第九百五十話 ジルヴェールの帰還(一)
大陸暦五百二年五月十七日。
王都ガンディオンはいま、史上最大といっても過言ではない工事の最中にあった。
王都は元来、三重の同心円を描くような都市として知られている。王宮の存在する区画を中心とし、群臣街、市街が二重、三重の円となってガンディオンの大都市を構築しているのだ。それだけでも十分大都市といってもいい広さがあり、ガンディアが弱小国であった時代には国土の割りには大きすぎるとして、分不相応な首都として有名だった。
ガンディアは巨大化した。
たった一年足らずで、国土は弱小国当時の数倍にまで拡大した。ログナー、ザルワーン、ミオン、クルセルクがガンディアの支配下に入り、それに比例して国民の数も増大した。増大した国民の一部が王の都たるガンディオンに移住してくるのは、ある意味では当然のことであり、自然の摂理といってもおかしくはなかった。
国の中心に人が集まるのは必然なのだ。
しかし、あまりに加速度的な国土の拡大による国民の増加は、大量の移住者を生み、王都の許容量を超えかねないほどとなってしまった。
このままでは王都が破綻してしまうのではないか。
事態を懸念した王宮は、都市開発機構の提案を受け、市街の外周に新市街を建設することを発表している。それからというもの、ガンディオンの外周部では城壁の構築と新たな市街地の整備が同時並行的に行われており、ガンディア中から集められた人員が王都の内外を出入りしていた。
また、城壁外での仕事も多いということで、作業中、ガンディア方面軍が王都周辺の警備に当たらなければならなかった。城壁の外は、魔境といってもいい。どれだけ王都の城壁が堅牢で、皇魔に攻め寄せられたことがないとはいえ、一歩外に出た瞬間、皇魔の悪意に曝されかねない。万全に万全を重ねるべきなのだ。
だからこそ、城壁の構築が急務なのだが、彼の見るところ、また、父の話によるところ、第四城壁は想像以上に早く完成するだろうとのことだった。
彼は、まだ形すら出来上がっていない新市街を歩く馬の足を止めて、後方を振り返った。むき出しの岩壁がそそり立っており、その岩壁に向かって作業する人員の数たるや凄まじいものがあった。
(あれが武装召喚師の手によるものとはな)
第四城壁と呼ばれる最外周部の城壁は、レオンガンド王とナージュ王妃の婚儀の際、カイン=ヴィーヴルなる武装召喚師が作り出したという岩壁が元になっている。その岩壁が作られたのも、レオンガンドの婚儀をひと目見ようと国の内外から王都に集まるであろうひとびとを受け入れるためであり、王都の許容量を一時的にでも増やすための処置だった。その処置を恒常化させるのが、第四城壁の構築と新市街の建設ということになる。
原型が出来上がっている第四城壁はともかく、新市街の完成はまだまだ先のことになるだろう。少なくとも数ヶ月は待たなければ、形にもなるまい。
(しかし、これでは帰ってきたという気分にはならないな)
彼は胸中で苦笑した。
開発中の新市街には、なんの思い入れもないのだから当然のことではあったのだが。
新市街を北に抜けると、第三城壁と呼ばれる城壁が見えてくる。
第四城壁が作られるまではガンディオンの最外周部だった城壁であり、かつての王都防衛の要だった城壁は、堅固に作られている。分厚く、巨大な城壁を突破するのは、並大抵の戦力では不可能といってもいい。かつて、難攻不落のバルサー要塞が落ちてなお悲観的にならずに済んだのは、北にマルダールがあり、王都ガンディオンが控えていたからに他ならない。たとえマルダールが落とされたとしても、ガンディオンが落ちることなどありえないという信仰にも似た想いが、ガンディア国民にはあった。そして、ガンディオンさえ落ちなければ、いくらでも巻き返せると信じた。実際、王都さえ落とされなければ、巻き返すことは不可能ではなかっただろう。
たとえばログナー・ザルワーン軍が南進してきた場合、マルダールが耐え切れなかったとしても、ガンディオンに籠城すればいい。ガンディアが王都に篭もり、ログナー・ザルワーン軍の猛攻を耐えしのいでいる間に、同盟国であるミオン、ルシオンの奮起を期待するのだ。あるいは、自国の別働隊を派遣し、伸びきった補給線を叩けばいい。
そうすれば、少なくとも王都が陥落することはないのではないか――。
そこまで考えて、彼は頭を振った。
(机上の空論に意味はない、か)
それは、ナーレス=ラグナホルンの言葉だった。ガンディアの軍師ナーレスは、彼の師といっても過言ではなかった。ナーレスは、彼に将来レオンガンドの腹心となることを期待していたのだろう。彼に戦術、戦略、軍略のなんたるかを教え込もうとしたし、彼もナーレスの期待に応えるべく、努力したものだ。レオンガンドの力になるかはともかく、自身の能力、才覚を磨くのは必要なことだと判断したからだ。やがてナーレスが国を去ったとき、彼は裏切られたと思ったものだ。ナーレスは、彼にはなにも話してくれなかったのだ。
秘事が、彼の口から漏れることを恐れたからだろう。
もっとも、彼だけが知らされなかったのではない。ナーレスに近しいだれもが、ナーレスの真意を知らなかった。知っていれば、あのような騒ぎにはならなかっただろう。
(六年前……か)
将来を嘱望された軍師が国を去ったことは、ガンディア始まって以来の大事件として国の内外を騒がせたものだ。もちろん、ガンディア史上最大の事件というほどのものではない。しかし、それくらい騒ぎ立てる必要が当時のガンディアにはあったのだ。“うつけ”の名をほしいままにしていた王子レオンガンドから王位継承権を剥奪することを願う勢力からしても、騒ぎが大きくなることほど喜ばしいものではなかった。一方、レオンガンドにしても“うつけ”の名を広める上で、軍師ナーレスの離反ほどうってつけのものはなかった。その結果、ガラン=ディアランやクリストク=スレイクスといった優秀な人材からも見限られることになったものの、ガンディアが生き延びることができたのは、レオンガンドが暗愚であり、待っていれば自滅すること間違いなしという認識が国外に広がったからに他ならない。
レオンガンドが英邁であれば、ザルワーンによって叩き潰されていた可能性も少なくはないのだ。ザルワーンは、ナーレスの力によってログナーを得たものの、ナーレスがいようがいまいがログナーを踏み潰す程度の国力はあったし、ログナーを制圧することができるなら、ガンディアを制圧することも難しくはない。
ガンディアが生き延びるための選択として、レオンガンドの暗愚化は正しかったのだ。
(陛下は正しかった。が……)
彼は、いずれ旧市街と呼ばれることになるであろう市街地の大通りを馬に乗って進みながら、日差しのあざやかさに目を細めた。
(わたしの目は、節穴だった)
彼は、王都市民の注目が自分に集まるのを自覚しながら、馬を進めた。注目が集まるのは当然だった。まず、綺羅びやかな軍馬に跨っている。つぎに、これまた綺羅びやかな装束を身に纏っている。さらに金髪碧眼の貴公子である。その上、騎馬の集団を率いている。これ以上注目を集めようがないほどの状況に、彼はいた。
王都の市街に入って、ようやく、彼は帰ってきたという感覚を抱いた。
市街の景観そのものは、昔となんら変わらなかった。しかし、市街に満ちた空気は違う。数年前の王都は、暗雲に覆われているといっても過言ではないような空気感の中にあった。重苦しい空気が常に漂い、だれもが救いを求めて喘いでいた。英雄が病に倒れ、その後を継ぐべき王子が暗愚だという話がまことしやかに流れれば、絶望もしよう。
しかし、今は違う。
まばゆいほどの明るさと喧騒が王都全体を包み込んでいる。新市街が必要と判断されるほどだ。ひとも溢れている。
「ジルヴェール様じゃないか?」
「ああ、間違いない、ジルヴェール様だ」
「王都に帰って来られたのだ……」
「ジゼルコート様がケルンノールに戻られたからかな?」
「おそらくな」
馬上、市民の声が聞こえたのは、彼の耳が多少良すぎることに由来した。その耳の良さが彼を王都から遠ざける一因になったのは、いうまでもない。
ジルヴェール=ケルンノールは、風を切るように市街を進んだ。道中、都市警備隊が先導してくれている。市街は、都市警備隊の助力がなければ前に進むことすらできないほどのひとであふれていた。
やがて第二城壁に至り、ガンディア軍による出迎えを受けた。第二城壁の向こう側は群臣街と呼ばれる区画であり、軍人や文官、王宮勤めの使用人などのみが住居を構えることを許された空間だった。軍が出迎えに現れたのもそのためだろう。もっとも、群臣街も都市警備隊の管轄にあり、警備隊も同道してくれたのだが。
群臣街もまた、彼が王都を去ったころと大きな変化はないが、やはり空気感は様変わりしていた。重苦しさから解放されたのだ。
暗愚の王子は、英傑を超える英雄王となった。
ガンディアの未来は明るい。
だれもがそう想っている。
(陛下がいる。王妃殿下がいる。王妃殿下のお腹には、お子がいる)
少なくとも、王家は安泰だ。王家が安泰ということは、国もまた、安泰といっていいのではないか。ガンディアは巨大化した。国力も増大し、兵力もいずれ回復するだろう。兵力が回復せずとも、ガンディアには黒き矛のセツナがいる。救国の英雄は、ひとりで一万の皇魔を蹴散らすという。万魔不当。まさに鬼神が如き英雄の存在は、ガンディアの将来を明るく照らしている。
(なにも恐れるものはない)
ここまで巨大化した国を止めることは、なにものにもできないのだ。ガンディアはますます発展し、国土を拡大していくに違いないし、国土が拡大すればするほど、容易さもまた、増していくに違いない。
(大陸小国家群の統一……か)
それは、小国家群の国々が抱く夢想であろう。しかし、多くの場合、夢想は夢想で終わる。いや、夢想ですらなく、妄想のまま、空想のまま、たち消えるものかもしれない。ガンディアがログナーを下すまで、小国家群に大きな戦いはなかったといってもいい。どの国もが国境を巡る小競り合いに終始し、その勝敗で満足した。
戦国乱世とは、よくいったものだ。
世は乱れてもいなかった。小国家群という常態を維持することに心血を注いでいるといってもよかったのだ。これでは、何百年経とうと統一国家が生まれることなどありえない。
ガンディアが、常態を動かした。
ログナーを下し、ザルワーンをも平定したことでガンディアは巨大化した。大国の誕生は周辺諸国に危機感をを与えた。危機感は、周辺諸国だけでなく、小国家群の国々にまで波及したはずだ。ザルワーン以上の大国が国土拡大に野心的な姿勢を見せているのだ。危機感を抱かずにはいられない。危機感は、常態を崩す。停滞していた時は動き出し、小国家群はまさに戦国乱世というべき情勢になった。
なにもかも、レオンガンドがなしたことだ。
シウスクラウドではなく、レオンガンドが、だ。
ジルヴェールは、先導する軍の部隊が足を止めるのを見て、馬の歩みを止めた。前方、群臣街の先には第一城壁がある。第一城壁の向こう側こそ王都の中心であり、王宮区画とも獅子王宮とも呼ばれる領域だった。軍による案内はここまで、ということだろう。王宮区画には、軍人といえど、おいそれと入れるものではない。ましてや、軍装という物々しい格好では、入れるものも入れない。
彼は、軍人たちに敬礼すると、城門を潜った。
王宮区画に足を踏み入れれば、そこもまた、数年前と代わり映えのない空間が広がっていた。