第九百四十四話 運用術(一)
「それで……体調は少しは良くなったの?」
ミリュウが多少心配そうにレムの顔を覗き込んだのは、彼女が不調を訴えた翌日の朝のことだ。
五月十七日。
セツナがシーラとともに龍府を離れて七日目の朝を迎えている。当初こそ不安しかなかく、だれもがそわそわとしていたものだが、さすがに七日も経てば、信じて待つよりほかはない、と、だれもが思うようになっていた。もちろん、セツナのことを心配しなくなったわけではない。シーラの無事を願ってもいる。しかし、ふたりの身の安全ばかり考えていても埒が明かないということなのだ。ふたりのことを心配し、不安を募らせたところで、龍府にいる自分たちにはどうすることもできない。シーラが目的を果たせるよう願うことしかできないのだ。
願うだけならばまだしも、そのために普段の仕事に支障を来すようなことはあってはならなかった。セツナとシーラが龍府から消えたところで、世界は動き続けている。
もっとも、《獅子の尾》の面々は相変わらずの長期休暇中であり、仕事に精を出すひつようもないのだが。
ファリアは、天輪宮双龍殿に《獅子の尾》の事務室を開いたということもあって、事務机にあり、書類と睨み合っていた。事務室の設置に関しては、天輪宮の主たるセツナになんの許可も取っていないのだが、事後承諾でも問題はないだろう。ファリアは《獅子の尾》の隊長補佐だ。本来隊長が行うべきことを代わりに行っただけのことだった。
とはいえ、天輪宮が《獅子の尾》の拠点となるかは微妙なところではあった。確かに天輪宮の主にして龍府の支配者はセツナであり、そのセツナは《獅子の尾》隊長なのだが、《獅子の尾》隊長の所有物が即ち《獅子の尾》のものかというと、必ずしもそうではない。むしろ、切り離して考えるべきなのだが、エンジュールからこの方、セツナにはそういう考えが薄そうなのだ。
たとえファリアが勝手に《獅子の尾》の事務室を設置したとしても、彼は怒るどころか、むしろ喜びそうなところがあった。
「はい。昨夜、御主人様の御部屋で寝ましたところ、すっきりいたしました」
レムの返答には、ファリアも手を止めた。レムに目を向ける。広い事務室の片隅にミリュウの後頭部と、レムの満面の笑顔があった。レムが笑顔なのはいつものことなのだが、昨日のこともあって、少し安堵したファリアがいる。
昨日、レムは不調だったのだ。彼女らしくない様子に不安を覚えずにはいられなかった。ファリアが不安を感じたのは、レムとセツナの特殊な結びつきが関係している。レムは、セツナによって命を供給されている、という。生命の同期だとセツナはいった。レムは、セツナが生きている限り生き続けることができるということであるらしいのだが、それはつまり、セツナが死ねば、レムもまた、死ぬということでもある、らしい。
つまり、レムが不調を訴えるということは、セツナの身になにかが起きたのではないか、とファリアは考えたのだ。セツナの力によって再蘇生して以来、彼女が肉体的、精神的な不調を訴えてきたことはなかった。いつだって健康そのものであり、いつだって笑みを浮かべているのが、レム=マーロウという人物だった。それが突如として不調に陥ったのが昨日だ。ファリアがセツナの身を案じたのは、当然のことだ。
「はい?」
「やはり、御主人様成分が不足していたのは間違いないようですね。これから御主人様が不在のときは、御主人様の御部屋で寝ることに致します。御主人様の御部屋を護るという意味でも、それが一番ですよね」
「なにひとりで納得してるのよ。っていうか、なに、セツナの部屋で寝たの?」
「はい!」
「元気よくうなずいてるんじゃないわよ!」
「もちろん、御主人様成分を補うため、御主人様の寝間着を拝借しました!」
レムが平然と言い放ってきたことの奇妙さに、ファリアは事務机に突っ伏した。従者にあるまじきことをいっている気がするのだが、そもそも、彼女には従者らしくないところが多々あったことを思い出す。主であるセツナにも暴言を吐くことを考えれば、セツナの寝間着を着て、彼の部屋で寝ることくらい、造作も無いのかもしれない。
「なに? なんなの? あんたっていったいなんなのよ!」
「わたくしは御主人様の第一の下僕にございます」
「下僕なら下僕らしく御主人様の命令に従っていなさいよ!」
「従っているじゃないですか。御主人様がいない間、皆様をお守りするのがわたくしの役目でございます」
「……はあ、もう、なんなのよ」
憮然と肩を落とすミリュウを遠目に眺めながら、ファリアは、ついに口を開いた。
「いい加減悟りなさい。レムにはなにをいっても無駄だって」
「それはわかってるけどさあ!」
ミリュウがこちらを振り返ってきた。憤然としているものの、心の底から怒っているわけではないのは、彼女の態度からもわかる。
「なんなら、あなたもセツナの部屋で眠ればいいじゃない」
「え、そ、それは、ちょっと……」
「なに? 恥ずかしいの?」
「そ、そういうことじゃないけど、セツナ成分は、セツナが帰ってきてからたっぷり補給するし……」
もじもじとするミリュウの姿は、初々しいというほかない。普段、積極的にセツナに絡みつく彼女の言動からは想像しようもない姿であり、表情であり、態度だ。見た目通り、その肉体で男を惑わす美女としての彼女と、花も恥じらう乙女のような彼女は、ミリュウの中に矛盾せず存在している。その不均衡は、いつ見ても不思議だし、可憐に思えてならない。
「ま、それならそれでいいけど、ミリュウ、いま暇よね?」
「あー!」
ミリュウは椅子から勢い良く立ち上がると、転がりそうになりながらこちらに向かって迫ってきた。
「なに?」
「ファリアまであたしをそんな目で見てるのね! 酷いわ!」
「酷いもなにも、実際暇でしょ?」
「暇そうにございますね」
「う、た、たしかに、暇かもしれないけど、あたしにはセツナの無事を祈るという大事な役目が……」
「まあ、それは確かに大事よね」
「大事でございます」
さっきから同意してくるレムを横目に一瞥してから、ミリュウに視線を戻す。気になったのだが、レムは相も変わらぬ笑顔だった。
「でも、それは皆していることよ。セツナの不在を知っている誰もが、セツナの無事の帰還を願い、祈っているわ。それに祈ることなら、なにかをしながらでもできるでしょ」
「そ、それはそうだけど……」
「そこでひとつお願いがあるの」
「なによー」
ミリュウのふくれっ面は愛らしいとしかいえないから困ったものだ。だからついからかいたくなるのだが、彼女にはそれがわからない。自分の魅力を知らないからだ。だれもが彼女と同じだ。自分の魅力を理解している人間がこの世にどれだけいるのか。そもそも、どこが魅力なのかなど、ひとによって異なるものでもある。ミリュウのそういう部分を魅力的に感じるのは、ファリアだけかもしれない。
「今日の正午頃に知り合いが来る予定なんだけど、龍府の南門まで迎えに行ってあげてくれる?」
「はあ? ファリアの知り合いなら、ファリアが迎えに行きなさいよ。個人的な用事に部下を使わない」
ミリュウの言い分もわからなくはなかったが。
「個人的な用事っていえばそうなんだけど、知り合いのひとりは、あなたの弟子よ?」
「え? 弟子ちゃんが来るの!?」
ミリュウが目を輝かせたところを見る限り、彼女はエリナの育成に本気らしかった。本気でエリナを武装召喚師として育て上げようとしている。武装召喚師への道は遠く険しいものだ。だれもが武装召喚師の高みに辿り着けるわけではないし、途中で諦めるものも少なくはない。しかし、エリナならば乗り切るだろうし、師匠がミリュウならばなおのことだ。地獄を乗り越えたミリュウならば、いい師匠になるに違いないという確信がある。だから、任せることができるのだが。
「ええ」
「だったら行く行く! 迎えに行くわ!」
「レムもついていってあげてくれる? 来るの、エリナひとりじゃないのよ。荷物もあると思うし」
「はい。了解しましてございます」
「じゃあいってくるわ!」
いうが早いか、ミリュウは部屋を飛び出していった。ファリアは呆れる思いがした。感情の切り替えの速さも、彼女の魅力といえば魅力なのかもしれない。
「さすがに早いわね」
「では、わたくしも、ミリュウ様が粗相をなさいませぬよう、目を光らせておきまする」
「そうしてくれるとありがたいわ。あの子が張り切るとろくな事にならないし」
「それでは、いってまいります」
「いってらっしゃい」
ファリアが手を挙げると、レムは恭しく頭を下げた。そして、風のように飛び出していったミリュウを追いかけるため、突風となって部屋から消えた。
ふたりがいなくなった途端、《獅子の尾》の事務室は静寂に包まれた。天輪宮双龍殿の一室だ。天輪宮の各殿舎を見て回った結果、双龍殿のこの部屋が事務室に相応しいという結論に至った。それは、この部屋が元々、龍府の役人に使われていた部屋であり、机や椅子がその頃のまま放置されていたからだ。埃ひとつ見当たらないほど清潔だったのは、領伯であるセツナの龍府入りに先立ち、天輪宮の大掃除が行われたからに他ならない。
室内に放置された机をファリアの好きなように並べ替えたのが昨日のことだった。昨日、レムの提案で大掃除を行っている最中に思い立ったのが、運の尽きだった、といっても過言ではない。半日近くかけて机や調度品を移動させた結果、ファリアはへとへとになり、その疲労が今日まで残っていた。
しかし、その甲斐もあって、《獅子の尾》の事務室らしい見栄えになっていた。《獅子の尾》の隊旗が掲げられ、隊長の机には獅子の置物が鎮座している。それだけでいかにも《獅子の尾》という風情が出てくるのだから、不思議なものだ。
不意に事務室の扉が開いた。
「どうもこんにちは、将来の軍師ことエイン=ラジャールです」
振り向くと、確かにエイン=ラジャールが立っていた。いつもの三名の部下はおらず、彼ひとりというめずらしい光景に、ファリアは目を瞬かせた。それから、半眼になる。
「第一作戦室長ってそんな感じでしたっけ?」
「はい、こんな感じで生きています」
「もっと真面目なひとだったと思うんだけど……記憶違いかしら」
「たぶん、ドルカさんの影響です」
「悪影響ですね」
「はい」
「否定しないんですね」
「はい!」
「なんで威勢がいいのかしら……」
ファリアは、エイン=ラジャールの勢いについていけず、少しばかり困惑した。