第九百六十三話 破綻
センティアの闘技場の警備は、厳重を極めた。
センティアの駐屯軍だけでなく、王国軍獣戦団、国王の親衛隊二隊が投入され、闘技場のあらゆる場所に警備の兵が配置された。巡回兵も多数おり、警備の穴など存在しないといってもいい。完全無欠であり、完璧な警備体制といってもよく、キルケ=シルダーは、己の考えだした警備体制のあまりの美しさにうっとりした。
闘技場そのものは複雑な作りにはなっておらず、故に警備の配置も難しいものではない。各所に兵を配置し、その配置からは死角となる部分にも兵を配置した。運用できる兵数の多さは、警備の完成度を高める上で大いに役だった。例えば、巡回兵を一人でも多く投入できるということは警備の穴を埋めることに繋がり、また兵を配置する場所を増やせば、監視の目を強化できるということだ。しかし、すべての兵士を同時に警備にあてがうことはやめたほうがいいだろう。兵もまた人間だ。長時間警備をしていれば疲れが溜まる。疲労が蓄積すれば、監視の目が緩むことも当然ありうるのだ。休憩させ、疲労を回復させる必要がある。全兵力を一度の警備に投入するということは、同時期に休憩させるべき兵士が増大し、警備の穴が空くということにほかならない。三分の一を警備に宛てがい、残り三分の二はその交代要員として待機させた。
穴のない完璧な警備。
それこそ、アバード国王リセルグ・レイ=アバード親衛・天翼隊長キルケ=シルダーの標榜とするところであり、彼は、そのため、今日に至るまでセンティア闘技場の図面と睨み合い続けてきたのだ。図面と睨み合うことで内部構造を脳裏に構築し、その脳裏の闘技場に警備兵を配置していった。配置に不備はないか、死角はないか、兵数は足りているか、自分の構想に無理はないか――キルケ=シルダーの十日間は、そのように消費された。消費され尽くし、出来上がった警備網は、だれもが絶賛するような代物であり、天嘴隊長ミーア=スラインなどは悔しがったものだ。この警備網には穴があると言い張るのがその証拠だ。穴があると言いながら、その穴を具体的に示せないのだから、強がりとしか言いようがない。所詮、天嘴隊は、性別と外見だけで親衛隊に抜擢されたようなものの集まりなのだ。実力で親衛隊長を勝ち取ったキルケに嫉妬しているだけにすぎない。
(わたしには、天翼隊長に相応しい実力があるのだ)
キルケ=シルダーは、自負の中にいた。闘技場に展開した穴ひとつない警備網こそ、自負の根源といっていい。これほどに完全無欠な警備網など、ミーア=スライン如きには想像もできないのだ。鼠一匹、蟻一匹通さない警備体制。国王陛下の身の安全を守るのは、この警備体制そのものであり、天嘴隊や獣戦団などではないのだ。
(わたしの考えだした警備体制こそが、陛下の御身をお守りするのだ)
センティアは、アバードの都市のひとつだ。センティアにリセルグが下向したところで、その命が狙われるなど、本来ならばありうべきことではない。しかし、現在のアバードの情勢では、リセルグの身の安全を最優先に考え、行動しなければならなかった。
シーラ派の急激な膨張は、王宮に衝撃を与えた。王宮だけではない。リセルグ王および、その側近たち、親衛隊にまでその衝撃は波及した。シーラ派とは、つまるところ、シーラ・レーウェ=アバードを擁する派閥であり、シーラを女王に擁立することでその利権にあやかろうという連中の集まりに過ぎない。もちろん、純粋にシーラを慕い、応援するものもいたのだろうが、大半は、獣姫の国民的人気を利用することで権力を得ようとするものと断じてよかった。
センティアは、そんなシーラ派の重鎮キーン=ウィンドウが支配者として君臨していた都市だ。都市全体がキーン=ウィンドウ率いるウィンドウ一族の影響下にあり、キーン=ウィンドウがシーラを支持したことで、都市そのものがシーラを支持するようになったといわれている。シーラを支持することそのものはおかしいことではないし、なんの問題もない。シーラを支持しているのは、なにもセンティアだけではなかったのだ。タウラル要塞を中心とするタウラル地方は、地方を上げてシーラを応援していたし、ヴァルターやシーゼルでもシーラ人気はとどまるところを知らなかった。そして、もっともシーラ人気が加熱していたのは、王都バンドールだった、
王都バンドールでのシーラ人気の凄まじさは、センティアの比ではない。
シーラは王女だ。国王リセルグと王妃セリスの第一子としてバンドールに生まれた彼女を王都のひとびとが慕わないはずがなかった。国のために率先して血を流し、勝利をもたらす獣姫の姿には、だれもが感動を覚えたし、支持しないわけにはいかなかった。
王家そのものが、シーラの活躍に熱狂していた。
現国王リセルグは無論のこと、次期国王にして王子セイルも、シーラの活躍をだれよりも喜んだというし、セイルは王位継承権を返上したがったという。シーラこそ王位を継承するべきだというセイルの発言が周り回ってシーラ派の女王待望論を過激化させたのだが。
ともかく、シーラがアバード中で人気なのは必然だった。
キルケ=シルダーも、シーラを敬愛していた。リセルグの親衛隊長である彼は、王家の人々と接触する機会が少なくなかった。当然、シーラと言葉を交わしたこともある。シーラは、外見や性別で人間を判断するような小さい人間ではない。キルケのことをもっとも理解してくれたのが、シーラだった。彼が天翼隊長でいられるのも、シーラの口添えがあったからだ。
故に、彼はシーラのことを無念に想い、シーラの死を悼んだ。
仕方のないことだ。
王宮には、ほかに取る道はなかった。
シーラ派が挙兵し、内乱を起こした以上、その主犯であるシーラを処刑する以外に道はなかったのだ。そうしなければ、他に示しが付かない。シーラが生きている限り、アバード各地に潜むシーラ派は、つぎの機会を待ち続けるだろう。
シーラが内乱の主犯として捕縛された後も、王都でのシーラの人気は変わらなかった。だれもがシーラが悪いとは思っていなかったし、それはキルケも同じだ。シーラが悪いのではない。シーラをそそのかした連中が悪いのだ。
王都市民の悪感情は、シーラ派貴族に向けられることになる。
キルケも、シーラ派貴族を悪意の目で見るようになった。とはいえ、王都にはもはやシーラ派と呼ばれるような連中はいなかったし、王都にいる限り、シーラ派と遭遇するような可能性は皆無に近かった。
そんな折、シーラ派の首魁といっても過言ではないラーンハイル・ラーズ=タウラルの処刑がセンティアの闘技場で行われることになった。ラーンハイルは、みずからの領地であるタウラルにシーラ派貴族や軍人たちを召集し、一大勢力を作り上げた張本人だった。彼が処刑されるのは当然であり、彼こそ処刑しなければシーラ派に愚かな希望を残すことになる。
キルケにも異論はなかった。
しかし、処刑会場が問題だった。
センティアは、都市そのものがシーラ派といっても過言ではないのだ。そんな都市に国王みずから乗り込むというのは、危険ではないか。シーラ派の中でも過激な連中は、王宮なにするものぞ、という意識が強い。その敵意は、シーラを処刑することに反対しなかった国王に向けられることも少なくなかった。
リセルグのセンティアへの下向は、猛反対の中、強行された。ラーンハイルとその一族郎党はセンティアで処刑しなければならない、という強い意志と、ラーンハイルの死をこの目で見届けなければならないというリセルグの個人的な想いを押しとどめることは、なにものにもできなかったのだ。
キルケ=シルダーが闘技場の警備を任されたのは、そんな最中だった。大抜擢というべきなのか、当然というべきなのか。センティアの警備は、双牙将軍ザイード=ヘインが受け持つということであり、彼の役目は、双牙将軍に匹敵するものだということだった。
キルケは、闘技場の警備に全力を注いだ。
そして、完璧といっても過言ではない警備体制を作り上げたのだ。
彼は、自分が構築した完璧な警備網を再確認するため、闘技場内を歩き回った。公開処刑の決行まで、あと一時間あまり。闘技場内は、処刑を見るために訪れた人々で満ちているといい、処刑の準備も万端整っているという。警備担当であるキルケ=シルダーは、公開処刑に立ち会うことはできないが、むしろそれでいいと思っていた。ラーンハイルはシーラが敬愛した領伯だ。彼がシーラ派をそそのかし、内乱を起こしたとはいえ、その処刑の瞬間を目のあたりにするのは避けたかった。シーラの処刑すら、この目で見ることはしなかったのだ。
シーラは、死ぬまで毅然としていたという。
キルケは、シーラの死を思うたびに胸を痛めた。無念だっただろう。後悔だらけだったのではないか。いや、無念も後悔もないから、毅然としていたのか。様々な考えが脳裏を過る。
闘技場内部の広い通路。壁には、等間隔に魔晶灯が設置されており、淡い光を発していた。魔晶灯の冷ややかな光によって照らされた通路を進んでいると、前方から警備の兵たちが歩いてくるのが見えた。アバード王国軍獣戦団の軍服は、遠目に見ても厳しい。
(ん……?)
キルケは、ふと疑問に思い、懐中時計を取り出した。十二時五十五分。この時間、この通路を巡回するのは、天嘴隊の女どもだったはずであり、獣戦団の兵がこんなところにいるはずがなかった。
(まったく……これだから獣戦団の連中は)
彼は嘆息とともに時計を懐にしまった。獣戦団は本来、彼の指揮下にある組織ではない。軍と国王親衛隊では、指揮系統が違うからだ。天翼隊長であるキルケの直属の上司とは国王そのひとであり、直属の部下となると、天翼隊の隊員のみである。一方、獣戦団の指揮官とは双牙将軍と双角将軍であり、双角将軍の座が空席のいま、双牙将軍が実質的な支配者として君臨している。
そんな獣戦団が、キルケの命令に対して聞く耳を持たないのは、理解できないことではなかった。獣戦団の気位の高さは、双牙将軍ザイードの影響によるところが大きいのだろう。ザイードは、軍人としての誇りを持つことを兵士たちに常々言い聞かせている。
軍人としての誇りを持つことは一向に構わないのだが、その結果、キルケの完璧極まりない警備体制に綻びが生まれてしまうのは許せないことだった。
キルケは、その場で仁王立ちになって、獣戦団の兵士たちが近づいてくるのを待った。
屈強な兵士たち。それこそ、筋肉の塊のような男たちが前方から迫ってくる。ただそれだけなのに圧力を禁じ得ないのは、数が多いからだ。
(待て……)
キルケは、考える。
迫ってくる兵の数の多さは、いったいなんなのか、と。
巡回の兵は、多くても三人と決めている。巡回兵に人数を割くと、定点警備の兵士を減らさなければならなくなるからだ。いくらキルケの命令が気に喰わないからといって、闘技場各所に配置した兵を集めてまで移動することはないだろう。それでは、彼の完璧な警備体制が穴だらけになってしまう。あと一時間。その程度の穴なら問題はないはずだが、かといって、看過できるものでもなかった。
国王陛下の命をお守りするのが、この警備の最大の目的なのだ。
彼は、憤然と、獣戦団の兵士たちが目の前で立ち止まるのを見ていた。十数人の屈強な兵士たちは、彼の前で足を止めると、不均衡ながらも敬礼をしてみせた。左手を腰に当て、右手で作った拳を己の胸に叩きつけるというアバード式の敬礼に間違いは見当たらない。
キルケも、敬礼を返す。
「異常は見当たりません!」
長い髪の兵士がいった。帽子を目深に被っているのは、キルケと目を合わせないためかもしれない。徹頭徹尾、キルケを馬鹿にするつもりらしい。軍人らしい姑息なやり方だ。
キルケは、目を細めながら、その兵士を見た。口の端が笑っている。嘲笑。気に食わない。
「そうか。しかし、わたしには異常が見えるのだが?」
「は?」
「諸君のことだ」
「と、いいますと?」
「わたしの警備計画にはないぞ、このような集団移動」
「なるほど。こういうことも、計画にはなかっただろう?」
声は、背後から聞こえた、
振り向くと、外套の二人組が立っていて、つぎの瞬間、闇が視界を覆った。痛みがあった。だが、声を出せなかった。首が絞められている。
「すまない、キルケ」
(ひめ……さま……?)
キルケ=シルダーは薄れゆく意識の中で、シーラの声を聞いた気がした。