第九百三十四話 シドニアの傭兵(二)
「だれが団長だって?」
剣呑な声が店内に響き渡ったかと思うと、店の奥の机が蹴倒された、激しい物音は、男の怒りを表現している。
「俺ァ、団長代理だ、ボケ」
「すっ、すんません!」
「謝るならよぉ、最初から間違えてんじゃねえっての」
男のどすの聞いた声音は、表面的な恐ろしさよりも、底冷えがするような響きがあり、シーラは我知らず自分の体を抱きしめていた。会話の内容から察する限り、シドニア傭兵団の幹部なのは間違いない。
(団長代理か)
団長ラングリード・ザン=シドニアは、エンドウィッジの戦いで戦死している。その後を引き継いで傭兵団を纏めているのが団長代理と名乗る男なのだろうが、感じる限り、ラングリードの代理が務まっているようには思えなかった。ラングリードが団長として君臨している時代ならば、このような状況すら生まれ得なかったのだ。ラングリードの統率力、支配力は凄まじいものであり、荒くれ者の集団という触れ込みのシドニア傭兵団も、彼の命令には一切逆らわなかったという。ラングリードが団長を務めていた時代、シドニア傭兵団の傭兵の中で問題を起こすものは殆どおらず。問題を起こしたものは、ラングリードによって処罰された。綱紀粛正こそがシドニア傭兵団に必要不可欠だと公言してはばからなかったのが、ラングリードなのだ。彼がいて、初めてシドニア傭兵団は機能していたのかもしれない。
現在の惨状を目の当たりにすれば、シーラはそう考えざるを得なかった。
「まあ、いい」
ようやく、シーラの視界に団長代理とやらの姿が映り込んできた。魔晶灯の冷ややかな光の下。長身の男が現れる。ぼさぼさの黒髪が腰の辺りまで伸びている。切るのも面倒なのかもしれない。切れ長の目は鋭く、研ぎ澄まされた刃のような眼光で店内を見回している。下唇の切り傷があり、それがその男の一番の特徴といってもよかった。一度見れば忘れようがない、という意味で、だ。
(エスク=ソーマ……だったか)
シーラは、男の容貌と唇の傷跡から、彼の名を思い出した。エスク=ソーマといえば、シドニア傭兵団の幹部中の幹部であり、団長ラングリードがシドニアの至宝といっていた人物だった。事実、剣の腕は超一流であり、“剣魔”の二つ名で知られている。“剣鬼”の二番煎じのような異名ということで、エスク本人としてはその名で呼ばれることを極端に嫌っているようだが、彼の実力が“剣鬼”に劣らないものだというのは確からしい。
セツナよりも余程長身で逞しい体格を誇る人物だ。全身、ボロ布のようなものを纏っているのだが、その下には軽装の鎧が見え隠れしている。武装。いざというときのためなのかもしれないが、そのような場面に遭遇する可能性が日常的なものだとすれば、彼の生活もまた、傭兵団の惨状と変わりないのかもしれない。しかし、だからといって、彼の力が極端に衰えているとは思いがたい。酔っていたドーリンやその部下とは違い、エスクの目は正気だった。
「あー……あんたがやったんだ、よ、な?」
「この状況を作ったっていうならそうだ」
セツナは、エスクに話しかけられても微動だにしなかった。怖気づくこともなければ、警戒感をぶつけることもしない。ただ、傭兵の顔面に埋め込んだままの拳を引き抜き、エスクの動向を見守った。エスクの実力を理解したうえでの行動には見えなかったが、彼ほど場数を踏んだ人間ならば、エスクの力量がどれほどのものなのか、認識できていないわけがない。力量差を把握したうえで、堂々としているのだ。
(さすがは黒き矛のセツナ――って感じだな)
シーラは、セツナの堂々たる態度に、彼を見直す気分だった。ドーリンとのやり取りからしてそうだが、シーラは彼を過小評価していたのかもしれない。もちろん、自分より低く見ていたわけではないのだが、どこかで彼を見誤っていたのは確かなようだ。
「ふうむ……とても、そんな力があるようには見えねえ……が、まあ、ほかに考えられるわけもねえ。それに、あんたからふっかけたわけじゃねえよな?」
「当たり前だろ。俺たちは酒を飲んでただけだ」
「だよな? んなこたあ、わかってんだよ。こんな馬鹿騒ぎを起こすのは、こいつら以外にゃあありええねえって」
エスクは、セツナのどこか刺々しい対応にも笑って返した。そういった言動の端々にエスクの度量の広さが窺える。団長代理を務めるだけのことはあるのだろうし、ある程度の器量がなければ、荒くれ者揃いの傭兵がついてくるはずもない。
「おい、ドーリンこのやろう、さっさと起きやがれ」
エスクがセツナの横を素通りし、床に倒れたままの毛むくじゃらの男に蹴りを入れた。軽い蹴りではあったが、革靴が素肌にめり込めば、痛いに決まっている。
「ぐう」
「ぐう、じゃねえ、寝たふりしてんじゃねえよ、ドーリン=ノーグ!」
ドーリンの寝息とも呼べないような反応に対しては、さすがのエスクも苛立ちを覚えたようだった。彼は右足を上げると、ドーリンの顔の上に持って行った。魔晶灯の光が遮られ、靴の影がドーリンの顔面を覆う。ドーリンはそれで察したらしい。慌てて飛び起き、顔面に靴を埋め込んでしまう。が、ドーリンは、顔面の痛みに構わず、エスクに話しかけた。
「これはこれは団長閣下じゃあございませんか」
「団長じゃねえっつってんだろ、こんにゃろー」
「はははは、お戯れを」
「てめえ、もう一度川底にしずめてやろうか」
「またまたぁ」
「……ったく」
エスクとドーリンのやり取りは、気心の知れた仲間同士のそれであったが、飛び交う言動には殺気が籠もっているようでもあり、シドニア傭兵団がどのようなものの集まりであるか、再認識させるようなものでもあった。
「で、なんでてめえらはこの少年に突っかかったのかね」
「いやあ、酔っていましてね」
「酔っ払って喧嘩をふっかけるなんざ、三下もいいとろだな、おい」
エスクはドーリンの顔を覗き込んだかと思うと、鋭い目つきで睨みつけた。部下であっても容赦しないのがエスク流のやり方らしい。ラングリードとはまったく違う方法だったが、ラングリード以外に同じやり方などできるわけもなかった。
「ははは、すみません」
「シドニア傭兵団の名は、いつからそんなくだらないものになっちまったんだ? え?」
「ですから、これはシドニア傭兵団としてではなく――」
「言い訳はいい。で、なんでまた、隊長のてめえが真っ先にのされてんだよ」
「二番目です」
「順番なんざどうだっていい。夢の楽園に先客がいようと、てめえがのされてた事実は覆せねえんだよ」
「真っ先っていうからです」
「質問にも答えず揚げ足取りたあ、いい御身分になったもんなあ、おい」
エスクは、呆れてものもいえないといった風に肩を竦めた。それから、セツナを指差す。
「それで、あれは強えのか?」
「あれ、とは武装召喚師殿に失礼ですぜ」
「武装召喚師? なるほど、そりゃ強いわけだ。てめえ如き三下がのされるのも当然ってわけだ」
「三下とは酷い言い様ですな」
「実際、酷い有様だよ」
エスクは、ドーリンの言葉を肯定しながらセツナを振り返った。ドーリンは、エスクの追及から解放されて、ほっとしたような顔をしている。そのまま立ち上がると、セツナが最初に倒した大男と、ついさっき撃破した巨漢の腕を引っ張り、移送を開始した。数名の部下がドーリンの行動に疑問符を掲げながらも付き従う。シーラも、彼がなぜいまさらそんなことをしているのか、いまいち理解できなかった。
「栄華を誇ったシドニア傭兵団の成れの果てがこれだ。なんでこうなった?」
「知るかよ」
「そうだな。あんたは部外者だ。知るはずもねえよな。わかってる。済まなかったな、うちの三下どもが迷惑をかけて」
「……まったくだ。けど、団長代理殿は話がわかる方でよかったよ」
セツナは、エスクの穏やかな対応に心底安堵したようだった。エスクの謝罪に嘘はなかったのだ。心から、部下の不始末を詫びている。シーラも胸を撫で下ろす気分だった。これで、この馬鹿馬鹿しい騒動から解放されると思ったのだ。
セツナは、強くなった。それはシーラも認めるところだ。セツナが師匠として“剣鬼”ルクス=ヴェインを指名したことはなんの間違いでもなかったということであり、“剣鬼”が師匠としての役割を存分に発揮したということでもある。酔っているとはいえ、歴戦の猛者ともいえる傭兵たちを相手に圧倒したことからも、彼が、黒き矛を持たずとも一線級の活躍が見込めるほどに成長したということは、疑いようがなかった。
しかし、だからといって、馬鹿げた争いに興じる必要性はどこにもないのだ。
と、思った矢先だった。
「ああ。団長代理だからな、俺は」
「なにすんだよ?」
セツナがエスクを非難したのは、彼がセツナに襲いかかったからだ。セツナは、間一髪のところで、エスクの蹴撃をかわしている。紙一重。右頬に血が滲んでいた。避けきれなかったようだ。
「部下の後始末も、つけなきゃいけねえ」
エスクは、セツナの頬を切った長い足を収めると、半身になって拳を構えた。そうなれば、セツナも拳を構えざるを得ない。状況が状況だった。逃げ場もなければ、逃げ出す隙もない。敵は目の前にいて、周囲には肉の壁がある。ドーリンの部下たちが、結果的に障害物となってしまっているのだ。
(冗談だろ!?)
シーラは、胸中で悲鳴を上げた。エスクは、“剣鬼”と並び称されるほどの豪の者だ。ドーリンやその部下とは比較にならないほどの実力者なのだ。セツナが戦って、まともにやりあえるような相手ではない。セツナに圧勝するシーラですら勝てないだろう。
(だったら……)
シーラは、セツナに加担しようと考えた。セツナは嫌がるだろうが、そんなことをいっている場合ではなかった。エスクが手加減をしてくれるとも思えない。
「……動かないでくださいね」
耳元で囁かれたのは、凍てついたような女の声だった。肩に手が触れている。女の手。細い指。しかし、握力は尋常ではない。
「はい?」
「少しでも動いたら、あなたの素肌をこのならず者の三下集団に晒すことになります」
女の声は、真に迫っている、虚仮威しなどではない。この女なら、いったことを実行するのは間違いない。素肌を曝されたところでどうも思わないのだが、素顔が明らかにされるのはまずかった。頭巾を取られるだけで状況は悪化する。
シーラは、王宮に入り込むまでは、正体を隠し通す必要があるのだ。
「どうして、そんなことを?」
シーラは、セツナとエスクの対峙を見据えながら、背後に意識を集中した。女は、シーラよりも上背があるようだ。戦闘者としての実力も、相手のほうが上のように思える。直感的なものだが、こういう場合、直感ほど頼りになるものもない。
「エスクが戦いたがっているから」
「そのためなら、なんだってする?」
女を振り返る。若い女だった。シーラとさほど変わらない年齢だろう。長身で、均整の取れた体つきをしている。それも鍛え上げられた戦士の肉体であり、シーラから見てもうっとりとするほどに無駄な肉が少なかった。戦いに明け暮れるシーラには夢のような体型だった。シーラの体には、胸や尻など無駄な脂肪が多い。
「そういうことです。ごめんなさいね」
「謝らないでください」
シーラが告げると、女は、不思議そうな顔をした。まさかそう返ってくるとは思ってもいなかったのだろうが。
「お返しは、あとでさせていただきますから」
シーラの一言に、女が獰猛な笑みを浮かべた。彼女もまた、シドニア傭兵団の荒くれ者のひとりなのだ。