第九百六十話 センティア(四)
目を開くと、闇があった。
真っ暗な闇は、夜中だから、というわけではない。いや、真夜中なのは疑いようもないのだが、夜だから暗いのではないのだ。窓に帳を下ろすだけでは不安があったため、木戸で封鎖していた。二階の部屋ではあるが、隣の宿屋の部屋から室内を覗き込むことができそうだったからだ。そこまでしなければ安心はできなかった。安心できなければ、頭巾を脱ぐこともできない。頭巾を被ったままでは、身も心も休まることなどありえない。
休まらないということは、疲れが蓄積するということであり、疲労が溜まれば、目的も果たせなくなる。
目的を果たすためには、休めるときに休む必要があった。
そのためにも警戒に警戒を重ねた。
それによって、シーラはようやく素顔に戻ることができるのだ。素顔に戻れて、ようやく一息つくことができる。緊張から解放されれば、少しは気も楽だ。
(もう少し……もう少しの辛抱だ)
シーラは、真っ暗な、光ひとつない闇を見据えながら、胸中でつぶやいた。闇とともに横たわるのは絶対的な静寂だ。聞こえるのはひとりと一匹の寝息であり、彼らの安らかな寝息こそ、静寂を静寂たらしめている。小さな音が、静けさを強調するのだ。
シーラは、顔を横に向けた。闇の向こうに彼がいる。少し遠く、少し、近い。微妙な距離感。
広い部屋に寝台はひとつ。新婚夫婦なら当然だとでもいわんばかりの部屋に案内されたときは、エスクの悪意を感じなくもなかったが、演じている以上、仕方のないことだ。それに、エスクにはシーラとセツナが偽装夫婦だということは伝えてはいない。セツナの正体は、隠す必要がある。彼の正体が明らかになれば、エスクも黙ってはいないかもしれないからだ。
セツナはガンディアの領伯であり、黒き矛の英雄だ。それほどの人物がシーラのためとはアバード国内に潜入しているとなれば、騒ぎにならないはずがなかった。
(セツナ……)
シーラは、布団の中で反転すると、這って、彼に近寄った。セツナの枕にはラグナが丸くなって寝ているはずであり、彼を手で踏みつけたりしないように気をつける必要があった。そして、物音で起こさないよう、細心の注意を払う。
セツナの寝顔が見たかった。
作戦決行は明日。
夜が明けたら、もう二度と、彼の寝顔を見ることはできない。
(もう、二度と)
こんな一時は訪れ得ない。
覚悟とはそういうものであろう。
シーラは、セツナの寝顔の相変わらずな幼さに苦笑さえ浮かべて、それだけで満足した。これ以上はいらない。これ以上を求めれば、きっと、迷ってしまう。迷いは、躊躇いを生む。躊躇いは、足を止めてしまう。
足を止めるわけにはいかない。
足を止めては、今日まで走り続けた意味がなくなってしまう。
なにもかも、台無しになってしまう。
シーラは、元の場所に戻ると、瞼を閉ざした。瞼の裏には、いくつかの顔が浮かんで、消えた。レナ=タウラル、セレネ=シドール、数十人の侍女たち。皆、シーラを生かすため、シーラの代わりに死んでいった。シーラが生き抜くことが彼女たちの望みであり、そのための代償として、死んだ。
彼女たちの死を無駄にしないためには、シーラは生き抜かなくてはならない。
生きて、生きて、生きて、生きて――なんとしても、生き抜かなくてはならないのだ。
泥水をすすろうとも、どのような境遇に落ちぶれようとも、誇りを失い、我を忘れたとしても、生き続け、その上で死ななければならないのだ。しかし。
(すまねえ、レナ、センセ。みんな……)
これ以上生き続けても犠牲が増えるだけならば、自分のために血が流れ続けるというのならば、命を差し出すよりほかはないのではないか。
シーラは、夢の淵でレナの声を聞いた気がした。
彼女はシーラの決意を認めてくれたのかもしれない。
優しい声だった。
いつものように優しく、穏やかな声だったのだ。
ゼーレ=ウィンドウは、ウィンドウ一族の人間としてこの世に生を受けた。
ウィンドウ一族は、アバード王国領センティアの名士として知られ、センティアの住人に尊崇されている。センティアの住人にとっては、王家よりもウィンドウ一族のほうが優先順位としては上であることが多い。数百年来、センティアの実質的な支配者として君臨しているのだから、当然といってもいいのだろう。行政手腕も悪くなく、センティアを地方都市からアバード国内における主要都市の一角にまで押し上げたのは、ウィンドウ一族の力によるところが大きい。その恩恵はウィンドウ一族のみならず、センティアの人々も多大に受けており、センティア市民はますますウィンドウ一族を尊敬するようになった。
そんなウィンドウ一族に生まれたゼーレ=ウィンドウは、しかし、生まれながらにして不遇であった。彼の双子の兄キーン=ウィンドウが生まれながらにして才能に満ち溢れた人物であったこと、前当主にして実の父であるコール=ウィンドウがキーン=ウィンドウを溺愛したこと、そしてキーン=ウィンドウが二十代前半にして不世出の政治家として頭角を現し、彼の才覚こそがウィンドウ一族に必要不可欠だと判断されたことが、彼の人生を決定づけた。
ゼーレ=ウィンドウは、必ずしも才覚のない人間ではない。むしろ、半端に才能を持ち、自分の実力を自覚してしまったがために、不幸になってしまったのかもしれない。自分の実力を知るということは、双子の兄であるキーン=ウィンドウとの力量の差を知るということであり、その絶望的なまでの差を理解した時、彼は自分が生まれてきた意味のなさを知った。
以来、彼はキーン=ウィンドウの命令に唯々諾々と従うだけの人形と成り果てた。キーンに従っていればなんの問題もなかった。余計な考えを差し挟む必要はなかったし、自分なりの工夫や考えを入れた結果、失敗するなど考えたくもなかった。だから、彼はキーンの言いなりになった。そして、それで良かったのだ。ウィンドウ一族は、キーンの才覚によっていままで以上に上手く立ち回り、アバードでの発言力を歴史上最大にまで高めた。
キーン=ウィンドウの声望だけが高まったが、彼の人形に過ぎないゼーレには関係のないことだった。ゼーレは、キーンのいいなりでよかった。いいなりでも、それなりにいい思いもしている。妻を娶ったのも、キーンの命令だった。命令通りに結婚した結果、人並み以上の幸福を感じることもできた。それはつまるところ、キーンの操り人形生活も、決して不幸ではないということだった。
そんなゼーレの人生に転機が訪れたのは、ついひと月あまり前のことだ。
『シーラ様を救いに行く』
ゼーレは、いつもは多少なりとも理解できた双子の兄の考えがまったくわからなかったことに困惑した。
四月上旬のことだ。
今年の頭に始まったクルセルク戦争が連合軍の勝利で終わったという報せがアバード全土を沸き立たせた。アバード周辺を震撼させた魔王軍が解体され、クルセルクが実質的に滅亡したのだ。特にアバードはクルセルクの隣国であり、センティアは、クルセルクとの国境に近い都市だった。いつ魔王軍が攻め寄せてくるのかわかったものではなく、戦々恐々とした日々と送っていた。そんな恐怖から解放されたのだ。歓喜の声で地が満ちるのは当然だったし、連合軍には獣姫ことシーラ・レーウェ=アバード率いるアバード獣戦団も多数参加し、素晴らしい戦果をあげていた。特に国民的人気を誇るシーラの活躍は、アバード全土を熱狂の渦で包んだ。
ゼーレもまた、シーラの活躍を自分のことのように喜んだ。
ゼーレは、シーラ姫を心から尊敬し、心服していた。不遇な身の上を自分と重ねていたところもあるのだろう。シーラ姫の人生は、王家の都合に振り回された人生といってもよかった。王女として生まれながら、王子がいないため、王子として育てられた彼女は、王子が生まれると、途端に王女に戻らなければならなくなった。それでも彼女は腐らなかった。それどころか、それまで以上の光彩を放ち始めたのだ。
王女でありながら、だれよりも数多くの戦場に立ち、アバードに勝利をもたらしてきた。そんな彼女を嫌いになるものなど、そういるものではない。むしろ、数多くの国民が、彼女を支持し、尊敬し、愛した。
クルセルク戦争後、シーラ女王待望論が巻き起こるのも、必然だったのかもしれない。国民は無邪気なものだ。他愛もなく、他意もない。シーラの不遇に同情しながらも、彼女がその不遇をものともせず、国のために全身全霊を以って戦うから、応援しているに過ぎない。そこになんの思惑もなければ、王宮への反発があるはずもなかった。セイル王子が憎いわけでも、リセルグ王に反感を抱いているわけでもない。民を動かしていたのは、至極単純な理由だ。シーラが好きだというただそれだけなのだ。
故に、その結果、シーラが苦境に立たされるなど、想像してもいなかった。
シーラは、断崖に追い込まれたのだ。
女王待望論の加熱は、予期せぬ状況を作った。シーラの王都への帰還が拒まれ、シーラは、ラーンハイルの招きによってタウラル要塞に入った。その瞬間から、タウラル要塞はシーラ派と呼ばれる貴族、軍人たちの拠点となり、シーラ派筆頭ともいえる双角将軍ガラン=シドール、傭兵騎士ラングリード・ザン=シドニアなどが続々とタウラルに入った。
キーン=ウィンドウもそのひとりだった。
ゼーレは、キーンがタウラル行きを宣言したとき、兄が視界を失ったのだと想った。
キーンが生粋のシーラ派だということは前々から知っていたし、ゼーレ自身、シーラのことが嫌いではなかった。むしろ、ゼーレはシーラの不遇っぷりに親近感を抱き、彼女がその不幸な身の上をものともせずに戦い抜く様には、ただただ感動を覚えたものだ。シーラ派に体半分浸かっているといってもいいくらいには、シーラ姫を応援してもいた。熱を入れすぎなければ問題はない――ゼーレはそう判断し、キーンに忠告もしなかった。
しかし、ゼーレの判断は、間違っていたといわざるをえない。
キーンは、熱狂的なシーラ主義者となり、女王待望論の支持者となっていったのだ。そんなキーンの影響によって、センティアという都市全体がシーラ派に染まるまで時間はかからなかった。元々、シーラの国民的人気は圧倒的だ。セイル王子がどれだけ明敏で、将来に期待が持てるといってもまだ八歳であり、二十年以上も前から国民の前に姿を見せてきたシーラとは年季が違う。そしてなにより、シーラには実績がある。セイル王子誕生以来、率先してアバードを守り続けてきたという事実は、アバード国民の心に訴えるものがあるのだ。そして、ガンディアとの繋がりを強化し、連合軍に参加、クルセルク戦争の勝利に貢献したということもある。そういった物事の積み重ねが、シーラ女王待望論の論拠となり、アバード国内を席巻したのだが、その反響の大きさが王宮の反発を招いたのだからやりきれない。
キーンは、私兵を連れて、タウラルに向かった。すぐに戻ってきたものの、情勢の悪化に伴い、またしてもタウラルに向かい、今度は戻っては来なかった。双角将軍ガラン=シドールやシドニア傭兵団とともにエンドウィッジに赴き、王国軍との戦いに参加したという。
キーン=ウィンドウは戦死した。
ゼーレにウィンドウ一族当主の座が転がり込んできたのは、そんな理由だった。もちろん、喜んでなどいられない。ウィンドウ一族は、キーンの愚かな行動とシーラ派の壊滅に伴い、苦境に立たされたからだ。
ゼーレは、シーラ王女の処刑が公表された直後、王都バンドールに向かい、王宮にキーン=ウィンドウの暴挙を謝罪した。ウィンドウ一族は王家に忠誠を誓うと宣言し、一族への処分の軽減を願い出た。シーラの処刑直後だったのが功を奏したのだろう。ゼーレの願いは聞き入れられ、ゼーレ以下、シーラ派に関わりのないウィンドウ一族への処分は保留とされた。センティアの支配者としての地位は返上しなければならなかったが、シーラ派として処分されるよりはましだと思うしかなかった。
それからしばらくしてのことだ。
ラーンハイル・ラーズ=タウラルとその一族郎党を公開処刑すると王宮が発表した。ゼーレが驚愕したのはいうまでもない。
タウラル領伯であるラーンハイルが処刑されるのは、わからなくはない。ラーンハイルは聡明な人物で、アバード有数の政治家だ。アバードにはなくてはならないとされるほどの人物だったが、タウラルに隠棲するようになって以来、国政に口をだすことはほとんどなくなっていた。そんな人物が処刑されることになったのは、彼の領地であるタウラルがアバードに混乱をもたらしたシーラ派の拠点となったからにほかならない。
エンドウィッジで戦いが起きたのも、王国軍の拠点となったヴァルターとシーラ派の拠点であるタウラルの中間地点がエンドウィッジだったからだ。
拠点を提供し、あまつさえシーラ派の指導者として振る舞っていたというラーンハイルを処分しないわけにはいかない。有用な人材だが、処刑しなければ示しが付かないという王宮の判断は、理解できなくはなかった。
シーラ派最後の大物とでもいうべきラーンハイルを裁くことは、おそらくアバード国内で息を潜めているであろうシーラ派の残党にとどめを刺すということでもある。
だから、ゼーレは、ラーンハイルの処刑そのものには驚かなかったし、動じなかった。だが、彼の一族郎党も連座して処刑されるとなると話は別だ。一族郎党ということは、シーラ派とは無縁の子女まで処刑するということであり、それはつまりシーラ派への見せしめ以外のなにものでもないということだ。シーラ派として活動した人間は、一族郎党も皆殺しにするという決意を表明した、ということであり、アバード国内を震え上がらせたのは言うまでもない。
ゼーレもまた、震え上がった。
タウラル一族が処刑されたつぎは、ウィンドウ一族が処刑されるかもしれない。
ウィンドウ一族は、処分保留の判断がくだされた。だが、考えて見れば、保留にされただけなのだ。処分がこれからくだされることだって十分ありうる。しかも、タウラル一族の公開処刑は、このセンティアの闘技場で行われるのだ。
センティアの闘技場は、ウィンドウ一族の戦士長を決めるために作られた戦闘場が元となっている。神聖な場所といっても過言ではないし、闘技場として一般に解放されるようになってからも、その神聖さは失われてはいないはずだった。そんな神聖な空間を処刑場とするということは、血によって穢すということであり、暗にウィンドウ一族もいずれ処分するということをいっているのではないか。
ゼーレは、庭の池に映り込む自分の顔の表情の酷さに嘆息さえ浮かべた。水面に映り込む青空よりも青ざめているのは、想像に難くない。今朝も、妻に心配されたものだ。日に日に顔が青くなっていっているらしい。
「やっほー、ゼーレちゃん元気―?」
突如として聞こえてきた呼び声に、彼はその場でこけかけた。危うく池の中に飛び込みそうになりながら、なんとか踏み止まって声の方向に顔を向ける。ウィンドウ家本邸の前庭は、広い。その広い前庭に入ってくるには門兵の了解を得なければならないのだが、門兵の了解を得るということは、ゼーレの了解を得るということも同義である。ゼーレが知らない人間がこの屋敷の敷地内に足を踏み入れることなどできないということだ。
が、声の主は、ゼーレの了解もなく前庭に踏み込んできていた。本日、客人が来る予定はまったくなかったし、突然の訪問者は断るように門兵に言いつけてあった。王宮からの使いならともかく、それ以外の人間と会う気にはなれなかった。
つまり、不法侵入であるが、彼は相手を見て納得した。長い黒髪を後ろでひとつに束ねた男。見知った顔だ。シドニア傭兵団の“剣魔”。
「……エスク=ソーマか」
ゼーレが渋い顔をすると、彼は軽く片手を上げて挨拶してきた。
「よっす」
エスク=ソーマの皮肉げな表情は、いつ見にも不愉快にならざるを得なかった。