエスクたちを叱咤して進路に向き直ったときだった。
轟音とともに横壁が粉砕され、シーラは息を呑んだ。岩片が飛び散り、粉塵が立ち込める中、巨躯の影が浮かび上がる。影は輪郭を帯び、明確な形となってシーラの目に映る。大剣こそ手にしていないものの、大剣を使っていた男なのはその顔つきで明白だ。
「見ィつけた」
獲物を見つけた猛獣の目は、強く光っていた。