第九百四十三話 黒き仮面(二)
「でも、黒き矛以外の召喚武装を呼び出せるとは知らなかったな」
「俺もさ」
「え?」
セツナの発言ニシーラが愕然としたのは、予想だにしない発言だったからに他ならない。
「ぶっつけ本番だったからな」
「はあ?」
「思いついたのがこの道中だったからなー。試す暇もなかったんだ」
「呪文は?」
「呪文は、武装召喚師を装う上で必須だろうから、少し前から覚える努力をしていたんだ。ガンディアの英雄と呼ばれるほどの武装召喚師が呪文のひとつも諳んじられなかったら、格好がつかないだろう?」
「確かに……」
セツナの説明には、納得するしかなかった。確かに彼のいうとおりだ。セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドは、ガンディアを代表する武装召喚師として知られている。武装召喚師とは、元来、熾烈を極める修練の果てに武装召喚術を身につけたもののことであり、一朝一夕になれるものではない。だが、彼は、なんの努力もせず、武装召喚術を身につけてしまった。しかも、その召喚武装が強力無比であり、武功に武功を重ねていくことになってしまった。いまさら武装召喚術を学んでいる暇はない。戦功だけが積み上げられていく。名声だけが高まっていく。それは。武装召喚師としての名声でもある。武装召喚師として、最低限のことができなければ格好がつかないという彼の考えもわからないではなかった。もっとも、彼に呪文のひとつでも唱えてみせよ、などというものがいるとも思えないが。
彼は、ガンディア最高の武装召喚師であるとともに、大国ガンディア有数の権力者なのだ。そんな人物に呪文の詠唱を求めるものなど、そういるはずもない。いたとしても、セツナが従う道理など、ありはしないだろう。彼の主であるレオンガンドが、セツナにそのようなことを求めるわけがなかった。
「召喚できるかどうかはわからなかったけどさ、可能性ならあったんだよ。だからぶっつけ本番で試すことにしたんだけど」
「可能性?」
「ああ。あれは黒き矛の力の一部だからな」
「黒き矛の?」
「ほう、それは初耳じゃの」
セツナの膝の上に移動したラグナが顔を上げた。興味深そうな表情だった。絶大な力を持っていたワイバーンを消し滅ぼした黒き矛の力には、興味を抱かざるをえないのかもしれない。彼を殺した上で転生させるだけの力を発揮したのが、黒き矛なのだ。
セツナは、膝の上のドラゴンの背に手を置いた。
「あれはクレイグ・ゼム=ミドナスの召喚武装マスクオブディスペアと同質のものなんだ」
「クレイグ・ゼム=ミドナスって――」
「ああ、ジベルの死神部隊長だよ」
「あいつ、武装召喚師だったのか」
「まあ、そうなる」
「死神部隊の“死神”は、召喚武装の能力だったってことか?」
「そういうことだ。レムの“死神”も、クレイグのマスクオブディスペアが創りだした仮面の能力だった」
「けどよお、ラグナと戦ったときは、仮面なんて使っていなかったぜ?」
シーラの頭の中には、レムが仮面を用いずとも“死神”を使役している光景が浮かんでいた。レム・ワウ=マーロウと名乗っていたときの“死神”とは形状が異なる気がするが、“死神”であることに違いはない。
「そもそも、クレイグのマスクオブディスペア自体、もうこの世には存在しないんだよ」
「どういうことだ?」
「俺と黒き矛が叩き壊したからな」
「え?」
「叩き壊して、黒き矛とひとつになった」
「どういうことだよ?」
シーラは、軽く混乱した。セツナのいっていることがまるで理解できなかった。言葉の意味はわかる。カオスブリンガーによってマスクオブディスペアとやらを破壊し、その残骸とひとつになった、ということだ。意味はわかっても、理解はできない。召喚武装と召喚武装がひとつになる、融合するなどという話は聞いたこともなかった。
「よくわからないのは俺も同じなんだ。だが、黒き矛から分かたれた力があり、それが別の召喚武装として存在しているということは事実なんだ。黒き矛は、それらを破壊し、取り込むことで本来の力を取り戻したがっている」
「なんていうか……本当、よくわからんな」
シーラは呆然とした。黒き矛カオスブリンガーが絶大な力を秘めた召喚武装だということは理解している。武装召喚師でなくとも、黒き矛がとてつもなく強力であり、人間の手に余るような代物だということはわかるだろう。それほどまでに凶悪な武器だ。なにがあってもおかしくはないのかもしれないが、それにしても不思議だった。不可解で、理解不能だった。だが、セツナが嘘をいっているわけではないことは、彼の表情や口ぶりからも窺える。
「マスクオブディスペアもそのひとつで、取り込んだ。だから、マスクオブディスペアの部分だけ召喚できないものかと試してみたのさ」
「もしできなかったらどうなってたんだ?」
「黒き矛が出現したんじゃないか?」
「おいおい」
「でもさ、黒き矛の実物を見たことがあるやつがあの場にいたとは思えないし、問題はなかっただろうさ。呪文も唱えてたし」
「そうかもしれないけどさ」
黒き矛が召喚されていた可能性もあったということを聞いて、シーラは、心の底から、彼の試行錯誤が成功して良かったと思った。確かに、黒き矛が召喚されたとして、それが小国家群を賑わす黒き矛だと思うものはいないかもしれない。しかし、察しのいいエスクならば、黒く禍々しい矛と黒髪赤目の少年の姿からセツナ=カミヤに結びつけることだってありえたのだ。
「ん……ちょっと待て」
そこまで考えて、シーラは彼の言葉に引っかかりを覚えた。あのとき召喚した黒の仮面はマスクオブディスペアと同質のものであり、それは、マスクオブディスペアを破壊し、力を取り込んだから召喚しえたものだということは、わかった。根本的には理解できていないが、納得はした。しかし、マスクオブディスペアを破壊した、とはどういうことなのか。
「なんだ?」
「どうしたのじゃ?」
「いま、マスクオブディスペアを取り込んだっていったよな?」
「ああ、それがどうしたんだ?」
セツナはきょとんとしている。それについては説明したからだろうが、シーラが聞きたいのは、彼の考えているようなことではない。
マスクオブディスペアは、クレイグ・ゼム=ミドナスの召喚武装だと、彼はいった。シーラが聞きたいのは、それに関することだ。召喚武装を破壊するとはつまり。
「クレイグを斃したってことか?」
「……そういえば、公表していなかったんだっけな」
「なんのことだ?」
「シーラは、聞いているよな? ゼノキス要塞で俺がレムに影の中に引きずり込まれたってこと」
「ああ」
元の場所に戻ってきた直後のふたりを見つけたのがシーラなのだ。あのときの感覚は、忘れようがない。セツナは、あのとき、死に瀕していた。腹を刺され、出血していた。少しでも対処が遅れていれば、彼が死んでいたのは疑いようがないということであり、ふたりを軍医の元に運びこんだシーラとサラン=キルクレイドは、それだけで賞賛に値するといわれたものだ。それは、わからないではない。クルセルク戦争勝利の立役者といってもいいセツナを、あのようなことで失うなどあってはならなかった。
「あれは、もちろん、レムの一存なんかじゃなかった。レムは、死神の仮面の主たるクレイグ・ゼム=ミドナスの命令に従い、俺を影の世界に引きずり込んだんだ。そして、クレイグも現れた」
「斃したんだな?」
「ああ」
「だが、ジベルはクレイグ・ゼム=ミドナスは生死不明のまま、行方さえわからないと公表した。死神部隊のほかの隊士の生死は明らかにしているのに、だ。どういうことだ?」
シーラが問うと、セツナは冷ややかな目をした。ついさっきまでの柔和な表情は消えて失せ、冷酷非情な戦士の顔が垣間見える。ぞくりとした。そして、それが悪くないものだと感じるのは、シーラが生粋の戦闘者だからにほかならない。王女ではなく、獣姫。獣姫ですらなく、ただの戦士。戦場を駆け抜ける一頭の獣――それが自分だ。だからこそ、セツナのそういう表情を目の当たりにすれば、燃えてしまう。無意識に拳を握ったのも、そのためだろう。
「……それについては隠す必要があった、ということだけしかいえないな」
「複雑な事情があるってことか」
「そういうこと。首を突っ込まないほうがいい。ろくなもんじゃないしな」
セツナが思わせぶりに肩を竦めてみせた。シーラが知るべきではないことなのは間違いないらしいし、彼が話したくないことでもありそうだった。なにがあったのかはわからないが、想像はできる。無論、想像は所詮妄想に過ぎず、実際になにがあったのかは、彼の口から聞くまではわからない。そして、彼があのときなにがあったのか教えてくれることなど、ありそうもない。
「ともかく、俺はクレイグを斃し、黒き矛はマスクオブディスペアの力を取り込んだ。その結果、黒き矛はより強力になり……」
セツナは、ひざ上のラグナを両手で包み込むと、顔の前まで持ち上げてみせた。ラグナは宝石のような目を瞬かせると、セツナの顔を覗きこむようにした。
「こいつを倒せたってわけさ」
「よくわからんが、わしがもう少し早くおぬしと出会っておれば、主従が逆転しておった、ということかの?」
「なんでだよ。俺はただの人間だぞ。おまえみたいに転生できないっての」
「それもそうじゃが、なにもわしがおぬしを殺すとは限らんじゃろ?」
「殺す気だったじゃねえか」
「む……」
ラグナは、ぐうの音も出ないといった有様だった。実際、水龍湖におけるラグナの猛攻には、殺意が込められているとしか言いようのないものであり、セツナと黒き矛でなければ切り抜けられそうもないものだった。シーラとハートオブビーストでは呆気無く殺されていただろうし、それは他の武装召喚師たちも同じだろう。
あのときのラグナは、ラグナシア=エルム・ドラースという大仰な名前に相応しいといってよかっただろう。もう二度と戦いたくはないが。
「だから全力で戦うしかないと判断したんだけどさ」
セツナのいう全力とは、ワイバーンを一瞬にして消し飛ばした爆発のことだろうか。十日ほど前のことだ。いまでもはっきりと覚えている。荒れ狂う力の奔流によって、大地が揺れ、天が震撼し、森の木々が根こそぎ吹き飛ばされ、地形そのものが激変するほどの爪痕が刻まれた。それこそ圧倒的といっていい力だった。感じたのは恐怖であり、畏怖であり、しばらく体の震えが止まらなかったのを覚えている。
ひとの持つ力ではなかった。
「その結果、水龍湖周辺はでたらめに破壊されましたとさ。めでたしめでたし」
「全然めでたくないが」
「しかし、おぬしが全力を発揮してくれたおかげで、わしは転生できたといってもよい、めでたいといってもよいのではないか?」
ラグナがセツナの広げた手のひらのうえで翼を広げた。伸びでもするかのような動きは、セツナの手の中が窮屈だったからかもしれない。
「そうだなあ」
「なぜ、考える必要がある!」
「おまえがいて、なにか得したことなんてあったっけ?」
「ついこの間大いに役立ったじゃろうが!」
「あれくらい、別におまえがいなくてもなんとでもなったしなー」
「ぬぬぬ!」
ラグナはセツナの手のひらの上で一対の羽を広げ、さらに全身を輝かせた。威嚇しているつもりなのかもしれない。しかし、セツナは多少眩しそうに目を細めたくらいの反応しか示さなかった。シーラとて、ラグナの行動に恐怖は感じなかった。まず、セツナの手のひらに収まる程度の大きさだというのがある。その上、全体的に丸みを帯びた体型であり、どこをどう見ても愛嬌の塊にしか思えないのが、いまのラグナの姿だった。そんな彼に威圧感を覚えろというほうが無理なのだ。
「全然怖くねえ」
「なんじゃと!」
ラグナは憤然と叫ぶと、二本の足の力だけで飛び上がり、セツナの左耳に噛み付いてみせた。そのままぶら下がった様子は、奇妙な耳飾りのように見えなくもなかった。もっとも、噛みつかれた方は堪ったものではないだろう――と、セツナの表情を見ると、彼はむしろこそばゆそうな表情をしていた。
「痛くねえ」
「ぬう!」
ラグナは耳から口を離すと、そのままセツナの肩に降り立った。憤懣やるかたないといった表情だったが、かといって別の場所に噛み付いたところで同じことかもしれない。よく見ると、彼の口腔内には牙ひとつ見当たらなかった。
「そういえば、牙がないんだな、ラグナ」
「生まれたてじゃからの」
「そのわりには動きまわってるししゃべりまわってるし、菓子は食い散らかすし」
「散らかしてなどおらんではないか!」
「えー」
「えー、ではないわ!」
「まったく、やかましいひとりと一匹だな」
ラグナとセツナの口論には、苦笑しか浮かんでこない。
「おぬしにいわれとうないわ!」
「うおっ、矛先がこっちに」
「なんにでも噛みつきたい年頃なのさ」
「おぬしら、少しは万物の霊長たるわしを敬おうとは思わぬのか」
「思わんな」
「全然」
「ぬう……」
ラグナは机の上に降り立つと、しばらくセツナを睨んでいたが、やがてそれにも飽きたらしく、器に盛られた菓子を一瞥した。しかし、菓子に飛びつくこともなく、その場に丸まり始める。はしゃぎすぎて疲れたのかもしれない。
そんなラグナを見下ろすセツナのまなざしは、いかにも優しい。
「敬いはしないがな」
セツナがつぶやくと、ラグナがぴくりと反応した。彼の手が、ラグナに接近する。
「む?」
「邪険にもしちゃあいないぜ」
セツナは、ラグナの小さな頭を指先で撫でながら、そんな風にいった。
「……むう」
ラグナは、その目を閉ざし、たっぷりとため息を吐いた。
シーラには、彼の気持ちが手に取るようにわかった。セツナを怒っていいのか、甘えていいのかよくわからないといったところだろう。
セツナには、そういうところがあった。