第九百四十一話 エスク
「エスク様、あのふたり、出て行ったようですが?」
彼女がエスクの部屋を訪れたのは、ニーウェ=ディアブラスとシーラが去り、しばらくしてからのことだった。エスクがそちらを見ると、彼女は店から酒瓶を持ってきていた。彼女も酒豪といっていい類の人間である。レミル=フォークレイ。団長代理補佐を務める長身の女傭兵の均整の取れた肉体は、遠目にも眼福に値した。
「ああ。宿に戻ったよ」
エスクは立ち上がり、酒を注ぐための器を探した。散らかり放題の部屋は、レミルの手が入るまでは雑念とし続けるのだ。彼女が室内の掃除に躍起になるのは、三日に一回程度の割合であり、そう考えると、明日中には綺麗になっていること請け合いだ。彼女の手際の良さは、エスクも見習わなければならないと思うのだが。
「どんなお話をされたのです?」
レミルは、机の上に置かれた三つの容器を見ていた。空になった器はひとつだけで、ふたつの器には酒が満々と注がれたまま、口がつけられた形跡さえない。ニーウェもシーラも酒を飲まなかったのだ。あまり得意ではないということであり、それでも酒場に足を運んだのは、情報収集のために仕方がなかったのだろう。ひとの多い場所にこそ情報は集まるものだ。彼らの考えそのものは間違いではない。
レミルのための器を見繕いながら、返答する。
「内緒」
「エスク様らしからぬことを」
「らしくないかね?」
「はい。わたくしには、なにもかも包み隠さず話してくださるのに」
レミルが少し残念そうにいってきた。彼女が甘えたような態度を見せるのは、ふたりきりのときだけだった。人前では決して見せることのない表情や声音には、エスクもつい甘い顔をしてしまう。
「そうだな……ま、おまえになら全部話してもいいのかもな」
「では……」
「いや、駄目だ。それをいっちゃあ、おしまいだ。なにもかもな」
きっぱりと告げる。
『殺すのは、あんただけとはいっていないぜ』
ニーウェの声が、脳裏に残っていた。冷ややかな声音だった。そして、血も凍るようなまなざしだった。数えきれないほどの戦場を渡り歩き、思い出せないほどの敵を斬り殺してきたエスク=ソーマですら全身が総毛立つのを感じずにはいられなかった。ただの武装召喚師ではない。少なくとも、駆け出しの武装召喚師などということは断じてありえない。そもそも、シーラ姫の護衛を務めるものが、そのような頼りない存在であるはずもなかったが。
(本当、なにものなんだろうな?)
エスクは、彼の目に歴戦の強者を感じた。それこそ、膨大な数の死線を潜り抜けてきたものだけが持つ感覚であり、気配であり、においだった。死、といいかえてもいい。死のにおい、死の気配、死の響き――彼の言葉に従わざるを得なかったのは、彼がその気になれば、シドニア傭兵団の残党など、一夜にして壊滅するに違いないという確信にも似た予感を抱いてしまったからだ。
だから、いえない。
彼女は口が固いし、秘密は必ず護る女だ。エスクがふと漏らしてしまったようなことも胸に秘め続けていたし、睦言をだれかに漏らしたということもない。エスクが唯一気の置けない相手といっていいのが彼女だった。彼女になら、どのような秘密だって明かすことができた。
(だが、これは駄目だ)
何事にも、万が一ということがある。
レミルがことの重大さに耐え切れず、漏らしてしまったが最後、シドニア傭兵団が壊滅するようなことがあってはならないのだ。
そうなれば、彼女を失うことになる。
それだけは、エスクとしては避けたかった。
ラングリードを失ったいま、彼女だけが心の拠り所といっても過言ではないのだ。
「残念です」
「今回ばかりは、仕方がないのさ」
無念そうな表情のレミルから目を逸らしたのは、情に流され、話してしまいかねないからだ。エスクは自分にそういうところがあるということをよく理解していた。だから、あまりひとを近づけないし、自分から距離を詰めようともしない。近づけば、近くにいれば、情が移る。情が移れば、正常な判断ができなくなるかもしれない。部隊長ですらなかったころならまだしも、団長代理を務めている現在、そのようなことではいけないのだ。ただでさえ不人気の団長代理だというのに、情にほだされるようでは、ますますだれもついてこなくなる。
もっとも、レミルとの距離感は、つかず離れずというほどのものですらないのだが。
「しかし、まあ、酔いを覚ますには十分過ぎる話ではあったな」
「赤ら顔でそのようなことを申されましても」
「赤いかね?」
エスクは、レミルの一言に、自分の顔を撫でた。撫でたところで顔色などわかるはずもない。レミルが笑った。彼女を笑顔にするためなら、道化だって演じるのだ。
「はい。端正な顔が台無しですよ」
「そんな風にいってくれるのはおまえだけだよ、レミル」
「ですから、エスク様を独占できるわけです」
「むう……」
喜んでいいのかわからず、彼は顔をしかめた。まるでレミル以外にはそう見えないとでもいいたげな台詞だったからだ。実際、彼女以外にはそう見えないのかもしれない。酒に溺れた男の顔など、緩みきっているに決まっている。
だが、その緩みきった顔とも今日で最後になりそうだった。日がな一日、酒を煽り、益体もなく乳繰り合うのも悪くはなかったのだが、しかし、戦士としての本性がそれを許さないようだった。
「それで、エスク様は、酔いから目を覚ましてなにをなさろうというのです?」
レミルが尋ねてきたのは、酔いが回り、世界が酒の中に沈んでいく途中のことだった。彼女は、遠回しにエスクとニーウェたちとの会話の内容を探ろうとしているようであったが、単純にエスクの様子が気になったようでもあった。エスクが泥酔といってもいいほどに酒に酔い、彼女の太ももを枕にするなど、めずらしいことだったからだろう。
彼が酔い潰れているのは、酒を飲まずにいられなかったからだ。酒を飲んで、酔い潰れてしまわなければやっていられないような現実の中にいた。酔いを覚ますために酔わなくてはならない。いかにも矛盾しているが、彼の中ではなんら矛盾していなかった。
そして、酩酊状態にあるからこそ、彼は覚悟を定めることができたといってもいい。
告げる。
「復讐してやるのさ」
「復讐?」
「そうさ。団長の敵討ちをするんだ」
「敵討ち……兄上の……?」
彼女は、呆然とした顔でこちらを見た。
彼女は、ラングリードを失ってから今日に至るまで敵討ちなど想像もしなかっただろう。レミルはそういう女性だ。すべてを受け入れ、飲み下すことのできる人間なのだ。その点、エスクは違う。なにもかも受け入れたうえで、消化しきれず、燻り続けている。いつか再び燃え上がる日を夢見ているかのように、だ。
その時が訪れた。
「ああ、レミル。おまえの兄さんの、ラングリード団長の敵討ちだ」
エスクは上体を起こした。回る世界の中心で、彼は虚空を睨み据えた。獣姫の悲壮感に満ちた表情が浮かび上がって、消えて失せる。シーラ。いや、シーラ・レーウェ=アバード。このアバードの混乱を招いた人物は、のうのうと生きていた。のうのうと生き、のうのうとアバードの混乱に口出ししようとしていた。
『これ以上、俺のためにだれかが死ぬのは、嫌なんだ』
シーラの発言には怒りさえ沸かなかった。
馬鹿にしているにも程がある。
エスクは、あの場でシーラを叩き切りたい衝動に駆られた。ニーウェがいなければ斬り殺していたに違いない。
「団長を……俺たちシドニア傭兵団をコケにしやがって」
そのためにも、いまはシーラとニーウェに従うよりほかはない。彼女たちに従っていれば、復讐の好機は訪れるに違いないのだ。