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第九百三十九話 シドニアの傭兵(七)

「ただの武装召喚師だよ」

 セツナが告げると、エスクが苦笑を浮かべた。

「いずれ天下に名を轟かす?」

「そうでございます。旦那様の実力は、先ほど拳を交えたエスク様ならおわかりになられたかと想うのですが」

「ああ、そうだな。確かに、強えよ、あんたの旦那はさ」

 エスクは、シーラの発言を肯定すると、酒を呷った。容器に満たされた液体が一瞬にして空になる。しかし、彼の豪快な飲みっぷりに唖然とする間もなかった。エスクが、シーラを睨んできたからだ。凶暴な目だった。敵意を秘めた鋭い刃のようなまなざし。背筋が凍るような感覚。女傭兵に肩を掴まれた時よりもずっと恐ろしいのは、エスクの実力を理解しているからだ。エスクは、シーラよりも余程強い。そのことは、セツナとの戦いの中ではっきりと理解できた。しかし、その視線に込められた悪意の意味を理解することは、難しい。

「けど、あんた、なんで生きてんだ?」

「はい?」

「それに、いつの間に結婚してたんだ?」

 エスクの言葉には、さすがのシーラも驚いた。どきりとしたし、内心、焦燥感を覚えないではなかった。しかし、表情には一切表さない。そもそも、顔面は頭巾の影に隠れている。彼に表情が見えるはずもない。

「いや、正体を隠すために夫婦を演じているだけか?」

「なんのことでございましょう?」

「いまさら隠さなくったっていいんだぜ? 俺は、あんたの声を覚えてる。いや、一度聞いた声は忘れないといったほうが正しいか」

 エスクは、シーラを見据えたまま、容器に酒を注いだ。満々と注がれた酒は、いまにも溢れ出しそうだった。が、こぼれない。ぎりぎりのところで踏みとどまっている。もっとも、彼が容器を口元に運ぼうとしたとき、机の上に溢れて、せっかくの調整も台無しになってしまったが。彼は、気にせず酒を煽った。飲み干し、再びシーラを見据える。

「あんた、シーラ様だよな? シーラ・レーウェ=アバード。獣姫、アバードの戦姫せんき、男装王女――あんたを呼び表す言葉は数多あれど、俺達にとっちゃ獣姫が一番しっくりくる。戦場で暴れ回るあんたの姿には、うちらの荒くれ者どもも惚れぼれしてたもんだ。そのあんたが処刑されたもんだから、生きる気力を失ったやつだっているんだぜ?」

「仰られていることの意味がわかりません」

「だから――」

 エスクの腕が伸びてきて、シーラは咄嗟に身を屈めた。頭巾を手で抑え、取られないようにする。正体は、隠し通す必要がある。相手にどれだけの確信があろうとも、白を切り通すのだ。でなければ、なにもかも水泡に帰してしまう。これまでの努力もすべて無駄になる。

 セツナにかけた迷惑も、なにもかも。

 エスクの手がシーラの頭巾に触れることはなかった。

「あん?」

「妻に手を出したら承知しねえっつってんだろ?」

 恐る恐る顔を上げると、セツナの手がエスクの手首を掴み取っていた。わずかに震えるふたりの腕が、空中でせめぎ合っていることを伝えてきている。どちらも一歩も引かないまま、数秒あまりが経過した。エスクがはっとしたように表情を変えた。彼の腕から力が抜ける。

「……おおう、わりいわりい」

 エスクが腕を引くと、セツナも手を元の位置に戻した。シーラがセツナを横目に見ると、彼の目は鋭く研ぎ澄まされていた。エスクへの警戒を改めている。手元には黒の仮面があり、いざとなれば召喚武装を使うことも辞さないという彼の態度には、シーラも心強さを感じずにはいられなかった。セツナはこの酒場に入ってからというもの、頼もしいというほかなかった。惚れなおしているといっても過言ではない。それもこれも、シーラがシーラらしく振る舞えないことも大きいのだろう。守られているという実感がある。彼が守ってくれているという感覚。らしくはない。らしくはないが、気分の悪いものでもない。

(こういう感覚……初めてかもな)

 子供の頃ならいざしらず、いつからか、彼女は守られる側ではなく、守る側の人間になっていた。戦士であり、戦姫。獣姫の名をほしいままにする戦場の王者。それがシーラだった。シーラ・レーウェ=アバードという人間だった。彼女はアバードの守護者であり、彼女が守られることなどありえないことだったのだ。

「もっとも、あんたらが本当の夫婦だろうが、正体を偽るための仮初の夫婦だろうが、そんなこたあどうだっていい。俺が知りたいのは、処刑されたはずのシーラ姫が、なんで生きてるかってことだ」

「ですから……」

「声音を変えたって、特徴を消すことなんてできねえもんさ」

「……仕方がない」

「旦那様?」

 シーラは、疑問符を浮かべた直後、あっと声を上げた。セツナの手が伸びてきて、彼女が目深に被っていた頭巾を後ろにずらしてしまったからだ。魔晶灯の光の下、シーラの素顔が明らかになる。エスクの表情がにやりと歪んだ。

「あんたのいうとおりだよ、エスク。彼女はシーラだ」

 セツナの言葉を、シーラは上の空で聞いていた。正体は、隠し通さなければならないはずだった。そうしなければ、目的を果たすことなど不可能なはずだ。それなのに、彼はあっさりと認めてしまった。これではなにもかも破綻してしまうのではないか、という焦燥は、しかし、セツナの手が肩に触れているというだけのことで鳴りを潜めた。セツナは、シーラの頭巾を脱がせた後、肩に手を乗せたままにしていた。まるで、こちらの不安を取り除くかのようにだ。シーラは、セツナの手に触れようとして、思いとどまった。エスクの目が光っている。

「おう、それが正解だ。正しい判断だよ、ニーウェ。隠し通すことなんざ無理なんだから、認めるべきだ。そうすりゃ、無意味に軋轢を生むこともねえ」

「だけど、シーラ・レーウェ=アバードじゃない」

「は?」

「ただのシーラさ」

「……ああ、そういうことか」

 セツナの一言に、エスクは納得したようだった。理解が早い。

「……まったく、これでなにもかもご破算になったじゃねえかよ。どうすんだ?」

 シーラは、胸の前で腕を組みながら、セツナを睨んだ。腹のあたりで隠れたままのラグナがわずかに動き、妙なくすぐったさを覚えたものの、幸い、表情に出るようなことはなかった。この状況で笑ったりすれば怪しまれるに決まっている。シーラの正体が明らかになってしまっただけでも大問題だというのに、小さなドラゴンまで現れれば、いよいよ騒ぎは大きくなるだろう。セツナが小さなドラゴンを従えているという情報は、おそらくアバードにも届いているはずだ。もちろん、そんな普通ではありえない話を鵜呑みにするものなどそういるものでもないだろうが、現実にドラゴンが存在していることが判明すれば、セツナと関連づけるに決まっている。そうなれば、どうなるか。簡単な話だ。シーラと一緒に行動しているこの黒髪赤目の少年がセツナ=カミヤだと断定され、シーラのアバード潜入にガンディアが関与していることになるだろう。そして、その情報がアバード政府に知れ渡れば、ガンディアとアバードの間に、一気に緊張が発生することになる。

 シーラが一瞬のうちに考えたのはそのようなことであり、だからこそ、セツナを睨みつけたのだ。しかし、彼は涼しい顔だ。まったく気にしていないらしい。そして、エスクの反応も、シーラの相応していたものとは大きく違っていた。

「おお、これだこれだ。これこそ、俺の知ってる獣姫だ」

「はん?」

「相変わらずお美しゅうございますなあ。タウラルでよく拝見しましたよ、姫様のご尊顔」

 さっきまでとは打って変わった恭しいエスクの態度に、シーラは眉根を寄せた。シドニア傭兵団がシーラ寄りの戦闘集団だということは、団長ラングリード・ザン=シドニアがシーラ派を公言してやまなかったことからも明らかではあったが、“剣魔”エスクまでもがそのような態度を見せるとは、思いもよらなかったのだ。もちろん、タウラル要塞での彼のことは、覚えている。いまと変わらない態度、反応だったのは間違いない。しかしそれは、団長ラングリードがいる手前、そうせざるを得なかったのだと勝手に思っていのだが。

 どうやら、それだけではないらしい。

 シーラは、ぶっきらぼうに告げた。

「だから、姫じゃねえよ、もう」

「わかりますがね、言いたいことは。ま、そこは尊重しましょう。俺と同じだ。俺も団長じゃねえ」

 シーラは、彼が団長代理であることを強調していたことを思い出した。団長と呼ばれることを極端に嫌っているのは、彼がラングリード・ザン=シドニアを団長として敬慕していたからに違いない。ラングリードが戦死したいまでも、ラングリードのことを慕っているのだ。だから、シドニア傭兵団の残党を纏めるため、仕方なしに団長の代理を務めている。

 ラングリードの代わりに団長となれるものが現れるまで。

「それで、わかってるんだろうな?」

「ん?」

「正体を明かしたんだ。このことを他人に漏らせば、あんたの命はないと思え」

 セツナの口調は、さっきまでとは打って変わって鋭かった。研ぎ澄まされた刃のような声音は、彼が黒き矛のセツナであるということをシーラに思い知らせるようだった。底冷えするような響きがある。彼がこれまで数多の死線を潜り抜けてきたという経験が、彼の言葉に重みを与えているのだ。だが、エスクは、まったく動揺していない。むしろ、セツナの態度をただの強がりだとでも認識したかのように笑った。

「他人に漏らした時点であんたたちの目的はご破算になるんだろ? 立場は、俺のほうが上ってことだな?」

「どうかな?」

 セツナは、エスクの返答に対して、冷ややかな笑みを浮かべた。血のように紅い目が、エスクの目を見据えている。告げる。

「殺すのは、あんただけとはいっていないぜ」

 セツナの声は、恐ろしく冷えていた。虚言でもなければ、強がりでもない。ただ、淡々と事実を述べているだけのような声であり、その声を聞いたエスクに多少の思考時間を与えた程度には迫力があった。これまで余裕の態度を崩さなかったエスクの表情に変化をもたらしただけで、セツナの凄みがどれほどのものかわかるだろう。隣に座っているシーラが緊張を覚えるほどだ。

 彼にこのような駆け引きができるとは思っておらず、シーラは、セツナの新しい一面を発見する思いだった。このふたり旅が始まってからというもの、そんなことばかりだ。シーラがセツナのことを知らなすぎるということもあるだろう。そんなよく知りもしない人物を頼ったのは直感にほかならないが、その直感はどうやら正しかったということが判明して、彼女は心底安堵した。

 セツナならば、自分と侍女たちを任せても、安心できる。

「……ま、そういうことなら、従おう。俺も、団長代理を務める身だ。部下を無為に死なせるわけには行かねえ」

 エスクの言葉には、重みがあった。団長代理だからこそ、引いたのだ。引かざるを得なかった。引かなければ、彼の部下は、セツナによって皆殺しにされるかもしれない。セツナは武装召喚師だ。それくらいのことはやってのけるだろう実力の持ち主だということは、エスクもよく理解している。だから、彼はセツナとの駆け引きを諦めたのだろう。

 彼がもし団長代理などでなければ、セツナとの駆け引きを続けるつもりだったに違いない。

「しかし、怖い目だなー。まるで何千もの死を見てきたような目だ。ひとを殺すことをなんとも思っていないものの目だ。駆け出しの武装召喚師さんがよ、どうすりゃそんな境地に辿り着けるんだ?」

「さあな」

「……武装召喚師の修行ってのは、そこまで恐ろしいものなのかね?」

「かもな」

 シーラがいうと、エスクは軽く肩を竦めた。取り付く島もないということを思い知ったらしい。彼は、空になった容器に酒を注ぐと、勢い良く飲み干した。それから、セツナとシーラの顔を交互に睨んだ。

「……あんたたちの目的はなんだ? 死んだはずのシーラ姫が正体を隠してこの街に住んでいた、なんてことはないよな?」

「それはないが……」

 セツナがこちらを一瞥した。どう答えるべきか、判断しかねているといった表情だった。どこまでいっていいのか、なにを隠し、なにを話すべきか、繊細な問題故にセツナひとりでは判断できないと踏んだのだろう。そして、その判断をシーラに委ねているようでもある。

「良かった。ひとつ安心した。俺のあずかり知らぬところでシーラ姫が住んでいたなんて話になったら、大問題だ」

「大問題?」

「いや、問題なんて起きようがないんだが、なんとなく」

「はあ……」

 シーラは、エスクの軽さについていけず、ため息を漏らした。さっきまでの緊張感は、はや消え去っていた。重圧さえ消滅している。セツナから圧力を感じずに済むようになったのはありがたいのだが、これではまじめに会話することもままならないのではないか、と彼女が懸念するほどの軽薄さが、エスクの表情に生まれていた。かといって、この空気感を変える方法もない。

 一度、セツナを横目に見る。彼は先ほどと変わらない表情でこちらを見ていた。シーラに判断を委ねている。エスクにどこまで話すのかは、シーラ次第のようだった。

「正体が明らかになった以上、隠しておく必要もないか」

 シーラは、エスクに視線を戻して、口を開いた。



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