第九百七十一話 烙印(四)
「王妃殿下が……?」
声が掠れたのは、衝撃があまりに大きすぎたからだ。想像していたものとはまったく異なる回答。シーラは頭の中が真っ白になるのを感じた。手が震える。胸が苦しくなる。なにも考えられなくなる。いや、考えたくないだけだ。受け入れたくないだけだ。男の言葉を聞き入れ、理解し、認めたくなどないだけだ。だから、思考を放棄しようとしている。
目の前の現実を拒絶しようとしている。
だが、どうしたところで、現実を否定することなどできない。
剣の男が紡いだ言葉は、シーラの鼓膜に刻まれ、脳髄に焼き付けられている。
「母上が、俺を殺せと命じたのか……?」
鼓動が聞こえた。
襲撃騒ぎが起きた処刑場とは思えないほどの静寂の中、シーラは、自身の心音が高鳴るのを聞いていた。脈動が早くなっていくのを止められない。止める方法などないのかもしれない。伝えられた真相の衝撃を乗り越えるのは、簡単なことではない。
シーラは、母を愛していたし、母もまた、シーラを愛していると信じていた。セリスは権力闘争や派閥争いとは無縁の存在だったはずであり、彼女がシーラ派やその頂に担ぎあげられたシーラに対してなんらかの行動を起こすとは想い難かった。
シーラは、自身やシーラ派の弾圧に家族が関与しているなど、想像してもいなかったのだ。想像できるはずもなかった。父リセルグ・レイ=アバードは、必ずしも聡明とはいえないが、だからこそ政争を起こすような人物ではなかったし、母セリスは、家族愛に溢れた人物であり、実の娘であるシーラの殺害命令を下すような人柄ではなかった。今年九歳になるセイルはいわずもがなだ。
たった四人の家族だった。
もちろん、王家の血を引く、いわゆる王族と呼ばれる人間は、四人だけではない。リセルグの実弟イセルドを始め、アバード王家に連なるものは多い。しかし、シーラにとって家族といえるのは、リセルグ、セリス、セイルの三人だけだった。
そんな家族のひとりに裏切られた。
想いを踏みにじられた。
いや、すべてを否定された。
「どうして……?」
シーラは、自分の声が震えていることに気づいたが、どうすることもできなかった。だが、問わなければならない。知らなければならない。知りたくもないことだ。信じたくもないことだ。嘘であって欲しい。シーラの心を揺さぶるための偽りであって欲しいと願うのだが、剣の男の表情を見る限り、それは期待できそうになかった。だから、知る必要がある。
どうして、セリスがシーラを殺したがっているのか。
なぜ、母に死を望まれなければならないのか。
「さて。我々は他国人だ。そこまで知らされてはいないし、知る必要もない」
「他国人……ベノアガルドの騎士か」
セツナが、シーラの視界を塞ぐように前に出ると、闇人形を出現させた。セツナのその一言のおかげで、シーラもその考えに思い至ることができている。それほどまでに思考速度が低下していた。なにも考えたくない。考えれば考えるほど深みにはまっていくのがわかるから、思考停止したいのだ。しかし、現状がそれを許さない。思考停止に陥れば、その瞬間、殺されるだけだ。
死。
死ぬのは、いい。
死んでそれですべてが終わるのだ。
この苦しみから解放される。
この終わりの見えない悲しみから解放されるのなら、死ぬのもいい。
元より死ぬつもりだった。
死んで、すべてを終わらせるつもりだったのだ。
リセルグに逢い、シーラ派への弾圧をやめるよう直訴し、その代わりに自分の命を差し出すつもりでいた。
シーラは、自分が生きているから、自分が生きていることを知っているから、王宮によるシーラ派への攻撃が止まらないのだと思ったのだ。
王宮は、処刑したシーラが偽物だということを知っていたはずだ。それでもレナをシーラとして処刑したのは、そうすることでシーラ派の勢いを弱められると思ったからだろうし、エンドウィッジの戦いによって派閥の重要人物を失ったシーラ派の息の根を止めるには、それで十分だと判断したからだろう。それで、アバード国内からシーラ派は一掃され、セイル派で統一されると踏んだのだ。
実際、そうなるはずだった。
だが、王宮は、シーラ派への弾圧をやめなかった。ラーンハイル・ラーズ=タウラルとその一族郎党の公開処刑がそれだ。シーラは、この公開処刑に端を発するであろうシーラ派への弾圧を止めるためには、自分の命を差し出すしかないと判断した。ラーンハイルやレナたちの犠牲によってつなぎ留めた命だが、これ以上の犠牲者を出さないようにするためならば、レナたちだって笑って許してくれるはずだ。そう、思った。
だが、それも無駄に終わった。
ラーンハイルとその一族郎党の公開処刑がシーラを炙りだすためだけのものだと判明したのだ。シーラは、まんまと引っかかったということだ。
そして、死ねなくなった。
死ぬわけには、いかなくなった。
少なくとも、セリスがシーラを殺そうとしている理由を聞き、納得できるまでは、死ねない。
「ご名答」
剣の男は、否定しなかった。その隣で、大剣の男がにやりとした。いつの間にか、弓の男とともに剣の男の後ろに並んでいる。それぞれ、武器を構えてはいない。が、油断はできない。彼らが召喚武装の使い手なのは、一連の戦いで明らかだ。一瞬の油断が死を招く。
「へえ、よく知ってるじゃねえか」
「アバードにベノアガルドが関与しているのは有名だろ」
「なるほど。他国人となればベノアガルド以外には考えられない、と」
「まさか認めるとは思わなかったがな」
「認めるもなにも、隠す必要がない。我々は、アバードから正式に要請を受け、ここに至ったのだからな」
剣の男は、笑いもせずに告げた。彼らの肌の白さが北方人由来のものだということが明らかになったのだが、だからどうということはない。彼らが北方人である可能性については考えてはいたのだ。だが、彼らが北方人であれ、南方人であれ、そこに意味などはない。ベノアガルドの騎士であれなんであれ、いまのシーラにとっては、ただの敵でしかないのだ。命を狙う敵でしかない。
「戦いらしい戦いもないまま時間ばかり過ぎてよお、腕がなまっちまうんじゃないかとヒヤヒヤしていたところだぜ?」
「そのままなまって使い物にならなくなればいい」
「やなこった」
「ふむ……」
「ふむじゃねえっての」
弓の男と大剣の男が睨み合ってそっぽを向いた。ふたりの間柄が険悪そうなのは当初からわかっていたことではあるが、だからといって、それが突破口になるかといえば、そうは思えなかった。大剣使いと弓使いの連携は、セツナを追い込むほどに強烈だ。
仲の良し悪しと戦闘の練度はまったく別のものだ。
「そのベノアガルドの騎士様が、どうしてまたアバードになんて関わってんだよ」
「要請されたからだよ。アバード政府から正式に要請され、派兵された援軍が我々だ。そんな我々を頼ったのが、王妃殿下ということだ」
剣の男が、冷然と告げてくる。
「そして、これは救いでもある」
「救い……救いか。それがあんたらベノアガルドのやり口か」
セツナの声音に怒気が含まれていた。なにに対して怒っているのか、シーラにはわからない。シーラはセツナの背後にいて、彼の表情を窺い知ることはできないし、心情を理解するなど以ての外だ。
「やり口?」
「嫌な響きだが、まあ、的を射てるんじゃねえか」
「射抜くぞ」
「おお、こええ」
「……君のような愚者に我らの高潔な意思を理解してもらおうなどとは思わんよ」
「ま、理解できねえだろうさ」
「理解したくもねえっての」
セツナが一蹴するように言い返すと、大剣使いが口の端を歪めた。三人の中でその男だけ、妙に楽しそうにしていた。
「はっ、いい意気だ。けどな」
「君など、どうでもいいのだ。我々の目的は、シーラ姫を殺すことだけだ」
「させねえ」
四者が同時に動いたのを、シーラは呆然と見ていた。剣の男がシーラに向かってきたかと思うと、その進路をセツナが塞ぎ、斬撃を右腕で受け止めた。腕が切り飛ばされるかと思ったが、そんなことはなく、セツナは剣士を突き飛ばして距離を確保した。直後、大剣使いがシーラの眼前に現れる。獰猛な笑み。闇が視界を覆う。闇人形だ。後方に蹴り飛ばされた。視界が激しく変転する。遠い天井が見えた。光が瞬く。中空に弓使いがいたのだ。光の矢が降ってくる。だが、光の奔流は、またしてもラグナの生み出した防壁によって弾かれ、シーラは無傷のまま地面に転倒した。すぐさま立ち上がろうとするも、体が思うように動かない。上体を起こすのでやっとだった。すると、闇人形が砕かれるのが見えた。振り抜いた大剣をそのままに、大剣使いがこちらを一瞥した。獲物を捕らえた猛獣の目。
動けない。
(母上……)
脳裏に過るのは、セリスとの日々だ。セリス・レア=アバード。アバードの王妃であるセリスは、シーラの実の母親であり、シーラの成長を見守り続けてくれていた人物だった。シーラを男として育てることに苦悩していたようではあったものの、シーラが彼女の懊悩を知ったのは、シーラがもっと成長してからのことであり、シーラが王子である必要性がなくなってからのことだった。
『これからは生まれたままのあなたでいいのよ』
セリスの穏やかで慈しみに満ちた言葉は、シーラが女として生まれ変わるための魔法の言葉だった。そう、シーラは生まれ変わったのだ。生まれ変わらなければならなかった。
王子から、王女へ。
男から、女へ、
リセルグとセリスの間に生まれた第二子が男児であったことが、セイルが生まれたことが原因だった。だが、それは喜ぶべきこととしか言いようがない。王女であるはずの人間が王子として振る舞い、将来、そのまま王位を継承するとすれば、それは歪なものでしかないからだ。
王女は王女として、王子は王子として、あるがままに振る舞うべきだ。
セリスの言葉には、そのような思いが込められていたに違いない。
そして、その言葉に込められた想いには、愛情ばかりが輝いていた。
愛されている。
シーラはいつだって実感していた。
父にも母にも弟にも、目一杯愛されていた。
だから、ずっと家に帰りたかったのだ。
温かい家族が待つ王宮に、一刻も早く戻りたかった。
「シーラ!」
激しく揺さぶられて、シーラははっと目を開いた。閉じていたつもりもないし、閉じていたわけでもないのだが、なぜか、そのような感覚があった。視界に光が戻ると、シーラは自分が生きていることを認識した。そして、大剣使いによって殺されかけていたことを思い出す。見ると、大剣使いは闇人形に囲まれていた。大剣使いだけではない。剣の男も、弓の男も、闇人形を相手にしていた。
「逃げるぞ」
「逃げる?」
「奴らはシーラを殺すだけが目的なんだ。だから、逃げる」
セツナに手を引かれて、やっとの思いで立ち上がる。立ち上がりさえすれば、移動することは難しくはなかった。セツナとともに駆け出す。脇目も振らず、一直線に闘技場内部の通路へと向かう。
「ここは逃げの一手か。悪くない」
「が、この数を逃れられるかねえ」
大剣使いの男の声に、シーラははっとした。気になっていたことがあった。公開処刑を見るために闘技場内にいたはずの数千人の観衆が、シーラたちの襲撃や騎士たちとの戦いに対し、なんの反応も示さなかったことは、不可解極まりなかった。
嫌な予感がした。
「数?」
シーラは、視線を巡らせた。処刑場の正面にいる集団が視界に入ってくる。
「セツナ、見ろ」
「これは……」
「観衆も全部騎士団だったってわけか」
シーラの視界には、移動を開始した鎧兜の集団が映っていた。一般人などではないことは、その格好から明らかだ。鎧兜を着こみ、手にはそれぞれ得物を持っている。剣、盾、手槍、手斧、棍棒――多種多様な武器の数々。三人のように召喚武装ではないと思いたいところだが、実際に使っているところをみるまでは判断できない。しかし、長射程の召喚武装がないことは、明らかだ。シーラたちは、いまのところ、騎士団兵士の攻撃を受けていない。
攻撃命令がくだされていないからだ、という嫌な考えを頭の中から消しながら、視線を前に戻す。前方、闘技場内部と外郭部を繋ぐ通路は、観客席だけでなく戦闘場にもある。出場者のための通路である。その通路から外郭部に向かい、そこから地下通路を目指すのだ。
しかし、シーラたちの逃走経路は、アバード軍の兵士たちによって塞がれてしまっていた。観客席から戦闘場に至る際に追いかけてきていた連中だ。シーラたちと騎士団の戦闘には立ち入れないと判断し、逃走経路を封鎖することに注力したらしい。たった十数人。物の数ではない。
「いったはずだ。これは、シーラ姫を炙り出すためだけの策謀だとな。一般人を巻き込むわけにはいくまい」
「おやさしいこったな!」
「騎士団の目的は、救済。無益な殺生など、許さんよ」
「シーラを殺すことが無益じゃないっていうのか!」
セツナが足を止めて、後方を振り返った。シーラは、彼の声に胸を打たれながら、彼に倣って後ろに目を向けた。
ベノアガルドの騎士三人は、多数の闇人形を打ち払い、こちらに迫ってきていた。
「そうだ」
剣の男の言葉には、微塵の迷いもない。