第九百三十六話 シドニアの傭兵(四)
(酔い……か)
シーラは、エスクの言葉を胸中で反芻しながら、彼がセツナに襲いかかる様を見ていた。酔い。ドーリンも同じようなことをいっていた。セツナと部下の戦闘を目の当たりにして、酔いが覚めたといったのがドーリンだ。実際、ドーリンの酔客のような目は、セツナと対峙したときには、戦士の目に変わっていた。もっとも、肉体そのものが酩酊状態から抜け出せたわけではないのは、彼の戦いぶりを見れば明らかだったが。常にセツナに上を行かれた戦闘は、全体的に精彩を欠いたものであり、ドーリンの実力が発揮されたものでないことは、彼を詳しく知っているわけではないシーラにも理解できた。
皆、酔っているのだ。
酔っ払っているからこそ、シーラたちに絡み、このような状況に至ってしまったといえる。酔っていなければ、いくら荒くれ者集団の名を欲しいままにしているシドニア傭兵団であっても、酒場の片隅で震えている旅人にちょっかいを出したりはしないだろう。
エスクもまた、酔っているという。
しかし、彼の目は酒気を帯びてはいなかったし、身のこなしにも酔っ払っている形跡はなかった。素早く、鋭く、破壊的な動作でセツナに跳びかかり、強烈な蹴りを叩き込む。セツナは、避けきれないと踏んだのだろう、まったくかわす素振りも見せなかった。エスクの蹴りが来るであろう腹部を両腕で庇い、痛撃を避けた。が、腹への痛打こそ回避したものの、腕に重い一撃を食らったことに違いはない。セツナの苦しそうな表情を見る限り、しばらくは左腕は使いものにならないだろう。
「目は、いいな」
エスクは、セツナの反応を褒めた。確かに、二流、三流の戦士ならば、セツナのように腹を庇うことさえできないままエスクの蹴りを食らっていただろう。エスクの攻撃はそれほどに早い。予備動作がほとんどなかった。読み切れないのだ。
「が、それだけだ」
エスクは即座に身を屈めると、セツナの隙だらけの足を払った。だが、セツナはそれを読み切って、跳躍している。エスクの足が空振ったと思った瞬間、シーラは唖然とした。エスクは、足払いを途中で強引に止めると、その場で飛び上がり、空中でセツナを蹴り上げたのだ。円弧を描く蹴りの軌跡は、華麗としか言い様がなかった。セツナは、中空。当然、避けることもできず、縦回転蹴りの直撃を受けた。受けながらも吹き飛ばされなかったのは、右手が魔晶灯を掴んでいたからだ。エスクが着地する瞬間を見計らって、彼は右手を離した。垂直落下してエスクに襲いかかる。エスクは、抗わず、セツナの落下攻撃を受けた。いや、受け流している。どういう風に体を捌いたのかわからなかったが、エスクは、落下攻撃中のセツナの体を引き離していた。
「前言撤回だ。目だけじゃあないな」
エスクは立ち上がって拳を構えると、そういって口の端を歪めた。獰猛な笑みは、セツナを強敵と認識した証明なのかもしれない。対するセツナは、自分の身になにが起きたのかわからず、怪訝な顔になっていた。エスクに落下したはずなのに、気が付くと対峙しているのだ。疑問符を浮かべるのも当然だった。一連の動きは、シーラにも見切れなかったのだ。それは、エスクが、体術においても達人級の腕前を持っているということにほかならない。
「で、さっきからなにをぶつぶついってんだ? 戦いに集中しろよ。目の前の敵は、おそらくいままであんたが対峙してきたどこのだれよりも強いぜ」
エスクは告げて、セツナに向かって踏み込んだ。一歩。だが、その一歩の深さは、シーラが想像していたよりもずっと鋭い。つぎの瞬間には、セツナの腹部に拳が埋め込まれていた。
(セツナ!?)
シーラは、悲鳴を上げかけて、口を塞いだ。ここで彼の名を叫ぶことはできない。彼の正体も隠さなければならないのだ。セツナといえば、セツナ=カミヤしか連想できまい。ガンディアの黒き矛にして英雄である彼がアバードに潜入していることが知れ渡れば、大騒ぎどころでは済まないだろう。外交問題に発展するのは、火を見るより明らかだ。彼の正体だけは、最後まで隠し通す必要があった。
シーラが口を塞いだ瞬間には、セツナの体は吹き飛んでいる。まるで突風にでも遭ったかのように視界から消えた少年の姿を騒然とする店内から探し出すのは、簡単なことではない。今回は、先ほどのような物音も聞こえなかった。壁にでも叩きつけられたのではないか。そうなれば、痛みは増大する。腹への一撃と背中への痛打。ただではすまない。
シーラは、両手を強く握りしめて、自分の心の動揺を鎮めようとした。心配だった。どうしようもなく不安だった。ドーリンのときと違うのは、相手が相手だからだ。エスク=ソーマ。シドニア傭兵団が誇る“剣魔”エスクだ。並の相手ではないのだ。そんな相手と本気でやり合って無事で済むはずがなかった。
わかりきったことだ。
だが、シーラは、動けない。セツナを助けるために、あるいは戦いをやめさせるために動こうとすれば、彼女は、正体を明かされてしまう。背後の女にそんなつもりはなくとも、結果的にそうなってしまう。それだけは避けなければならない。ならないのだが、かといって、このままセツナを放っておくこともできない。
(安心せよ。主の勝ちじゃ)
「え……?」
シーラは、自分の胸元から聞こえてきた囁きの意味が理解できず、思わず疑問符を口にした。口にしてから、はっとなって口元を抑えた。背後の女には、シーラの声は聞こえなかったようだ。無論、ラグナの声も届いてはいない。
胸の下に陣取るワイバーンは身じろぎひとつしていない。まるでセツナの勝利を確信しているかのようであり、彼のそういった態度が、シーラの不安をわずかでも掻き消してくれる。
「おいおい、こんなもんじゃねえだろ? な?」
「ああ、こんなもんじゃないさ」
エスクの煽りに対して、セツナの返事は不遜極まりなかった。負け越しているにも関わらず、自分の立場のほうが上とでも言いたげな口調であり、それは、エスクの表情を愉快なものにした。シーラは、セツナの無事を声だけで確認して、安堵した。姿は、店内に見当たらない。シーラの視界外にいるのだろう。シーラは早く姿を見せて安心させて欲しかったが、セツナにはセツナの事情があるのだということも理解している。
やがて、セツナが柱の影から姿を見せた。無事だ。外傷も見当たらない。おそらく、腹部や背中には殴打された痕が残っているはずだが、外套の上からは見えないのだ。そうなると、損傷のほどは彼の表情から察するしかないのだが、彼は、勝ちを確信した笑みを浮かべており、どれほどの痛みを感じているのかはわからなかった。だが、セツナの笑みは、シーラを安堵させるに足る。彼が傲岸な笑みを浮かべている限り、だいじょうぶだろうという確信がある。そして、その確信は、瞬時に形となる。
セツナは、右手を自分の顔の前に掲げた。告げる。
「武装召喚」
(えっ!?)
シーラは、セツナが発した言葉と、その直後に起きた現象に驚愕した。その言葉は、武装召喚術における呪文の末尾である。術式を完成させる結語であり、異世界とこの世界を結ぶ最後の一言だった。通常は、その結尾に至るまでに長大な呪文を必要とするのだが、セツナは、その一言だけで武装召喚術を発動させ、黒き矛を召喚することができた。シーラが愕然としたのは、黒き矛を召喚するということは、正体を明かすということにほかならないからであり、セツナがそんなことをするわけがないと信じていたからだ。
そして、セツナの右手から爆発的な光が拡散し、酒場の中が白く塗り潰された。