第九十五話 戦場混沌(後)
ランカイン=ビューネルのグラード=クライドとの戦闘が半ばお預けになったのは、赤騎士と彼が接触する寸前、ふたりの間合いのちょうど真ん中辺りに突如として化け物が出現したからだ。漆黒の獅子を思わせる巨大な皇魔。
ギャブレイトと呼称される皇魔は、両者がほぼ同時に繰り出した攻撃をまともに喰らって悲鳴を上げた。全長三メートルを優に超す巨躯だ。接近すれば、攻撃を外すことはないといってもいい。ランカインほどの熟達者にもなれば、だが。
ランカインは、先制の一撃が思わぬ横槍によって妨げられたことに苦笑を漏らした。一先ず馬を走らせて距離を撮り、ギャブレイトがなにが起こったのかわからないといった風に首を横に振るのを眺める。そうしたいのはこちらのほうだったが、人語を解さぬ皇魔に言ったところで仕方あるまい。
地竜父の刃は刃毀れ一つしていないが、血や油がついている様子もなかった。直撃だったはずだが、どうやら皇魔の外殻を破砕しただけのようだ。胴体の分厚い部分に叩きつけてしまったのだろう。
それも仕方のないことだった。攻撃対象はグラード=クライドであったはずなのだ。地竜父による岩壁を砕いた赤騎士は、馬に飛び乗ってランカインに迫ってきたのだ。強力な兵器たる武装召喚師を真っ先に狙うのは定石。その定石通りに突貫してきた赤騎士を迎え撃つのは、ランカインとしても悪くはない趣向だと思った。
そして、ふたりを乗せた馬が交錯しようとした寸前、その不可思議な現象は起きた。虚空が歪み、皇魔が姿を現したのだ。召喚とは明らかに違うものだということは、ランカインにはわかった。術式も見えなかったし、なにより、生物を召喚する方法など発明もされていなければ、確立されているはずもないからだ。
まるで何処かから転送されてきたかのような化け物の出現は、彼らの周囲に凄惨な戦場の臭いを立ち込めさせた。むせ返るような血の臭い。うんざりするほどの死臭が、ランカインの意識を染め上げる。哄笑さえしたくなるような気分だった。夢見心地とはまさにこのことで、だからこそ昂まる気持ちを抑えるのに精一杯だった。
戦場で意識を失いかけるほど高揚することなどあってはならない。我を忘れてはならないのだ。でなければ、死を振り撒くこともできなければ、死を感じることさえできなくなる。それに狗が狗であることをやめるなど、あってはならない。
つぎに彼の耳を踊ったのは喧騒だ。戦場の熱気と狂気が、彼の周囲に降って湧いたように渦巻いた。皇魔と赤騎士の動向に注意を払いながら視線を巡らせると、ガンディアの兵士たちが呆然と立ち尽くしていた。身に纏った甲冑と、その下に着込んだ服装からそれとわかる。正規兵のみに支給される戦闘服と軽装の鎧。潤沢な資金は、ガンディアの数少ない強みだった。
「これは……」
ランカインは、即座には状況を飲み込めなかったが、ひとつだけわかったことがある。武器を手にした兵士たちは、赤騎士との戦いの邪魔をした皇魔と戦っていたのだ。たった一体に寄って集って、とは思わない。相手が相手だ。ギャブレイトは皇魔の中でも特に大型であり、その戦闘力もほかとは比べようがないくらいに高い。武装召喚師でも実力次第では苦戦を強いられよう。
兵士たちが力を合わせてもそう簡単に倒せないのは道理だった。被害を抑えようとすればなおさらだ。そうして、ここに現れた。経緯はわからないし、原理を考察することもできないが、現実としてランカインの周囲に出現したのだ。それだけが事実であり、疑問を差し挟む余地はない。
何らかの方法で転移してきたに違いないのだが、その原因を特定しているほどの時間はなかった。
ふと、彼は皇魔に動きがないことに気づいたのだ。
ギャブレイトの全身を覆う外殻の表面に、葉脈のような光の筋が走っていた。無数の光線は、ギャブレイトが全身のエネルギーを一点に集中させる際に生じる現象であり、光の流れは獅子の口腔へと向かっていた。膨大なエネルギーの収束が予感させるのは、壊滅的な力の拡散。
ランカインは、咄嗟に馬を走らせながら、周囲の兵士たちに聞こえるくらいの大声を上げていた。
「伏せろっ!」
爆発の光が目を焼き、音が耳を塞いだ。衝撃波が背中を強打し、全身を突き抜けた。馬の悲鳴は聞こえなかった。聴覚がやられたのだから当然だが。エメリオンにもしもの事があればオリスンに合わせる顔がない――中空に投げ出されながら、ランカインはそんなことを考えていた。全身が悲鳴を上げている。莫大な破壊の力が嵐のように駆け抜けていったおかげで、体中がぼろぼろになってしまった。
受身こそ取れたものの、落下の衝撃は追い打ちとなって彼の意識を苛んだ。嘲りのような雄叫びが聞こえた気がする。皇魔ギャブレイト。他に気を取られていていい相手ではなかったということだ。無論、注意はしていたが、まさか皇魔が自分へのダメージを顧みず、あのような行動に出るとは考えられなかったのだ。
自爆に等しい。
ランカインは、痛む体で無理矢理に起き上がると、近くに落ちていた手斧を拾い上げた。地竜父。吹き飛ばされた時に手から離れてしまっていたようだ。視覚は未だに正常化してはいなかったが、感覚だけでその場所を特定するのは難しいことではない。意思を持つ武器は、時として自分の居場所を伝えてくれるのだ。
手斧を構えながら、皇魔の殺気がこちらに集中していることを察する。グラード=クライドは眼中にないのか、それともいまの爆発で無力化してしまったのか。どちらにせよ、厄介なことには違いない。ランカインは、常に赤騎士の動向に注意を払いながら、大型の皇魔と戦わなければならない。
が。
「やるじゃあないか」
回復していく網膜が彼の脳裏に投影したのは、黒き獅子の巨体が、赤騎士の一撃によって粉砕される光景だった。赤熱を帯びた拳が漆黒の外殻を貫き、化け物をして絶叫させたようだった。音は聞こえない。耳はまだ、イカレたままだ。
グラードは、ギャブレイトの爆発に巻き込まれた様子さえなかった。あの爆発から逃れる手段を持っているという情報だけで、警戒するに足る。ランカインは、口の端に笑みを浮かべた。魂が震える。死の音が聞こえる。これでこそ、狗になった甲斐があったというものだ。
男が、皇魔の巨体を踏み越えてきた。獅子に反応はない。絶命したのだろう。
「我はグラード=クライド。ログナーの戦士なり。そしてこれは我が友の形見。名はディープ・クリムゾン」
男の声ははっきりと聞こえた。なぜかはわかっている。聞きとどめておかなければならないからだ。戦士の名も、その口上も、記憶に刻みつけなければならない。勝負は一瞬。なればこそ、意味があり、価値がある。
故に、彼も口を開くのだ。
「俺はカイン=ヴィーヴル。ガンディアの狗さ。これは地竜父。他人に教えるのは久方ぶりだがな」
ランカインは偽名を告げることに抵抗はなかった。偽名とはいえ、ガンディアに支配される限りはこの名前であり続けるのだから、本当の名前といっても差し支えはない。
グラードの目が鈍く光った。あのとき、真紅の甲冑が発光しているように見えたのは気のせいではなかった。事実、ランカインと対峙する男の鎧は、淡い光を発していた。召喚武装。ディープ・クリムゾンという名は純粋にその見た目から付けられたように思われるが、それも憶測に過ぎない。能力の詳細は不明。分厚い岩壁を粉砕し、皇魔の強固な外殻を貫いた攻撃力は、恐ろしいものがある。
まともに食らえば即死間違いない。
(面白い)
ランカインは、セツナを見出した時とは違う昂揚感に包まれるのを認めた。あれとは違うのだ。あれは特別なものだと認識せざるを得ない。
黒き矛のセツナ。
ふと、彼こそが、この状況を生み出しているのではないかと閃き、そしてそれが正解に違いないと思い至ったとき、ランカインは、狂喜の笑みを浮かべながらグラードに飛びかかっていた。
いったい何が起こったというのか。
弾かれるような感覚とともに前方の風景が歪んだ。と、思ったのも束の間、化け物の咆哮と兵士たちの掛け声が聞こえ、血飛沫が彼の視界を彩ったのだ。周囲の敵兵とは趣の異なる掛け声は鬼気迫るもので、自分たちの命を守るために全身全霊で事に当たろうとするものたち特有の迫力があった。勇猛を駆り立てる戦場の狂気とは明らかに違うものだ。
ルクス=ヴェインは、シグルド=フォリアー、ジン=クレールら傭兵集団《蒼き風》の面々とともに戦場の最前線にあった。前線を維持するのではなく、押し上げるための突破口を開くために敵陣へと突入した団長の尻を追ったがために敵兵に囲まれるという状況に至ったわけだが、彼はむしろそれを喜んでいた。
膠着状態を維持したまま機を窺うというやりかたは、どうにも彼の性に合わない。
突撃隊長という肩書きは半ば飾りのようなものなのだが、戦場における彼の性格を表したものであるとも言えた。ルクスはとにかく先陣を切って突っ込むのを得意とした。長剣を振り回すには周りに味方のいない状況が一番だから、というのが主な理由だったが、戦果を上げるためにもそれがもっとも効率的だと彼は思っていた。
だが、今の状態では長剣を自由に振り回すことはできない。もちろん、突き主体で戦えばいいし、味方に当たらないように剣を振るうことくらい余裕ではあるのだが。周囲に味方がいると、重荷に感じてしまうのだ。自由に力を振るえないのは、彼のような人間にとって苦痛でしかなかった。
そして、異変である。
戦場の真っ只中で起きた異変は、敵味方関係なく大きな混乱を呼んだ。大小無数の皇魔が出現したのだ。混乱しない方がどうかしているのかもしれない。
「そう思いませんか?」
「なにがだ」
「だって、俺もだんちょーも冷静ですし」
「あん? こんなときこそ冷静にならないでどうするよ」
「それもそうっすけど」
シグルドのにべもない反応に彼は口先を尖らせながら、視線を走らせる。出現したのは皇魔と、ガンディアの兵士たちだ。どこからどうやって現れたのかはわからない。空間転移というやつかもしれない。そういう能力を持った召喚武装の存在を、ルクスは知っている。とはいえ、噂程度の知識でしかないが。
空間を渡り、時間さえも跳躍するというそれは、魔人と恐れられる武装召喚師アズマリア=アルテマックスの召喚武装ゲート・オブ・ヴァーミリオンのことだ。しかし、魔人がこの戦争に介入してくるとも思えないし、介入したとして、どうしてガンディアの兵士たちを転移させたのかは不明だ。それをいえば、皇魔を乱入させる意味だって理解できないが。
皇魔は大型のものから小型のものまでいる。金色の鬣を持つ黒獅子ギャブレイトを筆頭に、赤戦鬼、青戦鬼、雷鉈獣と皇魔の大盤振る舞いもここまで来ると笑えてくる。戦争どころではなくなるのは当然だった。皇魔に怯んだ敵兵を殺して戦果をあげたとして、次の瞬間皇魔に殺されては意味がない。皇魔にとっては人間すべてが敵なのだ。
大気が震えるほどの濃密な殺気が、戦場に満ちた。悲鳴が聞こえる。状況を理解したらしい黒獅子が動いたのだ。尾の一閃が、ギャブレイトの周りにいた兵士たちを根こそぎ薙ぎ払った。血煙が上がり、皇魔の周囲に空白が生まれる。兵士たちが距離を取ったのだ。盾を並べ、鉄壁の陣形を構築すると、後方から矢の雨を浴びせる。だが、豪雨のように降り注いだ矢も、皇魔の外殻に傷をつけることさえ適わない。
「出番かな」
ルクスは、グレイブストーンを構え直すと、碧く澄んだ湖面のような刀身を見つめた。ギャブレイトの厚い装甲を貫くにはただの武器では難しい。その点、グレイブストーンはうってつけといえた。鉄の鎧さえ紙くずのように切り裂く強力な召喚武装。
背中が叩かれる。
「行ってこい。精々派手に暴れてくるんだな」
「いいんですか?」
ルクスは、きょとんと後ろを振り返った。思っても見ない返答にどう反応するべきか迷った。シグルドの野性味溢れる顔は、こちらを見て笑っている。彼の笑顔を見るだけで、ルクスの心は踊った。力が湧いてくるのは気のせいではない。きっと、シグルド=フォリアーという人物にはそういう力が備わっているのだ。
「お味方に被害が出ている以上、見過ごすわけにもいかないだろ。なあに、こっちはこっちで上手くやるさ」
「あれほどの大物となるとこちらも被害を覚悟しなければならないが、君が一人でやるというのなら問題はない」
「それって」
「信頼しているってことさ」
ジン=クレールにまで肩を叩かれて悪い気はしなかった。団長と副長の厚い信頼に応えなければならない。でなければ、突撃隊長などという肩書きは返上するべきだ。もっとも、そんなものがあろうとなかろうと、ルクスは彼らの信頼には全身全霊を以て報いるつもりだった。が、口をついて出たのは感情とはまったく別の言葉だ。
「やりますよ、やればいいんでしょ!」
それこそ吐き捨てるように告げて、ルクスは、ギャブレイトに視線を戻した。背後で呆気に取られているであろうふたりを放置するように動き出す。周りの敵はこちらを警戒しながらも、戦場の各地に現れた皇魔への対応にも追われている。自軍も同じだ。傭兵たちだって変わらない。だが、シグルドは皇魔対策をルクスひとりに任せた。ということは、《蒼き風》はこの混乱に乗じるつもりだ。
(戦功を荒稼ぎか)
この状況では敵軍もまともには動けまい。だからこそ、好機なのだ。無論、皇魔には敵も味方もない。傭兵たちもほかの兵士たちと同様、ただの餌にしか見えていないだろう。接近されれば交戦するしかないが、それまでは黙殺していても構わない、というのがシグルドの考えなのかもしれない。
ブリークやベスベルといった小型、中型の皇魔ならそれで構わないだろう。が、ギャブレイトのような大型の皇魔を放っておけば、味方に甚大な被害をもたらしかねない。どれだけ戦功を積もうと、自軍が崩壊しては意味がない。
ルクスは、黒き獅子が上げる咆哮によってその包囲網が緩むのを見ていた。ガンディアとログナーの兵士たちによる共同戦線。敵味方関係なしに殺されるのを目の当たりにすれば、そうなるだろう。だが、ここは戦場。仲良くしていられるのも今のうちでしかない。
共通の敵を倒した先に待つのは更なる混乱だろう。
この状況を利用するのは賢い選択と言えるのかもしれない。
(まあ、ともかく)
ルクスは、地を蹴って飛躍した。包囲網を一足飛びに飛び越えて、皇魔の眼前に躍り出る。獅子の注意が一瞬にしてこちらに向いた。これでいい。
「ひとさまの戦争の邪魔をするんじゃあないよ」
ルクスは、獅子の機先を制するように切っ先を突きつけた。