第九百五十三話 闇の中
レオンガンドは、闇の中で目を開いた。
真夜中。
だれもが寝静まった時刻。
時を刻む時計の針の音だけが聞こえる。正確に時を刻む音色は、むしろ静寂を静寂たらしめる要因であり、時が進む音こそ、この夜の闇を冷ややかなものにしてるのではないかとさえ思えた。
寝室。
広い寝台の上、彼はひとりだった。
妻であり妃であるナージュが側にいないのは、彼女が身重だからだ。妊娠して約六ヶ月ほどになる。もう随分お腹も大きくなっていた。安静にしなければならない。側にいてやりたいのもやまやまだったが、仕方のないことでもあった。日中、暇を見つけては彼女の寝所に顔を出すことを心がけることくらいしか、レオンガンドにしてやれることはなかった。
あと四ヶ月もすれば、子供が生まれる、という。
親になるのだ。
実感は、まだ、ない。
もちろん、幸福感はある。
ナージュが懐妊していることを知ったとき、レオンガンドはこの上なく嬉しかったし、これ以上の喜びなどないものだと思ったほどだ。そして、子を持つ父として相応しい人物になるにはどうすればいいものかと思い悩んだ。が、結局、自分は自分でしかないということがわかっただけであり、自分らしくするしかないと諦めただけだった。
父と子の関係は、よくわからない。
レオンガンドの父親は、シウスクラウドという。
かつてガンディア国民の期待を一身に背負った人物は、英傑と謳われ、英雄の風貌を持つとされた。実際、英雄然としていたのは間違いない。シウスクラウドが現在のガンディアの礎を築いたことに疑念を差し挟む余地はない。
子としても、父の背にはあこがれを抱いたものだ。
あのようなひとになりたいと想った。
だが、レオンガンドは、後になってシウスクラウドにはなるまいと決意した。せざるを得なかった。病に倒れたのちも英傑の風を失わなかったはずのシウスクラウドは、二十年に及ぶ闘病生活の中で身も心も蝕まれ、狂王と成り果てたのだ。狂王となり、怪物へとなった。
成って、果てた。
右手を掲げる。
手には、父の命を断った感触が残っている。断末魔も耳にこびりついて離れようとはしない。一年と少し前のことだ。忘れられるはずもなかった。いや、時間は関係ない。実の父を――尊敬し、愛し、目標とした父親をこの手に掛けたのだ。忘れることなどできるわけがない。死ぬまで、覚えていることだろう。
それでいいのだ。
忘れてはならない。
忘れるわけにはいかない。
この手で下した罰。
この手に刻まれた罪。
それこそ、レオンガンドがレオンガンドたる所以なのだ。
「なにを考えておられるのです?」
闇の中、女の声が聞こえたかと思うと、重力を感じた。体重。軽いものだ。軽いが、のしかかられれば多少、苦しみを覚えることもある。が、彼は、腹の上に突如として出現した女の体を振り落とそうともしなかった。見ようとも思わない。
手のひらを見ている。指と指の間、その向こう側に女の黒衣が浮かんでいる。アーリアだ。レオンガンドの影とも呼べる彼女は、ここのところ、毎夜レオンガンドの寝所に現れては、戯れに言葉遊びを交わしたりした。ナージュのいないこの期間だけが、彼女が自由に振る舞える期間といってもいいのだ。それが、アーリアにはたまらなく嬉しいのかもしれない。別段、ナージュとアーリアの仲が悪いわけではなく、むしろ、仲がいいからこそ、アーリアはナージュの前ではおとなしいのだろう。少なくとも、ナージュのいる間、アーリアがレオンガンドに寄りかかってきたことなどなかった。
手のひらの向こうの女の様子に、レオンガンドは目を細めた。いつものようにありふれた言葉を返す。
「いろいろと考えねばならぬことがある」
「まずは、王妃殿下のことでございましょう?」
「それもある」
ナージュのことを考えるのは、当然のことだ。妻であり、王妃である彼女は現在、レオンガンドの子を妊娠している。彼女の胎内で日々成長している子供のこともよく考えた。考えるからといって、なにがどうというわけもない。ただ、想い、慈しむだけのことだ。ナージュと子の存在がレオンガンドに力を与えるのもまた、事実だが。
アーリアがレオンガンドの体の上で身を伏せた。顔が目の前に現れる。どこか恍惚とした表情は、彼女がこの戯れを楽しんでいる証左なのかもしれない。もっとも、その灰色の目は笑ってすらいないし、本心はなにを考えているのかわかったものではない。案外、この戯れも、ただの作業としか認識しているのかもしれず、結局、自分と彼女はそういう関係でしかないのだと思わないでもなかった。
だからといって絶望もしない。それでいい、とさえ考えている。互いに互いを利用しあっているだけの関係にすぎない。元より乾いた関係なのだ。光と影などといったところで、真に理解しあえているとは、思えない。
「王妃殿下以外のことといえば、ジルヴェール様のことでしょうか」
「そうだな。それも大事だ」
レオンガンドは、掲げていた右手を下ろす過程で、彼女の頬に触れた。アーリアが少しばかりびっくりしたのは、レオンガンドの体温が想像以上に高かったからだろう。逆にアーリアの頬は、妙に冷たかった。さっきまで夜風に当っていたのかもしれない。アーリアにはそういうところがある。
「ジルヴェール=ケルンノール様。どのような方なのです?」
「良い男だよ。少なくとも、“うつけ”の王子よりは余程、この国のことを考えていたのではないかな」
「ですが、陛下を見限ったというではないですか」
「だからこそさ。暗愚なるレオンガンドに仕えていては、自分の志まで穢されるかもしれないからな。彼は、わたしの元を去り、ケルンノールに籠もった。しかし案外、それこそ正解だったのかもしれないとも思うよ」
「正解?」
「王宮にいれば、彼はまず間違いなく反レオンガンド派に利用されただろう」
「なるほど。側近が陛下に反目しているとなれば、利用価値は十二分にある、と」
「そういうことだ。もっとも、ケルンノールに籠もった彼をも利用しようとしたらしいが、ジルヴェールはラインスたちの誘いに乗らなかった。乗らず、ただ己を磨き続けた。ジゼルコート伯の話によれば、そういうことだ」
ジルヴェール=ケルンノールは、その名の通り、ジゼルコート・ラーズ=ケルンノール・クレブールの実子である。家督を継ぐべき第一子であり、将来、ケルンノール・クレブール領伯の役割をジゼルコートから受け継ぐ立場にある。つまり、ガンディアにとっても重要な人物であり、彼がジゼルコートに代わって王宮に入るのは、ある意味では必然ともいえた。長年王宮を離れていたのだ。王宮勤務とはどういうものなのか知っておく必要があったし、将来、領伯となったときのために人脈を作るという意味でも、重要な事だった。
さらに彼には、王宮を去ったジゼルコートの身代わりという、大切な役割がある。
身代わり。
人質といってもいい。
ジゼルコートは、自分がレオンガンドたちに疑念を抱かれているということを知っている。ベノアガルドの諜者を招き入れたという事実があり、諜者を監視下に置きながらも自由に振る舞わせていたのだ。そして、諜者を御前試合会場に招き入れただけでなく、仮面舞踏会に参加させてもいる。セツナからの報告によれば、アルベイル=ケルナーと名乗ったベノアガルドの諜者は、セツナの実態を探るためにガンディアを訪れたというのだが、目的がそれだけとは到底考えにくい。ジゼルコートとなんらかの密約をかわしているのではないか――レオンガンドたちがそう睨むのも無理からぬことだったし、諜者を招き入れたことを認めたジゼルコート本人が、そのことをいちばんよくわかっている。
そうである以上、王宮を離れることは、難しい。たとえ、影の王としての役割を果たす必要がなくなったとしても、疑念を膨らませないためには、おいそれと王宮を離れるわけにはいかなかった。レオンガンドの目の届く範囲にいることが疑いを晴らすには一番なのだ。だが、ジゼルコートは、ケルンノールに帰りたがった。彼は領伯であり、領地運営をみずからの手でやっていた人物だ。司政官任せのセツナとは違う。無論、生まれながらの政治家であるジゼルコートには領地運営などお手のものであろうし、自分の領地を国の代理人とはいえ他人に任せることなどできないという気持ちもわからないではない。さらにいえば、ジゼルコートは、クレブール一帯を新たな領地として与えられたばかりだ。クレブールの運営もみずから行おうとすれば、王宮に籠もっている場合ではなかった。
かといって、レオンガンドたちに疑われている以上、領地運営のためにケルンノールに戻る、などとはいえない。レオンガンドが司政官を派遣すれば、それで終わるからだ。そこで、ジゼルコートが出した案が、自分の代わりにジルヴェールを王宮で働かせる、というものだった。
ジルヴェールは、先も言った通り、ジゼルコートの後継者だ。王宮での役割そのものも継承させようというのかもしれないし、そのために彼に経験を積ませることは、レオンガンドとしても否やはなかった。むしろ、ジゼルコート亡き後のことを考えれば、いまジルヴェールに経験を積ませるのは必要不可欠といってもよかった。
ジゼルコートは、優秀な政治家だ。ガンディアで彼の右に出るものはいないといってもいい。政治家としても敏腕といっていいナーレス=ラグナホルンですら、ジゼルコートの手腕には舌を巻き、だからこそ今回のことで警戒心を強めている。だが、彼もまた、ただの人間であることに変わりはない。なにより高齢だ。六十半ば。死の足音が聞こえる年齢というには早過ぎるが、いずれにしても、彼もまた、死ぬ。彼が死んだ後、彼の代わりを探すのはあまりに遅すぎるのだ。
それならば、彼が存命中に後継者となるべき人間を育成するのは、的を射ているといってもいいのではないか。
だから、レオンガンドはジゼルコートの申し入れを受け入れた。ジゼルコートが領地に戻る代わりに、ジルヴェールが王宮で働くという提案は、ジゼルコートがジルヴェールを後継者として認識しているという証明でもあったからだ。
そして、ジゼルコートもまた、自分亡き後のガンディアについて考えているということでもあった。疑いは完全に拭い去れないものの、そういったジゼルコートの言動のひとつひとつは、まず間違いなくガンディアのことを考えたものであり、彼がベノアガルドと繋がってなんらかの企みを抱いているとは考え難くもあった。
「ほかには……」
囁きは、耳元で聞こえた。いつの間にか、アーリアがレオンガンドの枕に顔を埋めていた。覆いかぶさってきている。それでも、レオンガンドは彼女を邪険にしない。かといって、反応もしない。
「北のことも考えねばならぬ」
「北……アバードですか」
「龍府にはナーレスがいる。最新の装備も届けてある。問題はないのだ」
「問題はなくとも、考える?」
「そうだな。考えざるを得ぬ」
無意識に考えているといっても過言ではない。アバードのこと。龍府のこと。様々なこと。国王であるレオンガンドには、身も心も休まるときはないといっていい。ナージュといるときでさえそうだ。彼女のお腹に耳を当て、命の音を聞いているときでさえ、王としての思考が頭をもたげてくる。問題は山積みだった。
王宮晩餐会以来、考えなければならないことが増えた。
龍府からの情報が届くたび、さらに膨大化した。
セツナの領伯着任式典が盛大に執り行われ、龍府の住人に快く向かえられたこと。
シーラ・レーウェ=アバードが処刑されたものの、実は生きていて、セツナの庇護下に入ったこと。
セツナの誕生日には、ガンディア中から彼の誕生日を祝うためにひとが集まったということ。軍師ナーレス率いる参謀局の面々やガンディア軍の一部軍団長などだ。また、その日、セツナたちはワイバーンと交戦、水龍湖に壊滅的な被害をもたらしたものの勝利したという。その上、驚くべきことに、そのワイバーンがセツナの支配下に入ったというのだ。この報告には、さすがのレオンガンドも我が目を疑ったものだったし、ナーレス流の冗談ではないかと疑ったものだ。竜殺しが龍府を領地としたことを揶揄したのではないか、と考えたのだ。が、どうやら本当らしい。というのも、セツナの下僕となったというワイバーンの生態に関する報告書が届き、その報告書の中でナーレスの筆が躍っていたからだ。ナーレスは冗談でそのような報告書を送りつけてくるような人間ではない。ここのところ軽くなったとはいえ、だ。
竜殺しが龍府の支配者となり、あまつさえ飛龍を従えたという話は、瞬く間に広まっていった。いまでは、王都でさえ知らぬものはいないし、セツナの声望は高まる一方だった。救国の英雄にして黒き矛は、龍府の主にして龍の王となったのだ。
王都市民は、セツナの王都への帰還を待ち侘びているという。それもそうだろう。セツナが帰ってさえくれば、飛龍の姿を見ることもできるはずだ。
レオンガンド自身、セツナとの再会を待ち侘びた。
だが、それは当分先のことになるだろう。
セツナはいま、長期休暇中だった。彼は、従者や部下とともに龍府でしばらく過ごした後、エンジュールに下向し、それから王都に戻ってくるつもりであるらしい。
もっとも、セツナと逢うのが先になるのは、それだけが原因ではない。
(ナーレス……あなたはどこまで見ている?)
ナーレスから寄越される報告書ととともに送付される手紙には、龍府――ザルワーン北部が戦場になる可能性が示唆されていた。
それはつまり、アバードととの間で戦いが起きるかもしれないということであり、厭戦気分が満ちた情勢では、必ずしも望ましいものではなかった。かといって、準備を怠ることはできない。ナーレスからの忠告を無視すれば、痛い目を見るだけなのだ。戦いが起きる可能性があるのならばなおさらだ。
そのため、龍府およびマルウェールには、マルダールで生産された最新の武器防具を送り届けている。マルダールは、ナーレスの提案によって、ガンディア軍の軍需品の生産に特化した都市として生まれ変わりつつある。防具に関しては、バレット=ワイズムーンの父にして名工アロウ=コームスが提案した新製法を用いることで、いままでの防具より質の良い防具を大量生産することに成功している。武器もまた、ログナーの軍用刀に改良を加えたものを筆頭に、さまざまな新武器が開発、生産されている。
万が一、アバードとの間で戦いが起きたとしても、武器防具の性能で押し負けることはあるまい。
アバードとの関係がこじれることだが、これも大きな問題にはならない。もちろん、友好的な関係を続けることができるのならばそれに越したことはない。戦争続きだ。しばらくは戦いなどしたくはなかったし、内政に力を注ぎ、国力の充実を図りたいというのが、レオンガンドを始めとするガンディア政府の考えだった。
ナーレスもそう考えている。
だが、彼はどうやら、それだけに固執しているわけではなさそうだった。
彼はむしろ、戦争を起こそうとしているのではないか。
アバードに侵攻する理由を作ろうとしているのではないか。
レオンガンドは、そこまで考えて、目を細めた。寝息が聞こえていた。
(やれやれ……)
彼は、アーリアにのしかかられたまま、どうすることもできず嘆息した。