第九百五十四話 五月二十日(一)
五月二十一日。
シーラたちが龍府を発って、およそ十日が経過している。
その間、難所といえたのは、ガンディア・アバード間の国境の突破と、シーゼルへの進入くらいのものだ。酒場《銅の揺り籠》で傭兵たちと戦うことになったのも、難関といえば難関ではあったものの、武装召喚術の使い手であるセツナがいる以上、負ける要素はなかったといえる。もっとも、傭兵たちに絡まれた直後は、セツナが黒き矛以外の召喚武装が使えるとは思ってもいなかったため、苦戦は覚悟したし、場合によってはハートオブビーストの力を借りることも考えたのだが。
シーラは、寝台の下に置いていたハートオブビーストの入った布袋を見遣りながら、いまさらのように安堵の息を吐いたりした。ハートオブビーストの力を借りずに済んで良かったと、心の底から思っていた。ハートオブビーストは、血を媒介にして能力を発揮するという召喚武装だ。その能力は強力無比なのだが、平時において発動条件を満たすことは難しい。
もっとも、あの状況では、能力を使う必要はなかった。ハートオブビーストを握り、その補助を得るだけで、酔い潰れた傭兵を蹴散らすことくらいは難しくもなかっただろう。しかし、暴れ回るということは、正体を隠し通せなくなる可能性も秘めていた。頭巾が脱げる可能性が高い。頭巾を庇いながら戦うとなると、さすがに苦戦せざるを得ないだろう。
苦戦をせずに済んだのは、セツナがひとりで解決してくれたからだ。
セツナは、いま、寝ている。
広い部屋にひとつしかない寝台の上、シーラは彼の隣にいた。いや、隣といっていいのかどうか。寄り添って寝なければならないほど狭くはないし、セツナが寝台の端で寝ているため、彼女と彼の間に大人二人入れそうなは空白が横たわっている。
シーゼルにきた最初の夜は、疲れていたこともあってか、ふたりとも、なんの問題もなく寝台で寝た。もちろん、ラグナもだ。小飛龍はいま、セツナの枕で丸くなっている。
どぎまぎしたのは翌朝だった。寝息に起こされて目を開くと、セツナの顔が間近にあったのだ。鼻息がかかりそうなほどの距離とはまさにこのことであり、シーラは、しばらく頭の中が真っ白になったものだ。思考が回復したのちも、すぐには離れず、しばらく彼の寝顔を観察していたのだが。
寝台の上を這って移動し、セツナに近寄る。彼は寝入っている。時計は午前六時を示していた。彼の起床時刻には少しばかり早いのだろう。そういえば、昨日も、彼が起きてきたのは八時を過ぎた頃だった。
シーラがセツナの顔を覗き込むと、枕の上のラグナが反応した。寝台がわずかに軋んだことで起こされたのかもしれない。龍の瞼が開き、宝石のような目がこちらを見た。こちらを見て、あくびを漏らして、また目を閉じた。シーラだとわかって安心してくれたのかもしれなかった。ラグナは、セツナと打ち解けるのも早かったが、シーラのことを受け入れるのも早かった。万物の霊長たるドラゴンともなれば、卑小な人間を受け入れることなど大したことではないのかもしれない。
そこまで考えて、彼女は小さく笑った。まるでラグナの言いそうなことだったからだ。尊大で傲岸なのに愛嬌の塊でしかない小さなワイバーンは、いまのシーラにとってなくてはならない存在になりつつあった。彼の言動のひとつひとつが、荒んだ心を癒やしてくれた。万物の頂点に立つ存在だと言い張りながら、セツナに甘える姿は愛らしいというしかないのだ。そういう心境になれるということは、シーラがまだ自分を見失っていないという証明であろう。
もちろん、セツナも必要不可欠だ。
彼の寝顔を見下ろしながら、シーラは微笑んだ。屈託のない寝顔は、彼が竜殺しや魔屠りと呼ばれる存在とは思い難かった。歳相応ともいえない。十八歳といえば国によっては成人といっていい年齢なのだが、いま、シーラの眼前にある人物の寝顔は、年端もいかない少年のそれだった。
彼の寝顔を観察しながら思うのは、セツナという人間の持つ数多の顔だ。ひとつは、この無垢な少年のような寝顔。寝ている時だけ、彼は子供のような顔になる。ひとつは、寝顔からは想像もつかない戦士としての顔。数多の死線を乗り越えてきた猛者の顔は、百戦錬磨の傭兵さえもたじろがせるほどに鬼気迫るものだ。そして、普段の顔。これもまた、少年的ではある。顔つきが年齢に追いついていないといっていいのかもしれないし、単純に幼く見えるだけなのかもしれない。しかし、時折見せる精悍な面構えが彼がただの少年ではないことを魅せつけるかのようだった。
シーラは、しばらくの間セツナの寝顔を観察すると、元の場所に戻った。それから寝台を降り、寝間着から普段着に着替えると、時計の針は七時を回っていた。どれくらいの時間、彼の寝顔を観察していたのだろう。ここのところの日課だが、その時間は幸福といってもよかった。ほかのことを考えなくて済むからだ。
そんな幸福な時間を満喫できるのも、後数日といったところだろう。
事が終われば、シーラはきっと、セツナの寝顔を見れなくなる。
彼の側にいられなくなる。
ほかに方法がないのなら、そうするよりほかはなかった。
これ以上、犠牲を出したくはなかった。自分のためにどれだけの人間が死んだのか。それこそ、数えきれないほどの人間が死んだ。顔も名も知らないものから、近しいひと、親しいひとまで。半身のように育ち、ともに夢を語り合ったものまで、彼女のために命を散らせた。
もう、たくさんだ。
シーゼルは、有り体に言えば普通の都市だ。
なにか特別な有名ものがあるわけでもなければ、住みにくいわけでもない。ここのところシドニア傭兵団の残党が幅を利かせていることを除けば、なにか問題があるわけでもない。そして、シドニア傭兵団が問題を起こすことなど、ほとんどないらしい。あるとすれば、彼らの屯する酒場に間違って入り込んだものが有り金全部巻き上げられるというくらいのものであり、シーゼルの住人の生活そのものには影響し得ないものだった。その上、荒くれ者集団と言っても過言ではない傭兵団の存在は、シーゼルに元々いたならず者たちを震え上がらせ、むしろ治安に貢献しているという面もあった。
シーゼルに駐屯するアバードの軍隊が傭兵団を取り締まらないのは、彼らの存在によって治安が向上したという話があるから、らしい。
シーラは、セツナやラグナが耳で集めた情報を頭の中で整理しながら、傭兵たちの溜まり場となっている件の酒場への道を歩いていた。当然、隣にはセツナがいて、セツナの懐にはラグナが隠れている。セツナは彼に宿の部屋で待っているようにいったが、ラグナが駄々をこねたため、仕方なく服の中に隠れさせているのだ。
ラグナは、どういうわけか、セツナと離れたくないらしい。彼がセツナを慕っているのは傍目にも明らかだったが、万物の霊長といって憚らないドラゴンたる彼が、なぜそこまでセツナを気に入り、片時も側を離れようとしないのかは、彼女にもわからなかった。セツナにもわからないだろう。
シーラは、いつものように外套を羽織り、頭巾を目深に被っている。長い白髪が頭巾からこぼれないよう、後ろで一つに束ね、服の中に隠していた。ハートオブビーストの入った布袋は左手に抱え、右手はセツナの手を握り、あまつさえ指を絡めあっていた。新婚夫婦を演じている以上、一歩でも部屋の外に出れば、常に周囲の目を気にして振る舞わなければならない。
『新婚夫婦なんて選ぶからだろ』
セツナは口先を尖らせたものだが、シーラは至って大真面目に夫婦を演じていた。結婚したこともなければ、異性と交際したこともないシーラには未知の領域でしかないのだが、演じる上で、経験はさほど関係ない。これまでこの目で見てきたものを再現すればいいだけのことだ。幸い、アバード王家には、いい手本がいた。王弟――つまり、シーラの叔父イセルド=アバードは、シーラが幼いころ、有力貴族マディア家の令嬢シダナ=マディアと熱愛の末結婚し、王宮中がその熱量に溶けるのではないかという熱々ぶりを見せつけたのだ。
シーラが結婚に憧れたのはそれが最初だった。つぎがレオンガンドとナージュの婚儀であるが、脳裏に焼き付いているのは、イセルドの結婚式と結婚生活だった。つまり、シーラはシダナを再現しているに過ぎない。
王宮の中であろうと外であろうとイセルドにくっついて離れないシダナの姿は、王都バンドールの名物となったものだ。
やがて、《銅の揺り籠》に辿り着いた。道中、シーゼル住人の目が痛かったが、それは、《銅の揺り籠》で騒ぎを起こした武装召喚師夫婦として知れ渡ってしまっていたからだ。しかし、これはこれで悪くはなかった。セツナが武装召喚師として完全に認識されたということにほかならない。セツナが武装召喚師のニーウェとして認知されることは、セツナの正体が明らかになる可能性が低くなるということであり、シーラたちにとっては願ったり叶ったりといってよかった。
もっとも、酒場での騒動がシーゼル市内に知れ渡っているということは、店内での騒ぎを外部に漏らした人間がいるということでもある。要するにシドニア傭兵団の傭兵の中に口の軽いものがいるのだ。シーラは、エスクが奥の部屋で話し合うことにした理由がそこにあるのだと睨んだ。
“剣魔”エスク=ソーマは、稀代の剣豪であり、シドニア傭兵団が誇る戦士だ。そのためなのか、団長ラングリードなきあと、団長代理として傭兵団を纏め上げる立場にある。シドニア傭兵団の残党の多くは彼を団長代理として認めているものの、彼に心服しているわけではなさそうなのだ。もちろん、傭兵としての力量は認めているだろうことは、セツナとの戦いの最中、エスクに送られる声援の熱さで伺い知れている。しかし、戦士としての力量と団長としての器は、まったく別の話なのだ。元より荒くれ者で知られるシドニアの傭兵たちを纏め上げるのは至難の業だ。
ラングリード・ザン=シドニアほどの人物でなければ、手なずけることなどおいそれとできるわけもない。ましてや、つい最近まで傭兵団の幹部のひとりに過ぎなかったエスクには、荷の重すぎる話なのだ。それでも、彼は傭兵たちが路頭に迷わぬよう、行き場を失わぬよう、シドニア傭兵団を存続させるために団長代理となり、ドーリン=ノーグ、レミル=フォークレイ配下の傭兵たちを集めた。エスク自身、団長代理などと名乗るのはおこがましいと言い張っているし、柄ではないと思ってもいるようだ。それでも、傭兵たちを一処に集めておくためには、だれかが頭領になるしかない。それには、ドーリンやレミルではあまりに力不足だ。エスクですらすべての団員を心服させられないというのに、酔っていたとはいえセツナに押し負けたドーリンや、女のレミルでは手に負えるはずもない。
だから、エスク=ソーマが団長代理を請け負った。
しかし、団長代理と部下たちは互いに反目しあっているといってもいいような関係らしく、そのことは、今日に至るまで耳に入ってきた情報によってわかった。シーラの正体が酒場で明らかになっていれば、一夜にしてシーゼル中に知れ渡っていたことだろう。その点では、エスクには感謝するしかない。彼は、少なくとも、口の軽い部下には話してはいないようだった。
昼間の酒場は、この間とまるで違う空気に包まれていた。むさ苦しい傭兵たちの姿がなかったからだろうし、一般客の姿がちらほらと見えるからかもしれないし、吟遊詩人が弦楽器をかき鳴らしていることも関係しているだろう。詩人が奏でる曲には聞き覚えがあった。獣姫戦歌。シーラ・レーウェ=アバードの勇猛な戦いぶりを詩にしたものであり、作詩はレナ=タウラルである。作曲者は不明だが、いまとなってはよく知られた旋律で、子供が口ずさんでいることもあった。しかし、一月ほど前、シーラ・レーウェ=アバードが処刑されたこともあり、アバード国内で歌われることなどないと思われていたのだが。
シーラは、詩人を一瞥した。派手な衣装を身に纏ったひょろ長い男は、酒場の片隅に用意された舞台の上で、ひたすらに楽器を弾いていた。目を伏せ、指先の動きだけに意識を集中している。口ずさんですらいないのは、おそらく、シーラ・レーウェ=アバードを讃える詩を歌うことを禁じられているからだろう。いや、まだ禁じられてはいないかもしれない。自重していると考えるべきだ。
シーラ・レーウェ=アバードは、反逆者として処刑された。
その反逆者を讃えるような内容の詩を口ずさめば、王宮への叛意と受け取られかねない。本人にその気はなくとも、王宮がそう判断すれば終わりだ。王宮はいま、神経質になっているはずだ。見せしめにタウラル領伯とその一族郎党を処刑するのもその現れといっていい。いま、王宮の神経を逆撫でにするような行動を取る必要はない。
とはいえ、曲を弾くだけでも危ういはずだったが、詩人は、一向にその手を止めなかった。少ないながらも酒場にいる客も、詩人の楽器を奏でる指を止めようとはしなかった。皆、目を閉じ、聞き入っているようであり、シーラは、彼らがなにを想い、獣姫を讃えるための旋律に耳を傾けているのか、気になって仕方がなかった。
店内を進むと、店員に呼び止められた。若い女の店員で、彼女はセツナの顔を覚えていたらしく、彼の空いた手を取って飛び跳ねた。傭兵たちとの戦いを見ていた上、エスクとの激闘もしっかりと見ていたといい、その戦いでセツナに惚れたと公言してきた女店員に対し、シーラは頭巾の奥から睨みつけるしかなかった。セツナの腕に腕を絡め、見せつけるように体を寄せる。嫉妬していることを主張したのだ。新婚夫婦を演じるには、重要な事だろう。
女店員は鼻白んだものの、会釈したのち、セツナとシーラを店の奥へと案内してくれた。この酒場は、エスク=ソーマの持ち物なのだ。エスクが店に出張ることなどはないらしいが、店員たちには、店の主として知られており、それなりに敬われているらしい。
女店員とは、部屋の前で別れた。別れる直前、女店員はセツナに色目を使ったものの、セツナにはまったく通用しなかったようで、シーラは少しばかり溜飲を下げた。
部屋に入ると、エスク=ソーマが待っていた。彼は、長い黒髪を後ろでひとつに束ねた上、無精髭も剃っており、まるで別人と言ってもいいような精悍な面構えをしていた。しかし、表情はいつものように皮肉げに歪んでいる。
「おや、店で暴れて回ったおふたりさんじゃないですか。こんな場所になにようです?」
「……あんたが呼んだんだろ」
セツナが、嘆息とともに肩を竦めると、彼はにやりと笑った。