第九百六十五話 爆走
「な、なんだ!? どうした!?」
アバード国王親衛・天嘴隊長ミーア=スラインは、室外から聞こえてきた罵声とも怒声ともいえない大声に心臓が止まりそうになるほどの衝撃を覚えながら、部屋の外に飛び出していた。飛び出すなり、視界に飛び込んでくるのは慌てふためく兵士たちの姿であり、自分と同じような表情をした兵士たちが声のした方向へと駆けつける光景だった。
それまで、ミーア=スラインは、天翼隊長キルケ=シルダーが全力を上げて構築した厳重極まる警備体制の下、安穏たる時間を過ごしていた。ミーアは、キルケの能力を信頼していたし、彼の警備計画を見る限り、考えうる限りの最善を施しているように見受けられたからだ。闘技場内部には獣戦団、天翼隊、天嘴隊を動員し、闘技場外部の警備も双牙将軍率いる戦力によって万全に等しいといってよかった。
中でも、彼女の担当する闘技場二階北側区画は、賓客が寝泊まりするための迎賓室が多数あり、警備の密度もほかと比べ物にならないほど分厚かった。小動物は愚か、羽虫が入る隙間さえ見いだせない――というのは言い過ぎにしても、およそ考えられる中でも完璧といってもいいような警備体制だったはずだ。
通路の各所には見張りの兵を立たせていたし、死角が生まれないよう、巧みに配置してもいた。定点監視兵だけでなく、巡回兵も使い、見張りの目の届かない場所が一切ないといっても過言ではない。これだけの警備網が敷かれたことは、歴史上、バンドールの王宮でもなかったのではないかと思うほどであり、故に、ミーアは、迎賓室の一室で優雅なひとときを過ごしていたのだ。
そんな彼女のひとときをぶち壊しにしたのが、件の大声であり、獣の咆哮のように野太い叫び声の数々だった。静寂が破られると同時にミーアの脳裏を過ぎったのは、反王宮勢力による襲撃だったが、それは瞬時に打ち消された。襲撃があるとしても、いきなり二階北部区画が戦場になることなど、ありうるだろうか。シーラ派のような反王宮勢力戦闘が起きるとすれば、まず、闘技場外部で双牙将軍率いる獣戦団との間に発生するはずであり、そこを飛び越えて闘技場二階が戦場になることなど、かんがえられることではない。
「獣戦団の連中が、突然、大声を上げながら襲いかかってきたんです!」
部下のひとりが、彼女に向かって駆け寄ってくるなり告げてきた言葉には、ミーアも驚きを隠せなかった。驚愕のあまり、意識が消し飛びそうになる。
「獣戦団の連中が!? 気でも狂ったのか!」
ミーアは声を上ずらせた。
獣戦団とは、アバード正規軍の総称だ。以前はアバード軍の双璧と呼ばれた双角将軍ガラン=シドールと双牙将軍ザイード=ヘインというふたりの統率者を戴いていた組織は、エンドウィッジの戦い以来、ザイード将軍によって管轄されるようになっていた。獣戦団はいくつもの戦闘団によって構成されており、クルセルク戦争に参加した牙獣戦団や爪獣戦団なども獣戦団の一戦闘団である。つまりは、アバードの正規軍であり、そんな由緒正しい戦闘団が襲いかかってくるなど、ありえないことのように思えた。
「そうとしか思えません!」
「くっ……警備責任者はなにをしている!」
警備責任者とは、天翼隊長キルケのことだ。キルケ=シルダーがこの闘技場の警備網を構築した人物であり、天嘴隊を二階北部区画に配置し、その周囲に獣戦団を並べたのもキルケだ。キルケの警備計画が完璧なのはミーアも認めるところだが、こうなった以上、なにもかも台無しになったといわざるをえない。キルケには、獣戦団の暴走の責任を負ってもらうよりほかないが、
「それが、先程から連絡が取れないのです! 闘技場内にいるはずなのですが……」
「こうなれば、将軍に連絡するしかあるまい。獣戦団は元々、双牙将軍の管轄だ」
「既に将軍閣下に報せに向かわせました!」
「そうか! それならば、あとは持ちこたえるだけだ……!」
ミーアは、声を励ましていった。いったものの、闘技場二階北部区画にて繰り広げられる大騒ぎには、唖然とするしかなかった。阿鼻叫喚の地獄絵図――というのとはまったく違うのだが、だからといって看過できるものでもない。
「だけだが……なんなのだ、この状況は……?」
闘技場二階北部区画。
センティアの闘技場は巨大な建造物だ。一階の闘技場を中心とした半球形の建物は、何百年も前に建造されたとは思えないほどに立派で、同時に歴史を感じさせるものがある。二階北部区画は、そんな闘技場の中でも特殊な区画といっていいのではないか。迎賓室と呼ばれる賓客を迎えるための部屋ばかりが並ぶ区画で、広い空間といくつもの通路が幾重にも交錯している。そんな空間を獣戦団の大男どもが天嘴隊、獣戦団を相手に暴れ回っており、そこだけが異様な光景といってよかった。
異様だった。
獣戦団の軍服を着た屈強な男同士がぶつかり合い、互いに一歩も譲らないといった戦いもあれば、獣戦団の戦士が何人もの天嘴隊員をなぎ倒し、高らかに勝利を宣言している。同士討ち。暴走。反乱。
(いや……)
ミーアは、暴徒と化した獣戦団に殺到する兵士たちの様子に目を細めると、室内に戻った。得物を手に取り、再び室外に向かう。得物は、直剣。屋内での戦闘を考慮しているため直剣の刀身は短めだが、問題にはならない。むしろ、このような乱戦では、直剣のほうが相応しいだろう。
(シーラ派の残党が獣戦団に紛れ込んでいた、ということか)
獣戦団に紛れ込み、機会を伺っていたのではないか。
機会。
シーラ派の主張を通すための機会か。それとも、シーラ・レーウェ=アバードの敵討ちをする機会か。
どちらにせよ、この場では叶わないことだ。
ミーアは、部下に剣を抜くよう命じると、獣戦団の制圧に取り掛かった。
エスクたちシドニア傭兵団たちが怪気炎を上げ、二階北部区画の警備兵の注目を集める中、シーラはセツナととも室外に飛び出す機会を窺っていた。機は、一度きり。一度飛び出せば、目的地まで疾駆するよりほかはない。故にセツナは慎重だった。扉の内側で息を潜め、慎重に時を待つ。
室外の様子は、なんとはなしにわかった。エスクや傭兵たちの雄叫びが轟くと、警備兵たちが浮足立ったということまで把握できている。エスクたちは獣戦団の軍服を身に纏っていた。一見すると、獣戦団の兵士にしか見えない。つまり、獣戦団が味方を襲いはじめたようにしか見えないのであり、そうなれば、混乱するのも道理だ。獣戦団の反逆は、すぐさま北部区画全体の警戒度を引き上げたはずだ。
シーラが少しばかり不安になったのは、警戒度が上がったことで、シーラたちが目的地に辿り着くのも難しくなったのではないかと思えたからだ。
「これでいけるのか?」
「ああ。エスクたちは、警備兵に襲いかかりながら、北部区画をさらに北上している。そうすると、どうなると思う?」
「警備兵も引き摺られていく?」
「ああ。上手く行けば、目的地周辺の警備は手薄になる」
「そう上手くいくかな?」
シーラは、セツナの横顔を見つめながらつぶやいた。彼の横顔は真剣そのものだ。真剣に室外の様子を探っている。召喚武装を手にしていることによって彼の五感は常人とは比べ物にならないほどに研ぎ澄まされている。耳ははるか遠方の物音を拾い、目もまた、同じだけの距離を見渡せるだろう。それでも室外の様子を把握するには、耳を済ませる必要があるのだ。
彼が扉の外に意識を集中させながら、こちらを一瞥した。
「不安か?」
「少しな」
「だいじょうぶ。俺がついてる」
「ん……」
「俺がおまえを守るさ。なんとしてもな」
「……セツナ」
シーラは、思わず彼の名を呼んでしまった。呼ぶと、止まらなくなる。ここに至るまで考えていたことを吐き出してしまいたくなる。止められない。止めたくない。止めれば、この想いを伝える機会は得られないだろう。もう二度と、彼と言葉を交わすことなどできない。だからいまなのだ。だから、いましかないのだ。いましか、この気持ち、この感情を伝えることはできない。
「ありがとう」
「礼は、すべてが終わってからだ」
セツナの笑顔は穏やかだ。この状況下で穏やかな笑みを浮かべられるのは、並大抵の精神力ではない。セツナは強い。それがわかる。これほど心強く、頼もしい少年をシーラは知らない。セツナがこれまで潜り抜けてきた地獄のような戦いに比べれば、どうってことないというだけのことなのだろうが、そもそも、通常、それだけの死線を経験することがないのだ。数多の死線を潜り抜けてきたのが、セツナという少年だ。だから、どんな状況でも動じないのだろう。動じず、対応できる。故にシーラは安心していられるのだ。
「うん。でも、いまいわなきゃ」
「え?」
「いまのいままで、おまえには頼りっぱなしだった。ここまで来られたのもおまえがいてくれたからだ。おまえが、俺に力を貸してくれたから、手を差し伸べてくれたから、俺はここにいる。目的を果たせるんだ」
何もかもを終わらせられるのも、セツナがいてくれたからにほかならない。彼がいて、彼が力を貸してくれたからだ。彼がいなければ、シーラは、あの旅館での生活を続けている最中にラーンハイルとその一族郎党の公開処刑を知っただろうし、そうなれば、たったひとりでアバードを目指したかもしれない。いくらセツナがいないからといって、ウェリスたちを巻き込むことなどできない。
そして、ひとりでアバード国内に潜入することができたとして、なにができたというのだろうか。
シーゼルで情報を集めるだけで日が暮れたのではないか。センティアで公開処刑が行われるという情報を掴めたとして、それで精一杯だったのではないか。いや、それ以前に、王都に直行して、捕縛されていたのではないか。
シーラひとりではなにもできなかった。
セツナがいて、ラグナがいて、エスクたちが力を貸してくれたからこそ、ここに至ることができたのだ。
「全部終わって、もし、そのとき……」
彼女は、左手に握っていた斧槍を床に置くと、セツナの左手を両手で包み込んだ。彼が怪訝な顔をしたのは、シーラの行動が不思議だったからだろう。
(俺が生きていることが許されたなら)
シーラは、その言葉は口にしなかった。目を伏せ、胸中で発した。それから、再びセツナの顔を見る。目を見つめる。赤い目。血のように紅い、彼に相応しい瞳。じっと、こちらを見ている。見つめ合っている。
「そのときは、俺のすべてをおまえに捧げるよ」
「すべて……?」
「うん。俺の全部、おまえのものだ」
シーラが少しばかり顔を俯けたのは、多少、照れくさかったからだ。まるで告白のようだと思わないではない。実際、そういう面もあった。だから、いましかないのだ。いまならば、なにをいっても許される気がした、
たったいま、この瞬間だけ。
しかし、セツナは、意外な反応をした。
「なにいってんだか」
彼は、にやりと笑った。
「とっくにおまえは俺のだろ」
シーラは、どきりとした。胸が高鳴って、なにもいえなかった。なにもいえないまま、彼の言葉を聞くしかなかった。
「領伯近衛・黒獣隊長シーラは、領伯の所有物……違うか?」
そういって、彼はすぐさま頭を振った。らしくないとでも想ったのかもしれない。
「ま、厳密には違うか」
「だ、だから、だろ。人生もなにもかも、おまえにあげるっていってるんだよ。喜べよ、馬鹿」
シーラは慌てて、いった。彼の言葉にも一理ある。確かに彼の庇護下に入った時点でシーラは彼のものになっていたはずだった。彼にすべてを捧げたつもりでいた。もちろん、そのときの感情も想いも嘘ではない。しかし、いまのほうがもっと強く、深いのだ。どちらが嘘で、どちらが本物ということではない。どちらも本物の感情であることに変わりはなかった。
セツナへの好意が、より強くなったというだけのことだ。
そして、それがすべてだ。
「ああ、ありがたく受け取ろう。すべてが終わったら」
「うん。すべてが終わったら、な」
シーラは小さくうなずいた。
すべてが終わって、自分が無事でいられたのなら、そのときは、そのときこそは――。
セツナが、不意に、扉に耳を押し当てた。室外の状況が変化したらしい。シーラの意識に緊張が走る。両手で包み込んでいたセツナの手から左手を離すと、床においたままの斧槍を掴む。ハートオブビースト。出番はなかったが、それでいいのだ。出番があるということは、シーラが追い詰められたということにほかならない。
一度もシーラの身に危険が及ぶなかったということは、それだけ、セツナが守ってくれていたということでもある。
「いくぞ、エスクたちが進路を開けてくれた。手、離すなよ」
「ああ……!」
セツナが扉を開いた。
扉の外には、獣戦団や天嘴隊の兵士たちが無数に倒れており、シドニア傭兵団の実力の程が窺えたといってもいい。もちろん、部屋の近くは不意打ちによる戦果なのだが、警備兵たちとの戦闘状況が続いているということは、エスクたちが負けていないということにほかならず、彼らが獣戦団や天嘴隊の兵士たちよりも力量の上では優っているということだ。屋内戦闘ということも、大きい。数的にはアバード軍側が有利なのだが、エスクたちが狭い通路内に逃げ込めば、数を頼み戦うこともできなくなる。もっとも、死者を出せないエスクたちと違って、アバード軍側は武器を用いることができるため、この状況もいつまでも維持できるものではないのは明らかだ。
早く状況を終わらせなければ、エスクたちシドニア傭兵団の中に死傷者が出る。
シーラは、セツナに手を引かれるまま、北側区画を疾駆した。警備網の突破は、セツナに任せればいい。黒仮面を装備していることによる超感覚が、セツナに安全な経路を算出させているはずであり、彼とともに進む限り、なんの問題もないはずだった。そして実際、なんの問題もないまま、シーラは、北側区画を走り抜けた。エスクたちが警備兵たちを迎賓室手前から引き離してくれたからであり、わずかに残った警備兵をセツナが闇人形を用いて沈黙させたからだ。
厳重な警備網も難なく突破してしまえたことに多少唖然としながら、シーラはセツナに導かれるまま、彼が目星をつけたという迎賓室前に到着した。セツナが目星をつけたというだけあって、扉前には警備の兵士が何人も立っていた。親衛隊の隊服と隊章から天嘴隊の兵士だということは明らかだったが、闇人形とセツナの前では的ではなかった。彼は有無を言わせることなく兵士たちを昏倒させると、迎賓室の扉を開いた。
「陛下! ご無礼をお許し下さい!」
シーラは、セツナより先に迎賓室に飛び込みながら叫んだ。真っ先に飛び込んだのは、さすがに国王の起居する部屋に警備兵はつけていないだろうと思ったからであり、配置されていたとしても二、三人が限界だと判断したからだ。二、三人なら、シーラでも制圧できる。
迎賓室は、その名の通り、賓客を迎えるための部屋だ。室内の装飾も、その名に相応しいものであり、見るからにきらびやかで高級そうな調度品ばかりが置かれていた。椅子も机も寝台もなにもかも、最高級品といっても過言ではない代物ばかりだ。それこそ、国王のために用意されたとしか思えないような空間ではあった。
「な、なんだ……!? 先程からいったいなんなのだ!?」
そんな豪華な空間にシーラの目的とする人物はいた。豪奢な椅子に腰掛けた初老の男は、天嘴隊の女隊員ふたりに守られるようにしていた。初老の男。アバード王家の血筋を示す白髪は、年齢によるものにも見えなくはなかった。狼狽しきった表情からは王者としての威厳を感じ取ることはできないものの、リセルグ・レイ=アバードに獅子王の如き威厳を求めること自体が間違っている。リセルグはアバード国王だが、それだけのひとだった。処刑会場に向かう直前だったのは、リセルグの格好からもわかる。王としての威厳が装飾された長衣を身に付けており、王杖を手にしていた。
「貴様ら、一体なにものだ!」
「陛下、我が隊のものがすぐさま駆けつけますので、ご安心くださりますよう」
ふたりの女隊員は、国王の御前ということもあって、武器に手を触れながら、抜くこともままならないといった様子だった。リセルグが命じればすぐさま抜き連ね、襲い掛かってくるのだろうが、リセルクの様子を見る限り、そうはならないように思えた。リセルグは明らかに動転していた。こんなことが起きるなどまるで想定していないとでもいいたげな反応は、シーラに違和感を覚えさせた。いや、違和感を覚えるのは、反応だけではない。
リセルグが天嘴隊の隊員を侍らせているというだけでも不思議だった。リセルグは、天嘴隊よりも天翼隊を重要視しているはずであり、身辺警護なども天翼隊に命じることが通例だった。疑念を抱き始めれば、リセルグの顔の作りそのものまで違和感だらけになっていく。顔の造作は、リセルグそのものといっても過言ではない。父と同じ顔立ち、目つき、眼の色、鼻の形、唇のゆがみ方、たっぷりと生やした顎鬚も、クルセルク戦争直前に見た父そのままだった。なにもかも、リセルグ・レイ=アバードなのだ。
だが、違和感がある。
「……陛下?」
違和感の最たるものは、シーラの声を聞いて、特別な反応を示さなかったことといっていい。
「どうした、シーラ」
セツナの声が少し遠い。彼は、迎賓室の扉の内側にあり、室外の様子を窺っていた。もし迎賓室の異変に気づいた警備兵が近寄ってくれば、闇人形で迎え撃たなければならないからだ。
「違う……」
「え?」
「陛下じゃない」
シーラは、手元の懐中時計を見た。時刻は午後一時三十分。
処刑開始まで三十分。