第九百三十五話 シドニアの傭兵(三)
「そういや、まだ名乗っていなかったな」
エスクが、セツナとの間合いをはかりながらつぶやくようにいった。店内は静寂に包まれている。エスクのつぶやきさえも、はっきりと聞こえた。シーラの耳に届くのだ。セツナにも聞こえているだろう。
「必要か?」
「必要だろ。名は体を表すと言うぜ?」
「は」
「お気に召さないらしいな。まあいい。俺はエスク=ソーマ。シドニア傭兵団の団長代理を務めている」
エスクが名乗ると、歓声が上がった。歓声を上げたのはドーリンの部下たちだ。ドーリンの部下はエスクの部下でもある。彼らがエスクを応援するのは当然だったが、しかし、その歓声に緊張が混じっているのが奇妙に思えた。が、ドーリンとのやり取りを思い出せば、納得もできるというものだ。エスクは、部下に慕われているわけではなさそうなのだ。ただ、団長代理だから敬っているだけであり、それ以上でもそれ以下でもなさそうな関係性が見て取れた。やはり、シドニア傭兵団は、ラングリードひとりで持っていたということだろう。
酒場の店内。いるのはシドニア傭兵団の傭兵たちだけであり、店主や店員の姿は影も形もない。いつの間にいなくなったのだろう。シーラたちとドーリン一派との間に険悪な空気が流れ始めた頃には退散していたのだろうか。だとすれば、ドーリンたちが酔って暴れるのは、よくあることだったのかもしれない。そして、ほかに客がいなかったことを思い出せば、ここがドーリン一派の根城になっていたことも、よく知られたことだったのかもしれなかった。
セツナが、やれやれといった風に嘆息した。名乗られた以上、名乗るしかない。もちろん、名乗るとすれば偽名しかないのだが。
「……俺はニーウェ=ディアブラス。これでいいか?」
「上出来だ」
エスクが少し嬉しそうに笑った。対して、セツナは興味さえなさそうだった。
「なら、さっさとしてくれ。俺たちも暇じゃないんだ」
「暇じゃないならよぉ、なんで酒場なんかに立ち寄ったんだ?」
「暇潰しに決まってんだろ」
セツナの言葉は支離滅裂といってもよかったが、それは、エスクとの会話にわざわざ頭を使いたくないという気持ちからくるものだろう。
「だったら、これが最高の暇つぶしだろ!」
エスクが、床を蹴った。鋭い跳躍からの飛び蹴り。セツナは見切っている。右に動いてかわした。わかりやすい攻撃。見え透いた軌道。いかに達人級の戦士であっても、この程度の動きならばだれだって回避できる。
「もう飽きたって話だ」
「酔っぱらいのドーリン=ノーグを相手に勝ち誇ってんじゃねえ」
飛び蹴りをかわされたエスクは、すぐさま向き直ってセツナとの間合いを詰めた。
「だれが勝ち誇るか、だれが」
足払いを後ろに身を引くことでかわし、次撃として繰り出された回し蹴りも回避する。目にも止まらぬ二連撃だった。セツナが成長したからこそかわせたといっていい。昨年十二月の段階ならば食らっていたかもしれない。
「はっ、いい目をしてるじゃねえか! さすがにドーリンを倒しただけのことはある!」
「褒めるのか貶すのかどっちなんだよ」
「どっちもだよ!」
「部下が可哀想だ」
「可哀想なのは、俺も含めてだよ!」
「あんたもかよ!」
セツナは、エスクの言動に呆れたように声を上げた。彼は拳を構えたまま油断ひとつ見せないように注意を払っているものの、いまのところ、空気を掴んでいるのは圧倒的にエスクのほうだった。戦場を支配するのもまた、戦士としての力量が必要であり、そういう意味でもエスクのほうがセツナより上手なのは、シーラの目にも明らかだ。かといって、現状、シーラにはどうすることもできない。動けば、自分の正体が明らかになってしまう。シドニア傭兵団は、アバードと関わりの深い傭兵集団だ。シーラを一目見たことくらいなら末端の団員にだってあるかもしれない。少なくとも、エスクは知っているだろう。露見すれば、隠し通すことはできない。
「ああ、そうさ! 俺も、あいつらもみんな哀れだ。哀れにも団長に見捨てられ、哀れにも未来を見失い、哀れにも過去の栄光に縋るしか能のない連中になっちまった」
エスクが自嘲気味に叫ぶ。
それに対するセツナの反応は、いつになく冷ややかだ。
「そうかい」
「まったく、馬鹿げた話だよなあ、おい」
「知るかよ」
「ああ、そうだったな、あんたは部外者だ。部外者に愚痴るような話じゃあねえな」
といって、エスクは大袈裟に肩を竦めた。これみよがしに頭をかく。伸びきった長髪が揺れる。一見隙だらけの動作は、その実、セツナの攻撃を誘引するための動きに過ぎない。セツナもその程度は見切っているらしく、まったく動かなかった。
「部外者だってわかってんなら、解放してくれないか」
「だーめ」
「なんでだよ」
「けじめってもんがあるだろ」
「知るかよ。そっちがふっかけてきたんだろうが。人の女に手を出そうとしやがって」
(人の女……)
セツナがまたしてもそんな言葉を吐いたから、シーラは顔面が熱くなるのを抑えられなかった。わかっている。ただの演技だということは理解しているし、夫婦を演じようと提案したのはシーラ自身だ。セツナは乗り気ではなかったのだ。それでも、ここまで来た以上、乗るしかないと彼は判断したのだろう。彼なりにシーラの意向を汲んでくれているだけのことだ。他意などあるはずがない。
「あん?」
エスクが、表情を変えた。
「それ、本当か?」
「ああ。あいつが俺の女に手を出そうとしたのさ」
セツナが、戦場の外に引き摺られていった大男を一瞥した。セツナに真っ先にのされた男は、ドーリンの足元に座り込んで、きょとんとした顔でセツナとエスクの対峙を見ていた。なにが起きているのかわかっていないところを見ると、気がついたばかりらしい。
「なるほど。だから、あんたは怒り狂って俺の大切な子分どもをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、血の海に沈めていったわけだ」
「そこまでしてねえ」
「そりゃあ、全面的にこっちが悪いな。すまなかった」
「謝るなら、攻撃すんなよ」
セツナの言葉は正論としか言いようが無いはずなのだが、エスクのような相手にはまるで通じない言葉でもある。
「いや、だって、それとこれとは別の話だろ?」
エスクは、当然のようにいった。その反応は、シーラの予期した通りだった。セツナとの戦闘を所望している男が、みすみす彼を解放するとは思いがたい。エスクの不思議そうな表情を見る限り、彼には、セツナの正論がまったく理解できていないようなのだ。
彼は、それとこれとは別といった。
つまるところ、ドーリン一党の件と、エスクとセツナの戦いは、別の問題だということだ。
セツナには、エスクの反応こそ理解できない。
「なにが別なんだよ!」
「俺の戦いと、十二番隊の喧嘩を一緒にしてほしくはないなあ」
「俺にとっちゃ一緒だよ」
「へえ……」
エスクの気配が変わったと思った瞬間、彼の姿がシーラの視界から掻き消えた。机や椅子が盛大に転倒した物音で、エスクがセツナを蹴り飛ばしたことを知る。エスクはセツナが直前まで立っていた場所にあり、セツナは、直線上――ふたりの戦場外まで吹き飛ばされていた。転倒した椅子や机の中に彼の無事な姿を見いだせて、シーラは心底ほっとした。セツナは苦痛に顔を歪ませてはいるが、見た目に損傷は見つからない。食らったのは蹴りだ。ただの直線的な蹴りを受けて、吹き飛ばされた。だとしても強烈な一撃であり、一瞬、呼吸ができなくなるほどの激痛を感じたに違いないが、死ぬほどではない。
「これでも、同じといえるか?」
「はっ……確かにあんたは違うな」
セツナが凶暴な笑みを浮かべる中、エスクは彼に歩み寄っていった。無警戒な動作だったが、微塵の隙も見いだせない。エスクの一挙手一投足には一分の無駄がなかった。いや、無駄だらけの動作に見えるのだが、それこそ敵の油断を誘い、攻撃を誘う動きに過ぎないのだ。
“剣鬼”と並び称されるだけのことはある。
「強えよ」
「だったら、戦え」
告げて、エスクはセツナを起き上がらせた。シーラたちが固唾を呑んで見守る中、エスクはきょとんとするセツナから離れていく。そして、ある程度の間合いをとると、セツナと向き直って、拳を握った。
「死ぬ気で戦え。俺を楽しませてみせろ。俺の酔いを覚まさせてくれよ」
「死ぬ気で……な。いいぜ、その言葉、後悔すんなよ?」
セツナが不敵な笑みを浮かべた。シーラはセツナのその笑みに惹かれこそしたものの、セツナの行動そのものには否定的にならざるを得なかった。エスクの挑発に乗っているように思えたからだ。ここまでの戦闘で、力量差が理解できないセツナではないはずだ。セツナがそこまで愚かなはずはない。事実、セツナはエスクとの戦いを避けたがっていた。彼は、エスクが自分より強い戦士であり、太刀打ち出来ないということを把握しているはずなのだ。
それなのに、彼は不遜に笑っている。
傲岸な笑みを浮かべながら、なにかを口走っている。囁いている。
(なんだ?)
シーラの耳に届かないほどの小さな声で、なにかを発している。
「むしろ、後悔させてくれよ。じゃなきゃ、この酔いは覚めそうもないんだ」
エスクは告げて、床を蹴った。