第九百三十七話 シドニアの傭兵(五)
妙な感覚があった。
まるで心の奥底まで覗かれるような感覚であり、魂にまで手を触れられるような実感であり、彼女は、足を止め、手を止め、呼吸さえも忘れてしまった。
決して、嫌な感覚ではない。
むしろ、甘美なものだった。
甘美で、官能的だった。このまま触れられ続けるのも悪くはないとさえ思えた。
(だれに?)
疑問符を上げたところで、思い浮かぶのはひとりしかいない。彼だけが、彼女の心を覗くことができるはずだ。彼だけが、彼女の魂に触れることができるはずだ。彼以外のだれにも心を許すことはなく、彼以外のだれにも、この魂を触れさせることなどありえない。彼だけが彼女の主であり、支配者なのだ。魂の王であり、光なのだ。
だから、彼以外にはありえない。
しかし、だからこそ疑問が浮かぶ。なぜ、彼に心を覗かれていると感じるのか。彼に魂を触れられていると感じるのか。精神の秘部を探られていると想うのか。そんなこと、今日に至るまでの一度だって感じたことはなかった。彼が彼女を拒絶しているからでも、邪険にしているからでもない。それこそ、彼が彼女を一個の人間として認めているからに他ならない。
彼女としてはそれでは物足りないと感じることもあるのだが、愛を感じることもないではない。愛というよりは想いやりなのだろうが、想いやりとは愛情の片鱗であるという言葉を信じれば、愛と言い換えても問題はあるまい。
そんなことを主に向かって言い放てば、彼はきっと一笑に付すだけだろうが。
「どうしたの?」
ミリュウが顔を覗き込んできたことが不思議だった。血のように紅い髪が特徴的な女武装召喚師は、レムに対しては辛辣な態度をとるのが常だった。いや、レムに対してだけではない。彼女の主に近づこうとする人間には容赦がないのだ。ミリュウにとっても、彼女の主は魂の拠り所であるらしい。
「はい?」
「箒を落とすなんて、らしくないじゃない」
そういって、彼女は箒を手渡してくれた。そういえば、レムは掃除の最中だった。いや、レムだけではない。ミリュウもファリアも、ルウファ、エミル、マリアに黒獣隊の面々も、天輪宮の大掃除に動員されている。この大掃除を提案したのは、レム自身だ。彼女の主とシーラのことで不安に駆られている面々の精神状態を安定させる方法を考えに考えた末、彼女が出した結論がそれだった。
体を動かしていれば、余計なことを考えずに済むかもしれない。
セツナやシーラのことを考えていると、それだけで気鬱になってくるのは当然のことだ。無事を祈れど、なにがあるのかわからない。なにもかもうまくいくという保証はない。むしろ、失敗する可能性のほうが高いとさえいえる。天輪宮全体が陰鬱な空気に包まれるのも、必然だったのだろう。
大掃除には、そういった空気を払拭する意味もあった。
天輪宮を綺麗にして、セツナが帰ってきた時に驚かせるのだ、という彼女の提案は、ファリアたちの賛同を得た。彼女たちも、ただセツナの帰りを待っているのは辛かったに違いない。
「……欲求不満なのかもしれません」
「はい!?」
「レム、あなたちょっとだいじょうぶ?」
ミリュウだけでなく、ファリアまでもレムに歩み寄ってきた。ファリアは、眼鏡をかけている。その眼鏡は、セツナからの贈り物であり、彼女はその銀縁の眼鏡をかけている限り上機嫌だった。セツナから贈り物を貰ったのは、ファリアひとりではない。ミリュウやルウファたち《獅子の尾》の面々のみならず、レムの分まで用意されていた。皆、セツナの思い遣りに感激したものだし、レムも、セツナの愛に打ち震えたものだ。
レムには、彼女の普段着ている衣装に似合う黒の首飾りだった。
「……さっきから、御主人様を感じるんです」
「セツナを?」
「はい。きっと、御主人様成分の摂取が不足しているのだと想うのですが」
それがレムの素直な感想だった。きっと、セツナが不在の数日間があまりにもつまらないから、こんな錯覚を感じているに違いない。無意識に思い込み、自分を慰めているのではないか。でなければ、説明がつかないことだった。
セツナはいま、アバードに潜り込んでいるはずだ。ふたりを見送ってから五日以上経過している。国境を突破し、シーゼルには辿り着いているころだろう。龍府とシーゼルは、近いといえば近い。が、セツナの気配を感じ取れるような距離では断じてなかった。
そもそも、セツナがレムの心を抱き締めることなど、ありえない。
「まるで、御主人様に抱かれているような感覚が――」
「……レム、あんたほんとどうかしてるわ」
「掃除はいいから、休んでなさい」
「わたくしに休憩は不要です」
レムは、言い切ると、ぼんやりする頭のまま、掃除を再開した。決して悪い気分ではない。むしろ心地良いとさえいっていいのだが、これでは掃除に集中できないのは目に見えている。かといって、なにもせずにいるのはもっとまずい気がした。この甘美な感覚に身も心も委ねてしまうに違いない。そうなれば、自分は一体どうなってしまうのか。想像するだけで恐ろしかった。
「必要なのは、御主人様だけです」
レムが告げると、ミリュウとファリアはなぜか頭を抱えた。
(あれは……)
シーラは、セツナの右手の中に召喚された物の姿形に目を細めざるを得なかった。
黒い仮面だった。魔晶灯の光を反射することのない暗黒の仮面は、シーラには見覚えがあった。ジベルの死神部隊長であり、死神零号ことクレイグ・ゼム=ミドナスが身につけていた仮面によく似ていた。似ているだけで同じとは言い切れない。しかし、仮面から感じる不吉さは、まったく同じものだ。
黒き矛を召喚したわけではなかったことには安堵した。彼が武装召喚師だということは、告げている。彼が武装召喚術を駆使したところで、だれも、なんの不思議にも思わないだろう。そして、彼は呪文の結尾だけを唱えたわけではない。
いまさらのように、シーラは彼が呪文を唱えていたのだと理解した。だれにも聞き取れないほどの声で、詠唱していたのだ。術式を構築していたのだ。武装召喚術の術式とは、古代言語の羅列による呪文の詠唱にほかならない。呪文を唱えることがすなわち、術の式となるのだ。
もっとも、彼が古代言語の呪文を紡いでいたかどうかは定かではない。彼は、生粋の武装召喚師ではないのだ。武装召喚師に学び、鍛え上げられたのではなく、ひょんなことからそんな力を得たという。呪文を諳んじることさえできないかもしれない。
だが、そんな事実を知っているのは、この場ではシーラだけだ。
古代言語とは、聖皇による大陸統一と共通語の普及が始まるよりずっと以前に使われていた言葉ではあるが、シーラのような武装召喚術をかじった人間ならばともかく、一般的にはまったく理解できないものに違いない。彼が小声で唱えていたものが古代言語でなかったとしても、この酒場にいるものには、それが間違いなのか正しいのか判別できないのだ。
そして、セツナが召喚武装を現実に呼び出している以上、さっきの小声が呪文だったと判断するしかない。シーラ以外のだれもがそう思っただろう。
「武装召喚術……だと!?」
「そういや、あの男、武装召喚師だといっていたが」
「だが、卑怯だろ!」
「そうだ、卑怯だ!」
直前まで観客に甘んじていた傭兵たちは、セツナが武装召喚術を披露するなり、怒号や非難の声を上げ始めた。一瞬前まで凍りついていた店内の空気が、一転してエスク寄りになる。いや、元々エスクにとって有利だったのだが、より一層、エスクを応援する空気が強くなったというべきだろう。シーラも、緊張した。肩に置かれた女の手が力んだからだ。
「卑怯? なんのことだ?」
セツナは、涼しい顔で観客を一瞥した。血のように紅い目には凄みがある。幾多の修羅場を潜り抜けてきたセツナには、傭兵どもの怒号などそよ風程度にしか感じないのかもしれない。
「死ぬ気で戦えっていったのは、あんたらの大将だぜ」
「そのとおりだ。俺は、本気で来いっていったんだ。相手が武装召喚師だってことも承知済みで、だ。武装召喚師の本気ってのは、素手で戦うことじゃねえよなあ」
エスクが心底嬉しそうに笑った。戦いが好きで好きでたまらないといった様子が窺える。シーラの同類なのは間違いなかった。シーラも、一度は本気のセツナと戦ってみたいと思っている。いつか、そのような機会が訪れないものかと想像するのだが、想像するだけで終わっている。セツナがシーラの主である以上、そういう機会が訪れることなどありえそうになかった。訓練でぶつかり合うくらいが関の山だ。それで満足するしかない。
「当然、こうなる」
「そして、後悔するのさ」
セツナは、黒の仮面で顔面を覆った。瞬間、エスクがセツナに殺到している。目にも留まらぬ早業だった。踏み込んだ音が遅れて聞こえてきたと錯覚するほどの速度。まさに神速といっていいのかもしれない。とても人間業には見えなかった。が、超人的な速度も、召喚武装を身につけたセツナを捕捉するには至らない。セツナは中空に逃れている。外套が悪魔の翼のように閃いた。
「空中に逃げ場はないぜ」
エスクが、蹴りをかわされた態勢のまま、獰猛に笑った。即座に体にひねりを加え、その場で跳躍する。そして、落下を始めたセツナ目掛けて空中での回し蹴りを叩きこんだ。直撃。身動きの取れない空中に逃げたのは、明らかな悪手だった。だが、シーラには、セツナがわざと攻撃を食らったように見えた。
セツナの体が、軽く弾かれたかのように吹き飛んでいく。エスクが追う。狭い店内。追いつくまでに時間はかからない。セツナが壁に叩きつけられた直後、エスクの蹴りが彼の腹に吸い込まれる。猛烈な一撃。だが、セツナは苦悶の声一つ漏らさない。エスクが飛び退く。追撃の好機をむざむざ手放す行動であり、シーラには理解し難いものだった。
「ちっ……まるで手応えがねえな」
エスクは、セツナを睨みながら、不満を露わにした。手応えがないとは、どういうことなのか。シーラは、エスクの二度の攻撃がセツナに直撃した瞬間を目撃していたし、それは紛れも無い痛撃だったはずだ。しかし、セツナにはまるで効いていないのが、彼の様子からわかる。セツナは、ゆらりと立ち上がると、外套を直した。それだけの余裕があるということを見せつけているのだ。
「死を相手にするとは、そういうことだ」
「死?」
「俺は死さ。あんたのな」
今度は、セツナが床を蹴った。エスク以上の速度で、エスクに殺到する。それは、飛来といってもよかったのかもしれない。セツナの体が大気を貫く音が耳を劈くほどだった。つぎの瞬間、エスクの長身がシーラの視界から消え失せたかと思うと、物凄まじい激突音が聞こえた。音のした方向に目を向けると、壁の周囲を粉塵が立ち込めていた。激突の衝撃で木の壁が破壊されたようだ。それほどの攻撃がエスクに叩きこまれたということだ。
セツナは、さっきまでエスクが立っていた場所に立ち尽くしている。
エスクはというと、背中から壁に激突し、そのまま体半分が埋め込まれていた。だが、それだけではセツナがエスクに勝ったということにはならない。なぜなら、エスクはほとんど無傷だったからだ。身に纏っていたボロ布がもはや使い物にならなくなり、その下に着込んでいた鎧が破壊されてはいたが、彼の体そのものは無事だった。
「なんつー力だよ、おい、冗談じゃねえ」
エスクは、壁の中からぬけ出すと、苦痛に顔を歪めることもなく驚嘆の声を上げた。驚きたいのはシーラのほうだった。
(なんという生命力だ?)
エスクの頑丈さには、驚きを通り越して呆れたくなるほどだった。どれだけ強固な鎧を身につけていようと、その装甲が破壊されるほどの衝撃を受ければ、通常、一溜まりもない。壁に激突しただけでも相当な痛みが生じたはずだ。しかし、エスクは平然としている。鎧もボロ布も使い物にはならなくなったものの、彼の肉体は壮健だった。
「いっただろ、俺は死だって」
「まだ、死んでねえぞ」
「まだ、な」
「あん?」
エスクが怪訝な顔になるのも分からないではない。しかし、シーラには、セツナの言葉の意味が理解できていた。
「動けば、死ぬぜ」
闇の人形のような物体が、エスクの背後に立ち、彼の首筋に手を当てていた。人形というのは、必ずしも正確な表現ではないかもしれない。しかし、人の形を模したそれを人形と呼ばずしてなんと呼ぶのか、シーラには思いつかなかった。五体があり、人間と同じような頭部には相貌がある。目から漏れる紅い光は、セツナの瞳というよりは皇魔を連想させた。四肢もまた人間によく似ている。ただし、極めて細く、肉も革もない骨だけのような頼りなさがそれにはあった。実際、骨だけのかもしれない。
しかし、そんな頼りない手が作り出す手刀は、まさに刀のような切れ味を見せるのも疑いようがなかった。シーラはかつて、それによく似たものを見たことがある。レム=マーロウの“死神”だ。しかし、セツナのそれとレムの“死神”が同質の存在なのかどうかはわからない。十中八九、違うと思えるのは、セツナのそれは召喚武装の能力によって生み出されたものであり、レムの“死神”は、シーラには理解し得ないものだからだ。
「これがその仮面の能力ってやつか」
エスクが、背後の闇人形を一瞥して、肩を竦めた。手刀を突きつけられてなお平然としているのは、彼にはそれの能力が理解できないからではあるまい。彼は、それの力を目の当たりにしている。エスクを壁に叩きつけたのは、闇人形の力なのだ。セツナの力では、あれほどのことはできない。
「そういうことだ」
「へっ。上等じゃねえか。やってみろよ」
「そんなに死にたいのか?」
セツナは、エスクの反応に心底呆れたようだった。いや、死を恐れもしないエスクとやり合うことになんの意味も見いだせなかったのかもしれない。彼はなにを思ったのか仮面を外すと、やれやれと頭を振った。エスクの背後に立ち尽くしていた闇人形が、空中に溶けて消えていく。エスクは、その様子を見て取ると、彼もまた、頭を振った。反芻するようにつぶやく。
「死にたい……? どうかな。どうだろうな。いや、あんたのいうとおりかもしれないな」
彼は、破壊された鎧を脱ぐと、いつの間にか彼の側に立っていた女に手渡した。シーラがはっとしたのは、その女こそ、シーラの背後にいた女だったからだ。シーラが女の移動に気づかなかったのは、セツナとエスクの戦いに気を取られていたからというのもあるだろうが、女の能力の高さも大いに関係しているだろう。
女は、エスクの鎧を大事そうに抱えている。その様子から、彼女がエスクを慕い、敬っていることがよくわかった。そして、彼女がエスクの意向を理解し、行動していることもわかった。
「死ぬべき場所で死に損なった挙句、酒に溺れ、色に耽ることしか考えられなくなった男には、死ぬ以外の道なんてあるわけねえのさ」
「だからといって、俺につっかかってくんなっての」
「だからさあ、これはけじめだっつってんだろー」
不服そうに言い返した後、エスクは、鎧を手渡した女に、何事かを告げた。なにかしらの命令を下したようであり、シーラは緊張を覚えたが、それは杞憂に終わった。女が、ドーリンやそれ以外の傭兵たちに店内の片付けを命じたからだ。ドーリンたちはなにか文句を言いたそうな顔をしていたが、女には逆らえないのか、それとも女の上にいる男が恐ろしいからか、しぶしぶ片付けを始めた。店内は、壊滅状態といってもおかしくはない光景であり、惨状だった。
「ったく、せっかくいいところだったってのに、覚めちまったじゃねえか」
「覚めたんならいいだろ。酔いを覚ましたかったんじゃなかったっけ?」
「そうはいったがな……まあ、いいや。久々に燃える戦いだったんだしな」
エスクはぼさぼさの髪をかき上げると、おもむろにセツナの首に腕を回した。そのまま首でも絞めるつもりなのではないか、などとは、さすがのシーラも思わなかった。剣呑な空気は、とっくに消え失せてしまっている。愚痴をこぼす傭兵たち、エスクの手前、はりきる女傭兵、天を仰ぐドーリン。店内の空気そのものも一変していた。
セツナとエスクの戦闘があのような形で終わったことで、緊張が解けてしまったということだ。
「よし、飲み直そう。俺のおごりだ」
「はあ? 酔いから覚めたかったんじゃねえのかよ」
「うん。だから、もう一度酔うんだろ?」
エスクの言葉は、支離滅裂としか思えなかったのだが。
「酒を飲みながら話そうや。ドーリンに聞きたいことがあったんだろ?」
「あんた……」
セツナは、エスクを見る目を変えた。
シーラもぎくりとした。エスクは、少なくとも、セツナとドーリンの会話の内容を知っていたということにほかならない。