第九百六十二話 センティア(六)
「闘技場……だと?」
ゼーレ=ウィンドウは、地下通路の出入り口でまたしても愕然とした。せざるを得なかった。なぜなら、シドニア傭兵団の目的地を聞いてしまったからだ。
エスクは、地下通路の地図を持っていた。それもキーン=ウィンドウからラングリード・ザン=シドニアが譲り受けたものであり、ラングリードからレミル=フォークレイに預けられていたという。その地図だけでも驚嘆に値するのだが、地図を頼りにどこを目指すのか尋ねたところ、返ってきた答えには驚愕するしかなかった。
闘技場を目指すというのだ。
闘技場は現在、午後二時に行われる公開処刑の準備のまっただ中であるはずだ。国王が滞在中ということもあり、警備は厳重を極めている。国王の親衛隊である天翼隊、天嘴隊、それに王国軍獣戦団が警備に当たっているという。まさに鼠一匹、虫一匹通さない布陣であり、公開処刑とはいえ、処刑会場に足を踏み入れることさえ困難といった有様らしい。
しかし、地下通路を使えば、地上の厳重な警備網に煩わされることはない。もちろん、地下から闘技場内部施設に入り込むのは至難の業だろうが、闘技場近辺まではあっさりと辿り着けるだろう。だから、エスクたちは、この屋敷に踏み込んできたということだ。
それは、いい。
問題は、闘技場に行く目的だった。
公開処刑を見るためだけならば、正面から入ればいい。厳重な警備とはいえ、傭兵たちがごろつきと大差ない風体とはいえ、武器や凶器を所持していなければ、問題なく会場に入れるだろう。
しかし、エスクたちは地下通路を使わざるをえない事情があるという。それはつまるところ、武器や凶器を所持したまま、会場に入りたいということにほかならないのではないか。
「まさか、ラーンハイル伯の処刑を止めるつもりか?」
ゼーレが問うと、魔晶灯に照らされたエスクの顔が冷ややかに笑った。
「そのまさかさ」
「馬鹿な……」
唖然とする。
公開処刑は、王宮主導によって行われるものだ。領伯が裁かれるということもあり、国王リセルグ・レイ=アバード立ち会いの元で行われることになっている。それを止めるということは、アバード王国への挑戦に等しい。王家への反逆であり、王国すべてを敵に回すに等しい行為だった。そしておそらく、成功すまい。
シドニア傭兵団は、アバードにおいて強力な戦力だ。それこそ、筆頭戦力にあげられるくらいには強力無比であり、シーラ姫率いる侍女団と戦果を競い合うほどだった。だが、相手が相手だ。王国軍獣戦団、国王親衛・天翼隊、天嘴隊すべてが敵に回る。多勢に無勢。いかにシドニア傭兵団とはいえ、いかにシドニアの“剣魔”とはいえ、切り抜けられるとはとても思えなかった。
「ああ、馬鹿げたことをやるのさ」
エスクのみならず、シドニアの傭兵たちは皆、笑っている。レミル=フォークレイも、ドーリン=ノーグも、この暴挙を心底楽しんでいる。勝てるかどうか、成功するかどうかが問題では無いのは、彼らの目を見れば明らかだた。
「けど、そうでもしないと、あんたらウィンドウ一族も危ういんじゃないのか?」
「……確かにな」
否定はしなかった。そのことで、ゼーレは日夜震えが止まらないのだ。一族郎党ともども、見せしめに処刑される日が来るのではないかと戦々恐々としているのだ。だからこそ沈黙し、静謐を保ち、恭順の意を示している。そのことが王宮に伝わり、処分保留のまま、過ぎ去っていくのを期待しているのだ。が、そうもいかないかもしれない、とも思う。
「タウラル伯の一族郎党のつぎは、シドール家か、俺たちシドニア傭兵団か、ウィンドウ一族か。傭兵団なんざ後回しでもかまわないだろうがな」
彼のいうとおりだ。つぎは、シドール家かウィンドウ一族が槍玉に挙げられるに違いない。シーラ派に与したものを見せしめに処刑していくとなれば、そうならざるを得まい。エンドウィッジの戦い後、すぐさま恭順の意を示したラーンハイルですら、一族郎党ともども処刑されるというのだ。
シドール家とウィンドウ一族が処刑されないはずもないのだ。
「だが……それで、どうなるものでもあるまい? たとえ今回の処刑が台無しになったところで、王宮がその態度を変えるとは思えんが……」
「ま、そのときはそのときさ」
「……なにかあるんだな?」
「そういうこと。吉報を待ちなよ」
「……期待はしていないさ」
ゼーレは素っ気なく告げた。内心の動揺を微塵も見せないよう、気をつける。もしかすると、もしかするかもしれない。多少、期待してしまう自分を抑えられなかった。もし、彼らの暴挙が上手くいき、シーラ派への見せしめ同然の粛清の嵐が収まれば、それに越したことはなかった。失敗したとしても、死ぬのは傭兵たちだ。
そして失敗した場合に待ち受ける運命は、行動を起こさなかった場合となんら変わりはない。
「が、武運は祈ろう」
「それだけで十分だよ」
そう言い残して、エスクは地下通路に降りていった。エスクに続いてレミル以下、五十人近い傭兵たちが地下に降りていく。中には外套を着込んだものもいたが、そんなことはどうでもよかった。シドニア傭兵団の団員がどんな格好をしていようと関係がなかった。
ゼーレには、考えなくてはならないことがあった。
(さて……どう言い逃れるか)
本邸に侵入者が現れたという情報を耳にしたアバード軍が、事情聴取のために兵を寄越してくるに違いなかった。
「ゼーレの野郎、相変わらず陰気な顔しやがって。こっちまで気が滅入ってくるっての」
エスクの吐き捨てるような声は、地下通路の狭い空間に大きく反響した。
「この状況下で陽気に振る舞わられても困りますが」
レミルが告げると、エスクは顔をしかめた。
地下通路は、センティアの地下に張り巡らされている。まさに迷宮のように複雑に入り組んでいるものの、地図にはウィンドウ家の歴代当主がつけてきた目印が各所にあり、それを頼りにすれば闘技場までは簡単にたどり着けるという話だった。
狭くも長い通路に、五十人近い屈強な男の列が続く。
シーラは、当然、先頭集団の中にいて、エスクのすぐ後ろをセツナとともに走っていた。ハートオブビーストの入った布袋を抱え、右手はセツナの手を握っている。地下通路に入るなり、彼と手を繋いだのは無意識の行動であり、彼女はそんな自分の手慣れた行動には苦笑を浮かべてしまった。万が一、このまま日常に戻ることがあったとすれば、セツナの妻を演じ続けるのも悪くはなかったかもしれない。その場合、ミリュウの怒りを買い、レムに嫌がられるのだろうが。
「あの男、信用できるのか?」
セツナがエスクに問いかけると、エスクは足を止めた、携帯用の魔晶灯の光で壁を照らし始める。印は、壁に刻まれているらしい。
「ゼーレのことっすか」
「ほかにだれがいる」
「ですな。まあ、信用はできますよ。信頼はできませんが」
「だめじゃねえか」
「いやまあ、だいじょうぶでしょ。いまさらどうにもできませんって」
エスクは軽い調子で告げると、地図の印と壁の印の照合を終えたらしく、魔晶灯で通路を照らし出した。携帯用の魔晶灯は、エスク以外にも何人もの傭兵が手にしており、光源には困らなかった。石造りの通路。光がなかったとしても、つまずくようなことはなさそうだが、道に迷うのは間違いない。
「闘技場に通報するったって、こっちはなんの障害もない地下を進むんです。もし、ゼーレが俺たちを売ったとしても、そのころには俺たちは闘技場の中ですよ」
「そうなるか……」
「それに、あいつが俺たちを売るとは思えませんし」
「貸しがあるっていう話だったな」
「ええ。貸し借りに関しては律儀な男なんでね、裏切る心配はしなくていいかと」
ゼーレ=ウィンドウが信用に値するかどうかは、シーラにはわからない。知った顔ではあるし、ウィンドウ家本邸に訪れた時には、言葉を交わしたこともある。そういうときの彼の恐縮しきった顔が面白くて、何度も話しかけたものだ。子供の頃。つまり、王子であったころのシーラの記憶。
あのころ、世界は輝いて見えた。
「問題は、闘技場内に辿り着いてからですな」
「どうやって台無しにするんです?」
「その点に関しては、このお二方に任せておけばいい」
エスクが指し示したのは、ニーウェ=ディアブラスことセツナとその妻シーナことシーラである。ドーリンが目を細めると、レミルは小首を傾げた。
「ほう」
「ニーウェ様とシーナ様に?」
「はい。旦那様とわたくしに、任せておいてくださいませ」
「上手くやるさ」
セツナは告げると、シーラの手を強く握ってくれた。シーラは、その手の力強さに勇気づけられる思いがした。
だが、勇気など必要ない。
覚悟はとうに決めた。
あとは、父に逢い、話すだけのことだ。言葉を交わせば、交わすことさえできればいい。たとえ分かり合えないとしても、この状況を終わらせることはできるはずだ。終わらせるための手段もある。なんの問題もない。