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第九百三十一話 シーゼル(二)

 シーゼルは、アバード領の南西に位置する都市だ。

 アバード領内の名のある都市のひとつであり、大陸の都市の例に漏れず、堅牢な城壁に囲われている。城壁は皇魔の襲撃を未然に防ぐというだけでなく、軍事拠点として利用するためでもある。シーゼルは、長年に渡るザルワーンとの領土争いの中で、幾度と無く戦火に包まれた都市でもあった。

 しかし、ここ数年、ザルワーンとの戦いは、国境の森を巡る小競り合いに終始しており、シーゼルの市街地が戦場になるようなことはなかった。そのため、シーゼルを離れていた住人が戻り始め、この一年余りで往年の活気を取り戻しているという。

 ザルワーンがガンディアに敗れ、ザルワーン領土を平定したガンディアが、アバードに対して友好的な態度を取っているということも大きいだろう。ガンディアがアバードの友好国で在り続ける限り、ガンディア領と接しているシーゼルが戦火に包まれる可能性は極端に低い。

 アバードの西隣にはシルビナという国がある。シーゼルは、シルビナとの国境にも近く、シルビナからアバードに軍が差し向けられた場合、真っ先に攻め込まれるような位置にあった。シルビナとはザルワーンほどの敵対関係にはなかったものの、だからといって必ずしも友好的な関係でもなかった。シルビナの政情次第では、いつ攻めこまれてもおかしくはなかった。しかし、ガンディアという強国が後ろ盾となったいま、シルビナが攻め込んでくる可能性は極端に減ったといっていい。シルビナが攻め寄せてきたとして、ガンディアに救援を頼めば、即座に撃退できること請け合いだ。そして、報復措置としてシルビナ領に攻め込むことになったとしても、ガンディアが力を貸してくれるだろう。アバードは、強力な盾と矛を得たのだ。

 そういった事情がシーゼルの賑わいを生んでいる、というような話を耳にしたのは、情報収集の最中だった。

「情報を集めるってもな」

 対面のセツナが椅子にもたれかかりながら天井を仰いだ。まさに途方に暮れているといった有様だったが、彼がそうなるのも仕方のないことではあった。そして、そのことでシーラに発言権はなかった。それもこれも、シーラがはしゃぎすぎたのが原因だったからだ。

「ええ……困りましたわね」

 シーラは、外套の頭巾を目深に被ったまま、果実酒を口に運んだ。ふたりは、王都に関する情報を集めるため、《銅の揺り籠》という名の酒場に足を踏み入れていた。シーゼルの市内を歩き回ったところで、大した情報を得られかったこともあるし、話を聞こうにも、衛兵との一件が広まりすぎていた。ヴァルターから龍府を目指す新婚夫婦が王都の事情を探るのは、あまりに不自然なのだ。もちろん、ヴァルターからシーゼルに向かう道中、王都に立ち寄らないという経路もないではない。しかし、たったふたりで、しかも徒歩でとなると、王都に立ち寄り、休息を挟まない訳にはいかないと考えるのが普通だ。その上、新婚旅行となれば、王都バンドールを一目見ようとしないはずがない。シーラが衛兵を振り切るために考えた設定の数々が、ここに来て足かせとなっている。

「目立ち過ぎだな」

「すみません……旦那様」

 セツナの嘆息には、シーラはそういうしかなかった。衛兵の追及を逃れるためとはいえ、はしゃぎすぎたのは間違いないのだ。他に方法がなかったとも言い切れない。情報収集のために立ち寄ったというのに、目的の情報収集さえ覚束ないなど、笑い話にさえならなかった。

「……調子が狂うな」

 セツナがこちらに顔を近づけてくると、囁くようにいってきた。シーラの言動が、だろう。彼の言いたいことははっきりとわかった。シーラ自身、むず痒い感覚がある。新婚の妻を演じているのだから、当然なのかもしれない。もちろん、結婚経験などないシーラには、想像上の新婚夫婦でしかないのだが。

「ここにいる間は、我慢してくださいな」

(そうじゃぞ)

 ラグナの小声は、騒々しい酒場の中では、シーラとセツナの耳にしか届かなかった。彼の小声を聞くと、森を震わせるほどの大音声のことを思い出して、疑問を感じてしまう。彼の小さな体のどこにあれほどの音量を発生させる力があるのだろうか。

(わしだって、我慢しておる)

「はは……はあ」

 セツナが、困り果てたように笑った。ラグナは、彼の服の中に身を隠している。手のひらに乗るほどの小さなドラゴンだ。いくらでも隠れようがあったし、一度隠れると、シーラですらどこにいるのかわからなくなってしまった。彼は、セツナの命令にはしっかりと従うのだ。下僕を自称するだけのことはあるし、自称下僕壱号ことレム=マーロウと気が合うのも必然のように思えた。

 そんなひとりと一匹の奇妙な下僕を持つ黒き矛の使い手は、果実酒を口に含みながら、それとなく店内を見回していた。シーラも、頭巾で顔を隠したまま、酒場内の様子を見ている。《銅の揺り籠》という店名の由来は、店の構造から把握するのは難しい。別段凝った作りをしているわけでもなければ、なにか特徴的な装飾があるわけでもない。どこにでもありそうといえばありそうな酒場だった。店自体は広く、客席が無数にあり、その殆どが埋まっていた。しかも屈強そうな男ばかりであり、彼らは酒を飲み、料理を喰らいながら、大声で話し合っていた。怒号が響くこともあれば、下卑た笑い声が聞こえることもある。そういった話し声の中から王都に関する情報が拾えたりしないものかと思ったのだが、あまりにうるさすぎて、聞き取ることさえ困難といった有様だった。

「入る店を間違えたかもな」

「ええ……少し様子を見て、店を移しましょうか」

「そうしよう」

 セツナが小さくうなずいたときだった。

「よお、あんたらが噂の新婚夫婦か?」

 不意に、話しかけてきたのは、隣の客席に腰掛けた男だった。通路を挟んだ向こう側で、手を挙げている。毛むくじゃらの大男で、見るからに屈強な戦士といった風情があった。男はひとりではない。仲間らしき男たちと飲み食いしながら、笑い声をあげていた一団のひとりだ。飲み始めて随分経つのだろう――赤ら顔だったが、鈍い眼光が、男がただの飲んだくれではないことを窺わせた。

 シーラが警戒したのは、男の値踏みするような視線に晒されているからだ。いや、視線の主は、その男だけではない。酒場の客のほとんどが、シーラたちに注目し始めていた。

「北門の衛兵とやりあったらしいじゃねえか」

「衛兵と? なんだそりゃ」

「なんでも天下に名を轟かせる武装召喚師様だとか」

 男が笑うと、周りの男たちが追従笑いを浮かべた。それだけでその毛むくじゃらの男と周囲の男たちの関係がわかる。男がこの集団の頭目かなにかなのだ。どういう集まりなのかはわからないが、少なくとも民間人でないことは確かだ。男たちの鍛え上げられた肉体は、戦士のそれとしかいいようがない。

「へえ、武装召喚師様、ねえ」

「はは、あんなひょろひょろのやつが武装召喚師。笑わせる」

「笑いどころはそこじゃねえだろ」

 男がいうと、配下の男たちは顔を見合わせて、その男の真意を探った。男が一言発するだけで黙りこむのだから、その男がどれだけの権力者なのかがわかるというものだ。

「天下に名を轟かせる? 馬鹿も休み休みにしておけよな」

「はははっ、たしかにそいつは傑作だ。こんな傑作、年に一度も見れるもんじゃねえな」

 酒場中に笑い声が上がる。馬鹿にした笑い声だが、シーラは、なにも感じなかった。むしろ、頭目らしき男のご機嫌伺いしかできない連中を哀れに想った。無論、口には出さないし、表情にも出さない。頭巾を目深に被っているとはいえ、口元まで隠せているわけではない。

 そうすると、男の矛先がシーラに向かった。

「なあ、嬢ちゃんよお、そんなひょろい男に騙されてんじゃねえぞ?」

「そうだぜ。そんな奴が天下に名を届かせられるはずねえだろ」

「見たところ、なかなかいい体してるじゃねえか」

「確かに……もったいねえな」

「そうだぜ、そんなひょろいやつじゃあ、満足できねえんじゃねえか?」

 下卑た笑い声だ。

 寒気を覚えたのは、男たちの視線が体中に突き刺さってきたからかもしれない。もっとも、この程度の視線、嫌というほど浴びてきている。シーラは、アバードの王女だったのだ。王女として生まれながら、王子として育てられたということもあって、好奇の視線に曝されることには慣れきっていた。それでも、ここまで品性を感じない視線を浴びたのは、数えるほどしかないのだが。

 シーラが無意識に硬直していると、肩に手が触れた。

「なあ?」

 ぎょっとして振り向くと、数人の男がシーラたちの席を取り囲んでおり、そのうちのひとりがシーラの肩を掴んでいた。痛みを感じたのは、男が力加減というものを知らないからだ。睨もうにも睨めずにいると、セツナが立ち上がったのが気配で知れた。

「やめろ」

「あん?」

 男がセツナを睨みつけた。値踏みするような目は、セツナのことを見下した目に変わっている。その瞬間、シーラは理解した。彼らは、セツナの力量を見誤っている。

 セツナは席を立つと、シーラの肩を掴んでいた男の手首を掴み、シーラの肩から離させた。至極あっさりと、簡単に、だ。男がなにをされたのかもわからず唖然とするのも構わず、セツナが告げる。

「俺の女に手を出すな」

 予想だにしない言葉に、シーラは思わずどきりとした。だが、よくよく考えれば、セツナの台詞は間違いではない。いま、シーラとセツナは、新婚夫婦を演じているのだ。

「俺の女? はははははっ!」

 男は、セツナとの力量差もわかっていなかったらしい。セツナを嘲ると、セツナの手を振りほどくなり殴りかかった。屈強な戦士の巨躯が躍る。振り被られた拳が空を切り、

「女ひとり守れねえ奴が吐く言葉じゃねえ――」

 男の巨体が宙を舞った。

「――なっ!?」

 勢いよく酒場の床に叩きつけられた男は、一瞬、呼吸さえできなかったに違いない。凄まじい激突音が響いたかと思うと、木製の床に亀裂が入っていた。直前まで騒然としていた店内が、一瞬にして静まり返った。多くの男が、なにが起こったのかわからなかったのかもしれない。それほどの早業だっただけでなく、多くの客にとって予想外の出来事だったからだ。

 セツナは、男の強烈な打突を見切ってかわすと、その手首を掴み、背負うような要領で抱え上げ、勢いそのままに床に叩きつけたのだ。

「なんだって? よく聞こえなかったな。もう一度いってくれ」

 セツナが、床に叩きつけられたまま、立ち上がる気配さえ見せない男の顔を覗き込んだ。その赤い目が血のように輝いている。凄絶な笑みだ。セツナが戦場で見せる笑みというのは、獰猛で凄まじい。彼が数多の死線を潜り抜けてきた証明であろう。シーラは、セツナのその笑みを見るたびに、心を震わされた。

「て、めぇっ!」

「もう一度」

 セツナは、男の腹を容赦なく踏みつけると、その場に屈みこんで男の顔を覗き込んだ。

「いってみろよ」

 セツナのぎらぎらとしたまなざしは、それだけで価値のあるものであり、そんな目で見つめられたらシーラはきっと正気ではいられなくなること請け合いなのだが、残念ながら、その目は仲間や部下に対して向けられる類のものではなかった。

(セツナ……あれ?)

 シーラは胸に手を当てて、妙な手触りに怪訝な顔になった。自分の乳房に触れた感触ではなく、なにか硬質な物体に触れたような感覚があった。つぎにひんやりとしたものを胸の間に感じる。ふと、服の中を覗くと、胸の谷間からワイバーンの頭部がわずかに覗いていた。ラグナだ。

(ラグナおまえ)

 シーラが囁くと、彼は困ったような表情をしていた。

(御主人様がおぬしから離れるなというのでな)

(……ちゃんと隠れてろよ)

(わかっておる。任せよ)

 ラグナが胸の下に隠れる感触の奇妙さに身悶えしながら、シーラは視線をセツナに戻した。そして、目を細める。

 セツナは、毛むくじゃらの男と対峙していた。


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