第九百五十一話 ジルヴェールの帰還(二)
王宮区画は、王都ガンディオンの中心部だ。
単に王宮と呼ばれることもあれば、王族の住居としての王宮と区別するため、王宮区画と呼ばれることもある。後者のほうが多いが、王族の住居としての王宮が獅子王宮と呼ばれることも少なくなく、完全にひとに依るとしかいいようがない。どちらも正しいのだ。
円を描く第一城壁内部に広がる領域に入ってまず視界を彩るのは、森の緑だ。王家の森と呼ばれる。銀獅子レイオーンに纏わる建国伝説によってガンディアは、獅子の国となった。銀獅子が国の象徴となり、国旗にも紋章にも銀の獅子や獅子の意匠が使われることが多い。王家の森も、そういった獅子の意匠によく似ている。王宮区画は、ガンディア王家という獅子の住む森なのだ。
(よく遊んだな……)
ジルヴェールは、王家の森を通り抜けながら、二十年ほど昔のことを思い出して、小さく笑った。ジルヴェールは、レオンガンドと同い年であり、従兄弟ということもあって、遊び友達に選ばれている。遊び友達は、王族の子女には、必要不可欠といってもいい存在であり、特別な存在だった。遊び友達は、長じて側近となるからだ。ジルヴェールも、レオンガンドの片腕となることを期待された。先の王シウスクラウドからも目をかけられたし、父であるジゼルコートからも、レオンガンドに人生を捧げよと強くいわれたものだ。
そして、それが自分の人生なのだと、彼は想っていた。
レオンガンドやハルベルク、リノンクレアとともに王家の森を走り回った日々。シウスクラウドが英傑然として君臨し、輝かしい将来をだれもが信じて疑わなかった。ジルヴェール自身がそうだったし、ジゼルコートもそうだった。
皆、シウスクラウドに光を見ていた。
太陽が消えてなくなることなど、だれが想像するだろう。
それと同じようなことが起きた。二十年も前の話だ。いや、シウスクラウドが病に倒れたときは、まだ良かったのだ。病は治る。病は克服しうる。また立ち上がり、人々を導いてくれる。英雄とはそういうものだ。ただ一度病に倒れたところで、希望は消えない。光は失われない。
太陽は燃え尽きない。
だが、現実は、違った。
太陽は燃え尽き、王家の森は日が落ちたように暗くなった。
王宮が静寂に包まれたのは、いつだったか。
王家の森が生み出す光と影の中を進みながら、ジルヴェールは考える。どうでもいいことではない。彼の根幹をなすことだ。王宮が沈黙に抱かれ、希望も光も失われたのは、いつだったのか。悲しみに覆われ、嘆きを聞かない日がなくなったのは、いつだったのか。
レオンガンドが暗愚の仮面を被り、ジルヴェールさえも欺き始めたのは、いつだったのか。
森を抜けると、王宮区画の建物が見えてくる。無数の壮麗な建物は、ほとんどがガンディアの王侯貴族の住居だった。ガンディアの貴族の大半はガンディア王家の血筋だが、中には、ガンディアとは無縁の家もある。かつて小国家群で栄華を極めたサンシアン家がその筆頭であり、半年前、暗殺未遂事件の首謀者を疑われたログナー家や、ザルワーンの五竜氏族、ミオン家なども名を連ねている。
それら貴族の住居は、どれも目を引くほどに豪華であり、数年ぶりに王宮区画に足を踏み入れたジルヴェールは、ただ呆れる想いがした。
ケルンノールは、ガンディアでも田舎といってもいい場所であり、彼の住んでいた屋敷など、王家の森にある蔵にすら負けるほど貧相といってもよかった。それは単純にジゼルコートが吝嗇家であり、屋敷などひとが住めれば十分だという認識があるからに他ならない。住居として最低限の要素が揃っていればいいという彼の考えをなんとか改めさたのが彼の妻、つまりジルヴェールの母親であり、もしジルヴェールの母がジゼルコートに言って聞かせるようなことがなければ、もっと簡素な家に住むことになっていたかもしれない。
もっとも、最近では領伯らしく振る舞うということの重要性を理解してきたらしく、居住まいを正し、華麗な服装も着こなすようにはなっていたが、それもこれも彼の母が口うるさくいっているからにほかならない。ジゼルコートの政治手腕は、ナーレスが頼りにするほど素晴らしいものなのだが、それ以外の部分では、贔屓目に見てもどうかと思うようなところもなくはない。そういった部分を含めても尊敬に人物なのは間違いないのだが。
やがて、獅子王宮に辿り着く。
王宮区画の中心に聳え立つ白亜の宮殿もまた、数年前となにひとつ変わっていなかった。なにもかもあの当時のままの姿でジルヴェールの視界に飛び込んでくる。ガンディア王家の住居であり、国政の中心でもある建物。巨大で、権威的ですらあるが、それは当然ともいえるだろう。
しかし、これまでにない圧力を感じたのは、ジルヴェールのいない間になにもかもが変わっていたからにほかならない。
なにひとつ変わっていないのに、なにもかもが変わっている。
不思議なものだが、実際にそうなのだから仕方がない。
宮殿そのものは変わっていないのだが、宮殿に携わる人間が様変わりしているということだ。
彼が王宮を去るころ、猛威を振るっていた反レオンガンド派貴族の姿が消え失せ、代わりにレオンガンド派貴族の姿ばかりが見えるようになっていた。中立派貴族も散見される。
ラインス=アンスリウス一派の一掃によって、反レオンガンド派は壊滅したといってもよかった。
(一掃……)
胸中で反芻して、苦い顔になる。
ラインス=アンスリウスは、ガンディアで最大の勢力を誇る貴族アンスリウス家の当主だった。レオンガンドの母にして太后グレイシア・レイア=ガンディアはアンスリウス家の出身であり、ラインスはグレイシアの兄だった。ジルヴェールもよく知っているし、血の繋がりもある。アンスリウス家には、ガンディア王家の血が入っている。アンスリウス家だけではない。ガンディアの貴族のほとんどが、王家の血筋だった。その中でも特にアンスリウス家は王家との繋がりが深く、故に最大の勢力を誇っていたのだ。
そのアンスリウス家の当主だったラインスは、元々はレオンガンドに期待を抱いていた人物だった。多くの貴族がそうであったように、英傑であるシウスクラウドの子レオンガンドに期待をしないわけにはいかなかったのだ。しかし、シウスクラウドが不治の病に倒れ、レオンガンドが暗愚だという評判を得ると、一転して反レオンガンド派となった。王女リノンクレアこそ王位を継承するべきだと訴え、影に日向に活動していたことは、よく知られた話だ。
リノンクレアがルシオンのハルベルク王子の元に嫁げば、王妃を担ぎ始めたのだから節操もなにもあったものではない。
ジルヴェールも誘われたことがある。
レオンガンドの遊び友達であるはずのジルヴェールが王都を離れたのだ。反レオンガンド派からすれば、彼ほど反レオンガンドの旗印に相応しい人物はいないと踏んだのかもしれない。
ジルヴェールは、一蹴した。
ジルヴェールもまた、レオンガンドに失望した人間のひとりだ。彼に期待し、彼に人生を捧げる覚悟をしていたにも関わらず、耳に入ってくるのは悪評ばかり。国事には無関心を貫き、遊興に耽り、女を侍らせ、賭博にまで手を出しているという。うわさ話ばかりではない。レオンガンドが遊び呆けているのは、彼自身が目にしてきたことでもあった。だからなおのこと、失望の度合いが深かった。
彼は王都を去り、ケルンノールに籠もった。
国事には関わらぬと決めた。反レオンガンド派の誘いを断ったのも、関わればろくな目に遭わないだろうと踏んだからだ。
実際、そうなった。
ラインス=アンスリウスを始め、ゼイル=マルディーン、ラファエル=クロウといった反レオンガンド派の大物貴族が死体で発見された。王宮の発表によれば、婚儀の際、皇魔の出現を目の当たりにしたラインスたちは地下に逃げ込んだものの、逃げこんだ先で皇魔に遭遇し、殺されたということだったが、そんな与太話を信じるほど、ジルヴェールも愚かではない。
レオンガンド派による一掃としか考えられなかった。
無論、それが悪いことだとはジルヴェールは考えてもいなかった。むしろ、反レオンガンド派の存在こそ、現在のガンディアにとって害悪以外のなにものでもないと捉えていたし、レオンガンド率いるガンディアが躍進を続ける限り、いずれ滅び去るものだろうと踏んでいたのだ。滅ぶべくして滅びた。ただそれだけのことだ。
それにレオンガンド派による国政の主導こそ、現在のガンディアには望ましいのは、火を見るより明らかなのだ。
バルサー要塞奪還以降、明確なものとなっていったレオンガンドの本性を受け入れられず、彼と周りの人間によって作り上げられた“うつけ”という虚像を信じ続けるものなど、この国には不要という以外にはない。
自分は、違う。
ジルヴェールは、王宮警護に案内されるまま、王宮の中を歩いていく。王宮警護とは、王宮の警備を司る組織であり、現在、アヴリル=サンシアンが管理しているはずだった。サンシアン家の人間が国に関与していること自体、大きな変化といえた。サンシアン家は、ガンディアの貴族の中でも特別な位置づけにある。かつて小国家群で権勢を誇った王家の血筋であるからであり、没落したのち、ガンディア王家が最敬礼でもって迎え入れたからだ。サンシアン家は政治には関わらない、というのが暗黙の了解のようなものだったのだが、レオンガンドは、サンシアン家の当主オーギュスト=サンシアンを始め、サンシアン家の人間を政治に携わらせることにためらっている様子もなかった。
人格、能力さえあればなにものでも使う――レオンガンドのやり方は、旧態然としたガンディアの政治に風穴を開けるかもしれない。
やがて、謁見の間に辿り着く。
謁見の間、あるいは玉座の間と呼ばれる広々とした空間に入ると、緊張を覚えざるを得なかった。謁見の間全体の空気が張り詰めていたのだ。謁見の間に集まっただれもが、ジルヴェール=ケルンノールという男の登殿に緊張しているらしいことがわかる。その緊張感が伝わってきたから、ジルヴェールまで緊張したというわけではないが。
玉座にひとりの男が座っている。そこに至るまでの両脇に立ち並ぶ有象無象など、この際どうでもよかった。レオンガンドの側近たちなど、とるに足らないといってもいい。問題は、玉座に腰を下ろす男だけだ。黄金色の頭髪に碧玉のような瞳、白い肌は、王家の血筋というほかない。ザルワーン戦争で失った目は眼帯で隠しているのだが、眼帯をつけたことで、優男に過ぎなかったレオンガンドの容貌に厳しさを付与したのは間違いないようだった。国王としての威厳に満ちた装束も、いまの彼ならば似合っているといっても嘘にはならなかった。
数年前の彼ならばまったく似合ってもいなかっただろうが。
レオンガンド・レイ=ガンディア。
たった一年足らずでガンディアを大国へと変貌させた彼のことを、もはや“うつけ”と呼ぶものはいない。シウスクラウドの再来と呼ぶものもあれば、隻眼の獅子王と呼ぶものもいる。
(確かに……)
ジルヴェールは、レオンガンドの鈍く輝く片目に見据えられて、心が凍りつくような感覚の中にいた。レオンガンドは、この一年で大きく変わったらしい。
ジルヴェールの知るレオンガンドは、そこにはいなかったのだ。
「ジルヴェール=ケルンノール様にございます」
「案内、ご苦労。下がってよいぞ」
「はっ」
アヴリル=サンシアンが敬礼をして、謁見の間から去っていく。
その間、ジルヴェールは、レオンガンドの声を聞いて、雷にでも打たれたような衝撃を受けていた。声質そのものに変化はない。しかし、声に含まれる力の強さには、ジルヴェールも震えざるを得なかった。震え、彼を見誤っていた自分の愚かしさを改めて理解したのだ。
ジルヴェールが己の過ちを理解したのは、彼がバルサー要塞を奪還してみせたあとのことだ。ログナーを平定し、ザルワーンとの戦いに備えるレオンガンドの様子には、“うつけ”の片鱗さえ見受けられなかった。ジルヴェールは悔いた。そして、冷笑した。自分の見る目のなさを嘲笑い、レオンガンドの本質さえ見抜けなかった自分の愚かさこそ“うつけ”に相応しいのではないかと思ったものだった。
それから半年以上が過ぎた。
まさか、そんな自分が王宮に務めることになろうとは考えもしなかった。
ジルヴェールは、側近に促されるまま、玉座の前まで進み出て、跪いた。
「ジルヴェール=ケルンノール、ジゼルコート・ラーズ=ケルンノールに代わり、陛下の御力となるべく、ケルンノールより馳せ参じました」
ジルヴェールの立場は、彼が言葉にした通り、ジゼルコートの代理人だった。ジゼルコートの第一子であるジルヴェールは、ジゼルコートのつぎのケルンノール・クレブールの領伯となるのが既定路線だ。ジゼルコートが彼を自分の代理人としたのは、領伯を受け継いだ後のことを考えてのことに違いなかった。
だから、いまになってジルヴェールが王宮に足を踏み入れざるを得なくなったのだ。
「よくぞ来てくれた。ジルヴェール。そなたの手腕には期待している」
ジルヴェールは、平伏した。
威に打たれたのだ。