第九十三話 飛翼
西方から到来した敵援軍に対し、ガンディア側があてがったのはラクサス=バルガザール率いる急造の部隊だった。騎士ラクサスを指揮官とする百騎は、ログナーの切り札たる千五百の増援に対抗するためだけに編成された。丘の上の本陣から傭兵部隊の後方を迂回し、西へ疾駆する。全騎、死力を尽くす覚悟であろう。
たったの百騎で、十五倍もの軍勢に立ち向かおうというのだ。無謀以外のなにものでもなかった。もちろん、無為無策で突っ込むわけではないし、増援部隊を殲滅するという任務でもない。千五百の援軍がログナーの本隊に合流するのを防ぐのが、ラクサス隊の使命だった。
怒涛の如く押し寄せる激流をどうやって塞き止めるのか。
その鍵を握るのは、ラクサスの駆るロクサリアの後を追うエメリオンに騎乗した武装召喚師――つまり、自分だ。
ランカイン=ビューネルは、バルガザール家の保有する駿馬エメリオンの足の速さに惚れ惚れとしながらも、その頭の中では今朝の出来事を思い浮かべている。セツナをけしかけた直後のことだ。レオンガンド・レイ=ガンディア王に直接進言することができたのは僥倖だった。これがラクサスや他の騎士、王の側近に話を通さなければならなかったとしたら、随分とややこしい事態になっていたかもしれない。
しばらく振りに会う青年王の顔は、随分とやつれているように見えた。それは気のせいかもしれないし、勝手な思い違いかもしれない。ともかくも、ランカインは己の意識を支配する呪縛に抗うこともなく、青年王の虜として振る舞った。陛下には逆らえない。抗えない。その必要性さえ感じない。疑問を挟む余地もない。故にこそ、彼はなんの邪念もなく、セツナのことを話すことができたのだろうが、
『それが事実なら、責任問題になりかねないな』
事がラクサスの首が飛ぶだけならばまだいい、とレオンガンド王は続ける。それだけならば、なんとでもなる。ラクサス=バルガザールは将来有望な騎士であり、バルガザール家の家督を継ぐに申し分のない男だが、事と次第によっては責任を負う立場でもあった。が、本隊の半壊によって生じた損害は、ひとりの騎士に背負わせるにはあまりに大きすぎた。事は、彼が責任を負えば済むという話ではなくなっている。
なればこそランカインは、レオンガンドに洗い浚い話したのだが。
セツナの失態が明らかになれば、レオンガンドの失策と責任を追求してくるものたちが現れるだろう。そして、彼らは、その失態で死んだ兵士たちの遺族を煽り、“うつけ”の悪名を再び流布しようとするかもしれない。バルサー要塞を奪還しただけでは拭いきれない不信が、国民の間で根付いているのだ。だからこそレオンガンドは実績を積み重ね、信頼を勝ち取ろうとしているのだろうが、それが裏目に出た。
結果、無駄に兵士が血を流し、みずからの立場を危うくしている。もちろん、レオンガンド個人の問題ではない。そもそもの問題は、ランカインにあるといってもいい。あそこでセツナを指名したのは彼だったし、ランカインは、セツナならばそうするだろうとも想っていた。
無論、セツナが殺さなかった相手によってガンディア軍の本隊が急襲され、半壊するという結果など想像もしていなかった。こちらの馬車を追い抜いただけではなく、先遣隊をも抜き去り、本隊の方を襲撃するなど考えつきもしない。だからといってランカインの責任がなくなるわけではないが、直接手を下せたのに放置したのはセツナの意志である。つまりはセツナの失態であり、彼はそれによって変わったはずだ。
少なくとも、ただの子供ではいられなくなるだろう。嫌でも直視せざるを得なくなる。普通の人間ではないという事実を向きあうことになる。そして、それを乗り越えるだろう。そのための通過儀礼に過ぎない。儀式に贄は付き物だが、千人以上の兵士の命だ。捧げ物には十分すぎる。
ともかくも、レオンガンド王は己の立場を護るために、セツナの失態を内密に処理することに決めた。レオンガンドとランカインだけの秘密ということだ。ランカインが口外しない限りばれることはないし、ランカインが王命に背くことなどありえないのだから、秘密は永遠に守られる。
ガンディアとて一枚岩ではない。弱みを見せるわけにも、掴まれるわけにもいかないのだ。そしてガンディアはまだ弱小国に過ぎないレオンガンドが磐石な体制を築き上げるまでは、それら反対勢力とも上手く付き合っていかなければならないのだ。
「カイン=ヴィーヴル! 手筈通り頼む」
「騎士殿の仰せのままに」
見やると、前方にログナーの増援部隊と思しき大軍があった。歩兵と騎兵の混合部隊であるが故、その速度は必ずしも早くはない。こちらは騎兵のみによる部隊であり、だからこそ合流阻止などという無謀な作戦も視野に入れることができる。
(もっとも、それでさえ俺がいるからだが)
手斧の召喚武装・地竜父を掲げたランカインは、自負するでもなくそう思った。当たり前の結論である。如何に死力を尽くそうとも、たかだか百騎程度で十五倍もの軍勢を押し止めることなど至難の業だ。そんなことができるだけの力があるならば、先遣隊だけでログナーの本隊に勝利することすら可能かもしれない。もちろん、兵力差を覆して勝利を手にしてきた例など過去にいくらでもあるだろう。しかし、それら成功例にガンディア軍を当てはめるには少々無理があった。具体的には人材の不足と経験の不足。それらを補うための戦力もない。
(だからこんな事態になったわけだ)
機先を制するためとはいえ、部隊を二つに分けたのは失策だったかもしれない。いや、むしろ二つに分けたからこそ、この程度の被害で済んでいると考えるべきか。レオンガンド王が本隊とともに行動していたら、今頃どうなっていたものか。
益体もない話だ。もしもの可能性を考慮するよりも、今は目前に迫った敵軍への対処に全力を尽くさなければならない。目前とは言っても、数百メートル以上も離れている。こちらが相手を捕捉しているということは、相手もこちらを認識していると考えていい。先制の一撃は与えられない。奇襲にはならない。警戒されている。
彼は、鼻で笑った。それならば、その警戒を無為にしてしまえばいい。
ラクサスを追い抜き、さらに敵軍に接近する。敵は、進軍速度を落としていた。こちらに対応するためだ。最前列の歩兵たちが盾を構えるのが、ランカインの目に止まった。こちらの突撃を予想してのことだろうが、たった百騎で突っ込んだところでこちらが壊滅するのは目に見えている。それでは時間稼ぎにさえならない。もっと効果的で、簡単な方法がある。
ランカインは、背後を振り返ってラクサスに目で合図を送ると、手綱を引いてエメリオンの足を止めた。馬上から飛び降り、騎兵隊がラクサスの指示に従って進路を変えたのを足音で認識する。敵軍の横腹を突くために大きく迂回した進路を取る。奇襲は無意味。これは攻撃のための進路ではない。
晴れ渡った空の下、雄大な大地が広がっている。見知った天地。昔と変わらぬ乾いた色彩。風は穏やかで、ここが戦場であることを忘れさせるようだ。熱狂がない。戦闘の熱と狂気が、この場にはなかった。騎兵たちが指定の地点へ向かっているいま、戦場の緊張を伝えるものはほとんどなかった。唯一、駿馬エメリオンだけが、まるでランカインのやろうとしていることを悟っているかのように震えている。武者震いかもしれない。
前方、敵は雲霞の如く――というほどでもないが、一人で相対するには多過ぎる数の敵意が、こちらに向かってきている。無論、進路を変更した騎兵たちへの警戒も怠ってはいない。不用意に近づけば、矢の的にされること請け合いだ。が、そうはさせない。そのために彼は投入されたのだ。レオンガンド王としては、彼を手元に置いておきたかったはずだが、駒として送り出さざるを得なかった。それほどまでに逼迫している。
敵軍から放たれた数本の矢が足元に突き刺さった時、ランカインは、手斧を思い切り地面に叩きつけていた。地竜父の名が示すように大地の力を司る手斧は、切っ先を地面に叩きつけられた瞬間、その秘められた力を発揮した。目に見えない力の波が、地中を潜行しながら標的へと疾走する。見えざる力の終着点は、迫り来る敵軍のちょうど真下だ。力の波は、目的地点に到達するとともに爆発したかのように拡散する。
ランカインが顔を上げた時には、天変地異が起きたかのような轟音とともに大地が割れ、上空高くまで土煙を舞い上げたところだった。地中から吹き出すかのように舞い上がった粉塵は分厚い雲のようにそびえ立ち、敵軍の様子がわからなくなる。が、間違いなく彼らの足は止まった。止まらざるを得ない。割れた大地に吸い込まれたにせよ、隆起した岩石に吹き飛ばされたにせよ、ただでは済むまい。進軍に支障をきたすのは間違いない。
しかし、この一撃ですべてが決するわけではなかった。広範囲に高威力の攻撃を繰り出すには、地竜父の性能は低いのだ。威力、精度を抑えなければ、攻撃範囲を広げることはできない。大した怪我を負わせることもできなかっただろう。
もっとも、目的は時間稼ぎだ。本隊との合流を阻止することさえできればいい。その程度の役目ならば、この手斧でも可能だ。
粉塵が風に流れていく様を見遣りながら、彼は再び斧を振り上げた。矢が飛んでこないところから考えると、敵軍は態勢を立て直すことすら出来ていないようだ。あの土埃の中で精確な射撃を行えるとも思えないが。
地竜父で大地を叩く。先とは異なる力の波動が地表を走り、敵軍へと殺到し、その手前で爆発した。地竜父の力によって大地が形を変える。地面が大きく隆起し、分厚い壁となって聳え立つ。敵軍の進路を塞ぐように、だ。敵軍が持ち直し前進しようとしたところで、巨大な壁が立ちふさがっていては進路を変えざるを得まい。壁は、敵の前方と左側に聳えている。まるで断崖のようだ。
ランカインは、軽い目眩を覚えながら馬上の人となった。召喚武装の力を行使するとはいえ、その媒介となるのは使い手の精神力だ。力を行使するには、己の精神を削り、差し出さなければならない。その力が大きければ大きいほど、消耗する精神力も大きくなる。街を焼き尽くしたときよりも消耗が激しいのは想定外ではあったが、支障はないだろう。
どの道、本格的な戦闘にはならない。
ランカインは、地竜父が築いた障壁の巨大さを実感しながら、馬を走らせようとした。が、彼はその場から動けなかった。
巨大な岩壁のちょうど真ん中辺りに亀裂が走り、真っ二つに割れたのだ。
崩壊する岩壁の向こうに立っていたのは、真紅の甲冑を纏った男。
「グラード=クライドか」
ログナーの赤騎士とも呼ばれる、飛翔将軍の片翼。
その隆々たる体躯を覆う紅い鎧が、淡く輝いているように見えた。