第九百三十三話 シドニアの傭兵(一)
毛むくじゃらの男の拳が、豪快に空を切る。セツナが上手くかわしたからだ。だが、セツナは先の男のように懐に飛び込まない。毛むくじゃらの男に隙が見えないのだ。警戒が、セツナの攻撃を慎重なものにした。そんなセツナの対応の変化を見て取ったのか、毛むくじゃらは嬉しそうに笑った。セツナを一人前の戦士として認めている、そんな表情だった。
シーラは、胸の下で安住の地を求めて蠢くドラゴンの動きに困惑を覚えながら、セツナと毛むくじゃらの男の戦いに見入っていた。状況が状況なら、自分も加わりたかった。毛むくじゃらの男は、戦闘そのものを楽しんでいるのだ。怒り故の戦いではない。戦士としての本能が必要とした戦闘。空気が、先の男の戦いとはまるで違っている。
そしてその空気の変化は、酒場全体の空気そのものも変えてしまっている。
彼の部下たちは、毛むくじゃらの男が拳を振るうたびに歓声を上げ、盛大に応援した。毛むくじゃらの男の拳がセツナにかわされれば落胆し、セツナの蹴撃を受け止めれば、大声を上げて賞賛した。彼らもまた戦士なのだろう。本気のぶつかり合いを見れば、昂揚する気持ちを抑えられないのだ。
「ドーリン隊長、やっちまえ!」
「そこだ!」
「隊長、あぶねえ!」
「もっと深く切り込んでくれ!」
酒場を飛び交う部下たちの歓声のおかげで、毛むくじゃらの男の名前がわかった。ドーリンというらしい。
(ドーリン……聞かない名だ)
シーラは、セツナが客席に飛び乗ることでドーリンの大ぶりの一撃を回避したのを見ながら、毛むくじゃらの男の名を胸中でつぶやいた。もちろん、彼女がシドニア傭兵団の全団員の名を知っているはずもない。
タウラル要塞でのシーラ派の会議では、荒くれ者揃いのシドニア傭兵団からの参加者といえば、団長のラングリードくらいであり、副団長以下の幹部が姿を見せることは稀だった。部隊長以下となると、シーラと面識があるほうが少ない。ドーリンの発言から、シーラは、彼は幹部ですらないと踏んでいる、しかし、酒場には二十人近くの男がいて、それらがドーリンを慕い、隊長と呼んでいることから、部隊長くらいの立場にはあるようだった。でなければ、これだけの人数をまとめることもできないだろうが。
客席の上のセツナに向かってドーリンが襲いかかる。猛烈な突進は、触れるだけで吹き飛ばされそうな迫力があった。セツナは当然、正面切って受け止めようとはしない。跳躍し、ドーリンの頭上を飛び越える。ドーリンが口の端を歪めた。待っていましたとばかりに足を止め、その場で反転した。突進の勢いを瞬時に殺せるほどの脚力は、並大抵のものではない。シーラは瞠目するとともに、ドーリンの狙いを察した。彼は、セツナが着地する瞬間を狙っている。どれだけの達人であっても、着地の瞬間は無防備にならざるを得ない。が、ドーリンが向き直った先にセツナが降り立つことはなかった。
「なっ!?」
ドーリンが声を上げた瞬間、彼の頭上からセツナの体が垂直落下してきたかと思うと、振り下ろされた足が毛むくじゃらの男の頭部に直撃した。落下の勢いと全体重を乗せた一撃は、古強者を思わせるドーリンをも昏倒させるには十分な威力があったようだ。ドーリンは、なにが起こったのかわからないまま、その場に崩れ落ちた。セツナは、ドーリンの上に倒れそうになりながらも、なんとかその場に踏みとどまった。
シーラは、セツナとドーリンの頭上を仰いで、セツナがどうやってドーリンに読み勝ったのかを理解した。天井から吊るされた魔晶灯が激しく揺れている。魔晶灯の金具に掴まり、落下する時間、軌道をずらしたのだ。つまり、セツナは店内の様子を把握し、利用したということだ。これこそ、戦闘経験からくるものといっていいのかもしれない。
彼はドーリンを一瞥すると、こちらに目を向けてきた。勝利の報告のつもりなのかもしれないが、そのさい、彼が浮かべていた笑みに、シーラは意識を奪われかけた。あまりにあざやかな攻撃だったのもあるが、それ以上にセツナの爽やかな笑顔は魅力的としか言いようがなかったのだ。
はっとなったのは、セツナの背後に巨漢が忍び寄っていたからだ。血走った目は、男が怒り狂っていることを窺わせる。そして、セツナに接近している男が、その巨漢だけでないことは周囲の物音や気配で知れた。ついさっきまでドーリンを熱心に応援していた観衆は、ドーリンがのされたことで色を失ったのだ。
「てめえ……!」
「よくも隊長をやりやがったな……」
「ただで済むと思うなよ」
「安心しろ、てめえをやったあとで、あの女はかわいがってやるからよ」
「……はあ」
セツナは、やれやれとでもいいたげに頭を振った。その挑発的な態度は、男どもの怒りを買うには十分過ぎるのだが、当然、セツナも理解しているだろう。
「なんだてめえ!」
「そういうの、三下が吐きそうな台詞だと思ってな」
「馬鹿にしてんのか!」
「隊長を倒せたからって調子に乗ってんじゃねえぞ!」
「この数を相手に――!」
背後の巨漢がセツナに跳びかかろうとした瞬間、セツナの振り向き様の飛び蹴りがその男の顔面にめり込んでいた。
「うるせえ」
「ぐえ」
潰されたカエルのような悲鳴を上げながら、男の巨体がくずおれる。その男は、ドーリンの部下集団の中で一番の大男だった。おそらく、一番の戦力でもあったのだろう。直前までセツナに襲いかかる気満々だった男たちの動きが鈍った。気勢を削いだのだ。
「ったく、ドーリンって野郎は話のわかりそうな奴だったのに、てめえらときたらどいつもこいつも……こいよ。全員まとめて相手したらあ!」
セツナは、自暴自棄になったかのように恫喝すると、男たちは一瞬怯んだ。が、すぐさま思い返したようにセツナに向かう様子を見せた。数の上では圧倒的に有利なのだ。戦場も決して広いというわけではない。数を頼みにすれば、どれだけの強者が相手だろうと勝てないはずがなかった。シドニア傭兵団の傭兵たちがそう思うのも無理はないし、シーラもそう踏んでいる。
(まずいな……)
シーラは、セツナがなにを考えて男たちに喧嘩を売るような発言をしたのか理解できなかった。一対一なら、セツナにも勝ち目はある。ドーリンとの戦いを見る限り、シドニアの傭兵たちよりも余程場数を踏んでいるのがわかる。傭兵たちではおよそ想像もつかないような死線を潜り抜けてきたのがセツナなのだ。だからこそガンディアの英雄たりえるのであり、飲んだくれている傭兵とは比較するべくもない。
しかし、多勢に無勢は世の常だ。どれだけの強者であっても、これだけの数を相手に立ち回るのは至難の業といってもよかった。だが、状況は動き出している。ドーリンの部下たちは、セツナを包囲するべく素早く移動していたし、中には既にセツナに襲いかかったものもいた。
「おいおい、俺のいない間になんだか楽しそうなことになってんなー」
不意に響いた声が店内にもたらしたのは、圧倒的といってもいい緊張感だった。空気が張り詰め、傭兵たちの動きが硬直する。シーラはなにが起こったのかわからず、セツナを見た。セツナは、背後から飛びかかってきていた男の顔面に拳を埋め込んだ姿勢のまま、こちらを見て、小首を傾げた。
「こりゃあどういう状況だよ?」
声は、店の入口ではなく、裏口の方から聞こえてきていた。シーラの席からはよく見えないが、セツナの立ち位置からなら見えるだろう。セツナが警戒を強めたのは、その声の主を見てからだろう。
「エスク団長……」
だれかが発した言葉に、シーラは警戒心を強めた。