第九百四十二話 黒き仮面(一)
「それにしても驚いたのはさ」
シーラは、セツナのためにお茶を入れながらつぶやいた。宿の一室。ふたりと一匹以外だれもいない空間。夫婦を演じる必要もなければ、なにかを隠し通さなければならない状況にもない。あのとき起こったことのすべてについて話し合ったところでなんの問題もないのだ。
もちろん、常に警戒はしている。常人に比べて耳の良いシーラが部屋の外にひとがいないか、ずっと聞き耳をたてているし、ラグナもいる。セツナの頭の上から膝の上に移動した小飛龍は、シーラよりも余程優れた聴覚や視覚を持っていたし、武装召喚師並の感知範囲を持っているといっても過言ではなかった。セツナが怪しい人物はいないか常に探っていろ、と厳命していることもあってラグナを頼りにしても問題はないだろう。征竜野北部の森のように皇魔を敵とも思わないがゆえに見逃した、などということはあるまい。どういう人間が怪しい人間なのか、セツナは懇切丁寧に説明してもいた。ラグナは、そんな風に言って聞かせようとするセツナを面白いものでも見るように眺めていたものだ。ドラゴンにとってはめずらしい光景だったに違いない。
「ん?」
「セツナが武装召喚術を使えるなんてさ」
「ああ、あれか」
セツナがお茶の入った茶器を手に取りながら、小さく笑った。
「あれは格好だけだよ」
「……やっぱりそうか」
「なんだ、わかってたのか」
「本当に使えるなら、もっと大声で呪文を唱えてそうなもんだからな」
シーラは、菓子を手に取りながら、いった。菓子は、酒場への道中、店主からなにか話を聞けないものかと立ち寄った店で購入したものであり、アバードで一般的に食べられているものだ。小麦を粉にしたうえで練り固めて焼き、砂糖をまぶしてある。そのひとつを口に運ぶシーラの脳裏には、酒場でのセツナとエスクの戦いが過ぎっていた。
小声で呪文を唱えるセツナの姿は、確かに格好だけなら武装召喚師そのものだった。実際、召喚武装を呼び出しているのだから、武装召喚師以外のなにものでもない。が、彼がいうには格好だけということであり、つまり、あのとき唱えた呪文にはなんの意味もなかったということになる。
(意味ならある、か)
虚仮威しとかそういうことではなく、武装召喚師を装うことができるという点で、あの呪文は重要だったのは間違いない。呪文もなしに召喚武装を呼び出すのは、明らかに不自然だ。もちろん、武装召喚師の武の字も知らないような人間が相手ならば、いくらでも取り繕いようはある。しかし、相手は歴戦の傭兵だ。武装召喚師と対峙したこともあるかもしれないし、ないとしても、武装召喚術がどういうものなのか、知っていて当然なのだ。呪文を用いず召喚することなどありえない、ということも知っているだろう。そして、ガンディアのセツナ=カミヤが呪文を用いずとも召喚を行える例外中の例外であることも、知っているかもしれない。
そこから正体がバレるのだけは避けなければならない。だから、セツナは呪文を唱えるフリをしたのだ。武装召喚師には通用しないかもしれないが、荒くれ者揃いのシドニア傭兵団の戦士たちを騙すことはできたようだった。エスクにも看破されなかった。看破されていれば、あのとき、セツナの正体についても言及されていたはずだ。それがなかったということは、少なくともエスクは、セツナをただの武装召喚師だと認識しているということだ。
「いっておくけど、呪文はちゃんと覚えたんだぜ? 丸暗記だけどな」
「へえ」
菓子の甘みが口の中に広がる。疲れが少しずつ取れていくような感覚がある、きっと気のせいだろう。どんな食べ物を口にしたところで、そこまで即効性があるはずもない。ましてやただの菓子にそのような力が備わっているはずもなかった。が、気のせいでも構わないという気分が、いまのシーラにはあった。
今日は、色々なことがありすぎた。
セツナが、こちらの顔を覗き込んできた。
「その目、信じてないな?」
「信じたところで、あれだけでたらめな言葉を並べ立てられれば、疑いたくもなろう?」
セツナの膝の上の小ドラゴンが、机の上に飛び乗りながらいった。器に盛られた菓子に鼻先を近づけているところを見ると、甘い香りに興味を引かれたのかもしれない。セツナが不服そうに口を尖らせる。
「どこがでたらめなんだよ」
「やっぱり、でたらめだったのか」
「納得するなよー。ラグナが武装召喚術なんて知ってるわけないだろー」
「むう……それはそうなのじゃが。しかしのう、言葉としてでたらめだったのは、間違いないのじゃ」
不満そうなセツナに納得がいかないといった様子のラグナ。どちらを信じていいのか、シーラにはまったくわからない。シーラは武装召喚師ではない。彼女の愛用の召喚武装ハートオブビーストは、セレネ=シドールが彼女のために召喚したものだ。ハートオブビーストの使い方だけを習熟したシーラは、武装召喚術の呪文について詳しく知らなかったし、術式がどういったものなのか、ほとんど理解していなかった。知っていることといえば、武装召喚術の行使には呪文が必須であり、解霊句、武形句、聖約句という三段階があるということ、武形句の文言は召喚武装によって大きく異なるということくらいだった。
「間違いないのは、俺の呪文のほうだよ。何度も何度も声に出して読み上げて、記憶に焼き付けたんだからな」
セツナは、ラグナに向かって言い聞かせながら、器に盛られた焼き菓子をひとつ手に取った。そして小さめに砕くと、手のひらの上に置いた。それからもう片方の手を開き、ラグナに近づける。ラグナはきょとんとしたが、すぐにセツナの意図に気づくと、手のひらの上に飛び乗った。そして、別の手のひらの上に散乱する菓子のかけらに目を輝かせた。セツナは両手を近づけると、ラグナが菓子に食らいつくのを待った。ラグナは、長い首を伸ばして菓子のかけらに食らいつき、宝石のような目を瞬かせた。不思議な味だったのかもしれない。
ドラゴンは、食事を必要としない、という。生命活動に必要な力は、周囲から取り込むことができるというのだ。セツナと黒き矛が発した力を吸収して転生したように、周囲の力を取り込んで生命力に転化するらしく、ラグナがセツナの下僕になって以来、なにかを口にしているという光景をシーラは見たことがなかった。とはいえ、食べられないというわけではないらしい、というのは、いま菓子を頬張り、妙に嬉しそうな表情を浮かべるドラゴンを見れば明らかだ。
そんなラグナの様子を見下ろすセツナの目は、どこまでも優しい。ついさっきまでエスク=ソーマと激しい戦いを繰り広げていた人物と同一人物とは思えないほどに柔らかなまなざしは、彼という人間を象徴するかのようだった。敵に対してはどこまで苛烈で凶暴だが、味方――こと身近な人々に対しては、どこまで優しく、甘いのだ。
その優しさに甘えているのが自分だということには、とっくに気づいている。気づきながら、見て見ぬふりをしている。彼に甘えなければどうにもならない状況が続いているから、というのは言い訳にすぎない。彼に甘えずとも、どうとでもなったはずだ。どのようにでも生きていけたはずだ。シーラはひとりではなかった。少なくとも五人の侍女たちがいて、彼女たちと協力すれば、どうとでも生きていけたのだ。だが、彼に甘えた、彼ならばなんとかしてくれるかもしれないという可能性に、甘えてしまった。
そして彼は、シーラの望んだ以上のもので応えてくれた。そうなれば、シーラも彼の望みに応えるしかないのだが、彼はなにも望んではこなかった。それどころか、シーラたちが元気に過ごしているだけで満足だとでもいいたげだった。そんなセツナに好意を抱かないはずがなかった。シーラだけではない。ウェリス=クイードを始め、シーラとともにセツナの庇護下に入った元侍女たちは皆、セツナの厚意にひたすら感謝していた。彼の優しさについて話し合ったこともある。彼が優しいということは、シーラたちにとっての共通認識だった。
その優しさを目の当たりにすれば、シーラといえども茫然とせざるを得ない。頭を振り、ぼんやりとしかけた頭を働かせる。
「つまり、その呪文が最初から間違っていたってことか」
「そういうことじゃな」
「なんでそうなるんだよ。《獅子の尾》が誇る武装召喚師様に教えてもらった呪文だぜ?」
「じゃあ、間違いじゃないんじゃないか?」
シーラは、セツナの手のひらの上で菓子を頬張ることに夢中なラグナを見遣りながら、いった。《獅子の尾》が誇る武装召喚師といえば、三人もいる。ひとりは、武装召喚術の始まりの地といってもいいリョハン出身のファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリア。ひとりは、ガンディアの名門バルガザール家の二男でありながら武装召喚術の使い手として名を馳せるルウファ・ゼノン=バルガザール。ひとりは、ザルワーン出身のミリュウ・ゼノン=リヴァイア。召喚武装は三者三様だが、三人とも優れた武装召喚師だということは疑いようがない。
クルセルク戦争では三人とも活躍し、連合軍の論功行賞で上位に入っている。
「しかしのう……」
「どこが間違いなんだよ」
「なにもかもじゃ」
ラグナがふんぞり返って告げた。そのときには、ラグナはセツナの手のひらの上に散乱していた菓子の破片を食べ尽くしている。セツナが半眼になった。
「それはおかしいだろ。一部ならまだしも、全部間違ってることなんてありえねえっての。ラグナが勘違いしてるだけじゃねえのか」
「むう……」
「単純に古代言語を知らないだけなんじゃないのか?」
「何万年も生きているドラゴンがか?」
「そうじゃそうじゃ。わしを敬え」
「なんでそうなる」
セツナは憮然とした。ラグナを敬う気は一切ない、とでも言いたげだったし、実際、尊敬に値する部分が少ないのは、シーラから見ても明らかではあったが。
「ま、おまえの発言はあてにならないってことだな」
「どう結論すればそうなるのか、教えてもらいたいもんじゃが……」
「仕方がねえよ。セツナがああまで言い切るんだ。自信があるんだろ」
「御主人様が自信を持つのは悪くはないことじゃと思うが」
「ま、そういうこったな」
シーラはそういって、この話を打ち切った。セツナとラグナが互いに譲らない以上、話を続けても平行線のまま、終りが見えないに違いなかった。そして、ラグナが古代言語を知らないという可能性も皆無ではなかった。数万年もの時を幾度と無く転生を繰り返しながら生きてきたドラゴンではあるが、彼が話しているのは共通語だ。古代言語は、共通語が浸透する遥か昔に使われていたといわれており、現代人には無縁の代物といっていい。共通語こそ理解し、流暢に話すことのできるドラゴンが、古代言語を知らないとしてもなんら恥じることではない。
古代言語が横行していた時代、彼は人語を解さなかったかもしれないのだ。