第九百六十八話 烙印(一)
闘技場は、巨大な半球形の空間だ。
球体を半分に割り、その上半分の内側に作られたようなものだ、という表現がよく似合っていた。
試合が行われるのは、中心から広がる円形の空間であり、その外周に試合会場と観客席を隔てる壁がある。観客席は壁の上にあり、無数の観客席が階段上に並んでいる。観客席は区画分けされており、区画と区画の間に闘技場と外郭部を繋ぐ通路が走っている。シーラたちが身を潜めていたのは、その通路のひとつであり、闘技場外郭部一階東部区画と繋がる通路である。当然、警備兵がいたものの、セツナの黒仮面と闇人形によって無力化され、事なきを得ている。
もちろん、警備兵を殺してはいない。エスクたちにもいったことだが、理不尽な処刑を止めるためにひとを殺すのは、本末転倒としか言い様がないのだ。
エスクたちには悪いことをした、と思わないではない。
巻き込んでしまったこともそうだが、シーラたちの囮に使ったこともそうだ。絡んできたのはエスクたちシドニア傭兵団のほうであり、シーラたちは被害者といってもいいのだが、こうまで使い倒せば、むしろ加害者なのではないかと、考えなくもなかった。とはいえ、彼らが捕まったとして、即刻処刑されるようなことはないだろう。背後関係を調べ上げる前に殺されることなどありうることではない。それにエスクは王宮が欲してやまない情報を持っている。彼は頭の回る男だ。その情報を交渉材料に使い、なんとしてでも生き抜いてくれるはずだ。
その間にシーラがリセルグと掛け合えば、どうにでもなる。
しかし、リセルグに逢うにはどうすればいいのか、それが問題だ。直訴でなければならないのだ。直接逢って、話し合わなければならない。でなければ、なんの意味もない。ただ捕まっても、リセルグに逢えるかどうかなどわからないのだ。リセルグと話し合う場が設けられるのなら、喜んで捕まろう。だが、それが確実でないのならば、捕まるわけにはいかない。なんとしてでもリセルグに逢い、シーラ派への弾圧を止めさせるのだ。
そのためにはまず、目の前の処刑を止めることだ。
この処刑が台無しになれば、王宮はますますシーラ派の弾圧を強めるかもしれない。いや、そうなるだろう。しかし、だからといって、ラーンハイル以下の命を見捨てることなど、シーラにはできなかった。
「――よって、ラーンハイル・ラーズ=タウラルとその一族郎党は、この場にて斬刑に処するのである!」
処刑人の声が朗々と響く中、セツナが立ち上がった。
「行くぞ!」
「ああ!」
シーラも立ち上がりながら、セツナの手を離した。セツナがこちらを一瞥した。うなずく。彼は仮面を被ると同時に駈け出した。シーラは、ハートオブビーストを包んでいた布袋を脱がしながら、彼の後を追った。通路を駆け抜ける中、感覚が肥大するのを認める。ハートオブビーストの柄を握った影響だった。五感の強化、身体能力の向上――召喚武装の副作用は、シーラに戦闘者としての自分を再認識させる。
(生粋の戦闘者なんだよ、俺は!)
だから、うじうじ悩んでいる自分が嫌いだった。
だから、懊悩の中で身悶えしている自分を壊したかった。
だから、絶望の淵でのたうち回っている自分を殺したかった。
(だから――)
シーラは、召喚武装がもたらす超感覚が、セツナの説明通りの状況を脳裏に投影したことに歓喜した。セツナは、やはり凄い。彼の説明は正確であり、彼がいかに的確に空間を認識し、把握しているのかが見て取れた。通路の突き当りには試合会場と観客席を隔てる壁がある。常人でも乗り越えられそうな壁は、観客席から試合を見るための妥協の産物。まず、セツナが飛び越えた。警笛がなる。警備兵に見つかった。シーラは彼の外套を視界の端に捉えながら、後に続いて跳躍した。壁に飛び乗り、さらに飛んで試合会場へと降り立つ。どよめきが起きた。群衆だ。
左手に何千の群衆がいて、右手遠方に処刑場が設置されていた。処刑場には斬首台が五つ並べてあり、その側に処刑人が三名、立っている。処刑人は、全身白ずくめであり、頭部も白い被り物で覆われ、隠されていた。
白は、アバードにおいてもっとも神聖な色だ。
処刑とは、神より譲り受けた王権の行使であり、神聖なる行いであるといっても過言ではなかった。処刑人が白装束を身に纏うのは、神威の代理執行者としての立場を表現しているからにほかならない。白い被り物で素顔を隠すのもそれと同じことだ。人間ではなく、神の使いとして、裁きの使徒としてそこに立っている。
彼らの口から発せられる言葉は、神の言葉であり、故にタウラル領伯一族の処刑を一目見ようと闘技場を訪れた観衆は、神の威に打たれたかのように項垂れているのだ。
神威。
だが、結局のところ、裁きを下すのは人間であり、処刑を執行するのもまた、人間だ。歪な権力闘争の末路としての公開処刑に、神の意思が介在しているなどとは到底思えなかった。
「侵入者だ! なんとしても捕らえろっ!」
絶叫してきたのは、警備兵たちだ。シーラの後方から追いかけてくるのだが、シーラたちが観客席を離れたいま、彼らの手が届くことはない。それでも必死に追いかけてくる兵士たちには好感を抱く。彼らは、職務に忠実なのだ。必死になって侵入者を捕まえようとしているだけであり、悪意があるわけではない。
「止まれ! 止まるんだ!」
(だからといって止まれるかよ!)
シーラは胸中で叫び返しながら、セツナの背を見た。セツナは外套を翻しながらあっという間に闘技場を駆け抜け、斬首台の並ぶ壇上へと到達してみせた。シーラもすぐに後を追った。警備兵たちはようやく観客席の壁を乗り越えたところであり、こちらに到着するまでは時間がある。到達したからといって、状況が悪化するわけでもないが、相手にする敵はひとりでも少ないほうが良かった。
「なにものだ?」
処刑人のひとりが、壇上に着地したセツナに向かって問いかけながら、腰に帯びていた剣を抜いた。処刑人は、罪人が暴れたりしたときのために武器の携帯を許可されている。残るふたりの処刑人も武器を手にした。ひとりは大型の剣を両手で持ち、ひとりは弓を構えた。その光景を横目に見ながら、シーラは作戦通り、処刑場の裏手に回ろうとした。闘技場内に作られた簡易処刑場には大きな壁があり、正面からは裏側を覗くことはできない。そのため、裏側がどうなっているのかはまったくわからないのだが、武装召喚師の超感覚が視線を遮る壁の向こうに何十人もの人間がいることを認識している。セツナがいっていたようにラーンハイル以下数十人の処刑予定者だろう。
「これなるは神聖なる処刑場とわかっての狼藉か?」
「だとしたら?」
「神意に背き、神罰執行者に弓引く愚か者には、神の裁きを」
「神の裁きを」
「神の裁きを」
ひとりの言葉をふたりが唱和し、ほぼ同時に動いた。まず、弓の処刑人がセツナに矢を放った。矢はセツナではなく、処刑場を射抜く。セツナは剣を構えた処刑人に向かっている。そこへ、大剣を掲げた処刑人が殺到し、大振りの斬撃がセツナを襲った。しかし、猛烈な斬撃がセツナを捕らえることはない。どこからともなく出現した闇人形が処刑人の大剣を受け止めたからだ。
「武装召喚師かっ!」
大剣の処刑人が嬉しそうに叫ぶ中、シーラは、処刑場の裏側に回りこんで、愕然とした。
(っ……どういうこと!?)
シーラは動転しかけたものの、なんとか自分を見失わずに行動を再開した。前方――つまり処刑場の裏側には、確かに処刑予定者と思しき人々がいた。しかし、そこにはラーンハイル・ラーズ=タウラルの姿はなく、タウラル一族と思しき人間の姿さえ見当たらなかったのだ。ラーンハイルの一族郎党ならば、彼の子供たちもいるはずである。そして、シーラがラーンハイルの長男や次男の顔を忘れるはずもない。
「どうしたのじゃ?」
「どうもこうもねえよ」
シーラは、ラグナの問いに吐き捨てるように告げると、こちらを見た処刑予定者がおもむろに立ち上がる光景を目の当たりにした。壁の向こう側からは、激しい戦闘音が聞こえてくる。セツナが押されていると感じるのは、きっと気のせいではあるまい。だが、シーラは即座にセツナと合流するわけにもいかなくなっていた。
眼前、処刑予定者たちが続々と立ち上がり、足元に隠していた武器を取ったからだ。
(これはどういうことだ?)
シーラは、ハートオブビーストを握る手に力が篭もるのを認識しながらも、数十人の人間が羽織っていた外套を脱ぎ捨てるのを見ていた。外套の下から現れたのは鎧。磨きぬかれた軽装の鎧たち。
(はめられたのか!)
シーラは、斧槍を構えながら、ようやく自分の置かれた状況を認識した。この公開処刑そのものが、反王宮勢力を誘き出すためだけの策略だったのだ。ラーンハイルの一族郎党が皆殺しにされるという暴挙が行われることなどはなく、ただ、王宮の横暴に怒ったシーラ派や反王宮勢力を炙り出すためだけの方便であり、シーラたちはまんまとそれに乗せられたということだ。
シーラは、そこで、自分がラーンハイルとその一族郎党の皆殺しという報せによって冷静さを失っていたことを認めた。認めるとともに、ラーンハイルや彼の家族、配下のものが生きているということに安堵した。自分がこのような目に遭うのは、なんら問題なかった。ラーンハイルたちが無事ならば、それでいいとさえ思えた。
そう思ったつぎの瞬間、猛烈な破壊音とともに処刑場の壁が吹き飛ばされた。